

〜石原裕次郎からなかにし礼まで〜
第2回 更新! 03年6月06日現在 ![]()

























文学でいえば、プロレタリア作家の小林多喜二、詩人から小説家に
進んだ伊藤整、ほんの少しだが新聞社に勤めた歌人の石川啄木など
小樽に関わる著名人は多い。
映画でも小樽は、かけがえのない人々を生み出し、育てた。
監督では社会派の巨匠、小林正樹。ベルリン映画祭児童部門グランプリに
輝く「NAGISA」の小沼勝。名プロデューサーの水の江滝子。
俳優では、恋の逃避行で有名な岡田嘉子。スーパースターの石原裕次郎
などから、わずか5ヶ月の住民だった直木賞作家の、なかにし礼まで、数多い。
あの人もこの人も、素敵な小樽人だったことをここに紹介したい。
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● あがた森魚 ●
1948年留萌市生まれ、2歳から7歳まで小樽で過ごした。
1972年、大正ロマンの香りするフォークソング「赤色エレジー」
で歌手デビュー。その後は、俳優や映画監督としても活躍する。
監督作品には「俺は天使じゃないよ」(74年)、「オートバイ少女」
(94年)、「港のロキシーミュージック」(98年)。
出演作品に「夢千代日記ーTV版ー」(81年)、「夢見るように眠りたい」
(87年)、「つぐみTUGUMI」(90年)、「失楽園」(97年)ほか。
95年には、映画への情熱がピークに達し、ディレクターとなって
「函館山ロープウェイ映画祭」を開催した。
参考資料 小樽市立文学館刊
「あがた森魚2001年1001秒展望展」パンフレット
● 石原裕次郎 ●
1934年12月28日神戸生まれ。
37年5歳の時、小樽緑町へ移住。稲穂小学校2年生まで在学。
43年、父の転任で神奈川県逗子市へ移る。50年慶応大学入学。
55年兄の慎太郎の小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞。
56年5月、映画「太陽の季節」でデビューする。
その後、「太陽の子」「タフガイ」と呼ばれ、高度経済成長に
向かう時代の、映画の枠を超えた最大のヒーローとなる。
60年12月2日、日活の人気女優北原三枝と結婚。
61年1月、日活との契約のトラブルでフリーになる。
63年1月、石原プロモーション設立。
68年2月、三船敏郎プロと共同制作の「黒部の太陽」配収8億円の
大ヒット。72年7月、日本テレビ「太陽にほえろ!」開始。
73年2月東宝映画「反逆の報酬」が、最後の主演映画。82年7月、
アニメ映画「わが青春のアルカディア」に声の出演、1分半のセリフで、
1千万のギャラをとる。
87年7月1日、肝細胞癌にて死す。52歳という若さだった。
56年から82年まで103本の映画に出演した。
片足を軽く引き摺るような歩き方で、長い足がスクリーンから
やって来る感動は忘れられない。
87年8月,いち早く小樽文学館は「石原裕次郎追悼コーナー」
を設けた。同館館長が裕次郎の同級生で、 裕次郎フアンの筆者に
協力依頼がきた。「憎いあんちくしょう」に惚れている筆者は、
デビュー時が載っているファン雑誌「日活映画」を提供した。
91年7月、小樽港マリーナ隣に俳優、歌手として活躍した彼の
ゆかりの品々を集めて『石原裕次郎記念館』がオープンした。
館を代表するのは元北原三枝、裕次郎の愛妻の石原まき子夫人。
代表作はアクションから文芸作品まで数多く、特に「嵐を呼ぶ男」は、
後年渡哲也や近藤真彦主演でカバーされた。
裕次郎が小樽で過ごした家は2ヶ所ある。1つはもう取り壊された緑町の
家だが、もう1つは現在もある。筆者の友人が住まっているその家は
木造二階建てで、玄関左脇に子供の裕次郎を見守っていた一本の
白樺の木が最近まであった。木造の二階建てはそれだけで威厳が
あって見飽きない。
その場所は残念ながら友人のプライバシー保護のため秘密である。
参考資料 「キネマ旬報」87年9月上旬号(石原裕次郎追悼号)
ほか
● 岡田嘉子 ●
1903年広島生まれ。
大正7年16歳の時、小樽で新聞記者をしている父を追って小樽住民
となる。半年間婦人記者をしたのち、演劇を志し上京する。
その頃映画界は、サイレント時代。女性の役柄を男優が演じる「女形」
全盛の時代だった。1922年日活は「純映画劇運動」の波を受け、
「女形」俳優の首を大量に切り、舞台協会と提携、女優中心の
映画作りに向かっていた。
岡田はその中核女優として新派悲劇や、恋愛映画のヒロインを演じた。
当時、松竹の栗島すみ子と人気を二分した。
作品に「街の手品師」村田監督25年、
「日輪」「狂恋の女師匠」溝口健二監督26年など。
有名な「恋の逃避行」は38年1月3日、暗い日本軍国主義の最
中起きた。日本共産党員で舞台演出家の杉本良吉(32歳)と、3
7歳の岡田が手と手を取り合い雪のサハリン(樺太)国境ラインを
越え、ソ連領内に駆け込んだ。二人は事件の1年前に舞台の仕事を
通じて知り合い情熱の恋にいたった。越境後二人は離れ離れになり、
杉本はスパイ容疑で処刑され、岡田はモスクワで演劇活動などをし
た後、72年(昭和47年)11月35年振りに故国の土を踏んだ。
78年公開の「オレンジロード急行」(大森一樹監督)に、嵐寛
十郎と共に主演した。92年2月10日永眠。89歳。波乱の人生
に乾杯したい。
参考資料 キネマ旬報刊 「世界の映画作家31日本映画史」
北海道新聞社刊 「北海道大百科事典上巻」
● 木ノ内みどり ●
1977年3月、日活映画「野球狂の詩」で水島新司マンガの
ヒロインを演じた。女性プロ野球選手という架空の話だが、
女性投手水原勇気をボーイッシュな彼女はイメージ通りに演じた。
当時、アイドル歌手のひとりでシングルレコードを7枚出し、
テレビドラマにも出演していた。小樽市朝里中学校に在籍した。
身長162センチ、体重40キロ、サイズ76−56−82。血液A型。
参考資料 日活映画 「野球狂の詩」パンフレットより
● 小林正樹 ●
1916年2月14日小樽生まれ。
33年庁立小樽中学(潮陵高校)卒、早稲田大学文学部入学。
41年卒。古美術か映画か迷った挙句、松竹大船撮影所助監督部に
入社。42年、満州ハルピンに出征。45年宮古島で敗戦、捕虜となり、
46年11月復員し松竹へ復職。木下惠介監督に就いた。
52年11月「息子の青春」で監督デビュー、弱者という、歴史や権力に
押しつぶされて行く庶民の苦悩と生きざまを、多少のセンチメンタルを
残しながら、真正面からとらえた。社会派の巨匠である。
59年から61年にかけて大長編映画「人間の条件」を監督。
五味川純平の長編小説を6部作9時間38分にまとめた。満州で
関東軍に召集されたインテリの主人公が戦争と軍隊の非人間性に
必死に抵抗するという悲惨な戦争映画だった。
筆者は大学時代この作品を映画好きな友人たちとオールナイトで
一挙に鑑賞した。心が救われないで終わる作品だが、妻への愛情を
たよりに苦難の道を歩む主人公の姿に、兵士たちは決して国や、
理不尽な権力者の名前を叫んで死んだのではないと思った。
他の代表作は次のとおり。「壁あつき部屋」53年完成−56年公開、
「切腹」62年ーカンヌ映画祭特別賞ー、 「 怪談 」64年、
「上意討ち」67年、「日本の青春」68年、「いのちぼうにふろう」71年、
「化石」75年、「東京裁判」83年。
96年10月4日心筋梗塞のため東京世田谷の自宅で亡くなる。
80歳。遺作は「食卓のない家」(85年)。
三回忌を前にした98年春、監督が戦時中、出生先の旧満州で創作
した脚本「防人」の原本が見つかった。その本の余白には遺書が
書き込まれていた。
44年、死を覚悟で南方へ転戦するおりのこと、5分ほど上陸した
門司港の洗面所に、監督はひそかに風呂敷に包んだ脚本を置いた。
郵送料とお礼の10円札を貼り付けて。その包みは、戦争の混乱の最中、
見も知らぬ人の善意で無事監督の自宅に着いた。
監督の作品の底に流れるヒューマニズムは、このような極限状況に
生きながらも、人を信じて疑わないところからきているのではないだろうか。
同98年9月、小樽文学館で「鋼鉄(はがね)の映画人ー小林正
樹展」開催。
2001年1月、監督が青年時代と晩年を過ごした世田谷の文学
館で、遺品500点を展示した「映画監督小林正樹の世界展」が開
かれた。名女優、田中絹代は親戚にあたる。黙とう!
参考資料 キネマ旬報刊 「日本映画監督全集」
北海道新聞の記事 4点
● 小沼勝 ●
1937年小樽生まれ。
稲穂小学校卒、菁園中学校3年の時、東京へ移る。
日大卒業後61年日活に入社。
日活は71年8月 「八月の濡れた砂」を最後に一般映画の製作から
撤退、同年11月20日より路線を成人向きの「日活ロマンポルノ」に
変更する。
デビュー作「 花芯の誘い」(71年)は、その第3弾目として公開
される。以後、耽美派のすぐれた映像作家として注目される。
代表作の一つ「昼下がりの情事・古都曼陀羅」(73年)は、パトロンの
老人からも青年からも逃げて、自立していくヒロインを描いた作品だが、
女性の生理感覚を無数のピンポン玉の流れに象徴した。
また、女優の美しさを引き出す演出に定評がある。
ロマンポルノの代表作は他に「 花と蛇 」74年、
「さすらいの恋人・眩暈(めまい)」78年、「ベッド・イン」ほか多数。
ロマンポルノ製作中止の後は、フリーとなりテレビドラマや0Vで活躍、
2000年、12年ぶりに劇場用新作「NAGISA/なぎさ」で
銀幕に帰り咲いた。
「NAGISA」は、菁園中学の同級生の協力を得て、全国に先駆け
札幌「 ポーラースター 」、小樽「プレミアシネマズ」で’00年6月17日から
1ヶ月上映された。小樽では小、中学校で無料上映もされた。
同年5月、上映の宣伝に来樽された小沼監督とお話することができた。
「古都曼陀羅」のロケでのエピソードは面白かった。
重要文化財の寺院の前で、ヌードのシーンを撮った時は、下張り
だけの裸の女優さんにコートを羽織らせ連れて行って、人目を避け
瞬時に裸になってもらって撮ったそうだ。
「NAGISA」は、村上もとかの青春マンガが原作で、12歳の
少女のひと夏の成長物語だ。背景は60年代。当時の小道具が
緻密に積み重ねられ、レコードプレイヤーと海辺のガラス片が、
大人への、異性へのあこがれの入り口として象徴的に使われ、
主役の松田まどか(2000年度「キネマ旬報」女優新人賞)の
飾らない演技を得て、人々がまだ病んでいない60年代を丸ごと再現した。
2001年2月、第51回ベルリン国際映画祭児童部門でグランプリ受賞。
おめでとうございます!
02年、十勝管内鹿追町を舞台に「女はバス停で服を着替えた」
を監督した。
参考資料 北海道新聞の記事多数
キネマ旬報98年4月上旬号 「デビュー作の風景」
● 進藤英太郎 ●
1899年( 明治32年 )福岡生まれ。
本名、真藤辰五郎。生家の経営するカムチヤッカ漁業に従事し樺太や
シベリアで雑貨商を商い、帰国後小樽で海産物商として成功する。
幼い頃から芝居が好きで、舞台や映画の俳優となる。
映画は溝口作品に出演、憎まれ役を好演。出演作は、「浪華悲歌」、
「祇園の姉妹」ほか。「女の一生」で、1953年ブルーリボン男優助演賞。
後、テレビドラマでコミカルなガンコ親父を好演、ホームドラマに
かかせない脇役としても印象深い。
1977年没。
参考資料 北海道新聞社刊 「北海道大百科事典」上巻
● なかにし礼 ●
満州ハルピンに生まれる。1946年引き揚げ、同年10月末から
翌年3月まで実家の小樽市豊川町に住む。小学校2年生の時だった。
小樽のわずか5ヶ月間は、彼の人生で良くも悪くも転換期だった。
戦闘機乗りで復員した14歳上の兄が、家を抵当に増毛でニシンの
網を買う大博打に出て失敗し、小樽を離れる。このエピソードは後、
作詞家になってニシン漁の郷愁と、家族の過去をダブらせた会心作
「石狩挽歌」を書く原動力となる。
作詞の数は3千から4千に及び、代表作は「知りたくないの」
「恋のフーガ」「恋の奴隷」「北酒場」「グッドバイ・マイ・ラブ」など。
彼と映画との関わりは、自身のヒット曲を原案に脚本を書き、
主演もした日活ロマンポルノ「時には娼婦のように」(78年)で、
監督はこれまた小樽出身の小沼勝だった。
小樽を出て50年後、なかにし礼は小樽へやってきた。「石狩挽歌」の
歌碑が、祝津の旧青山別邸に建つことになったからだ。旧青山別邸は、
大正時代に建てられたニシン御殿で、歌にも彼自身にもふさわしい
場所だった。
最近は小説家として活躍、「長崎ぶらぶら節」(2000年)で
直木賞受賞。
参考資料 なかにし礼著 「兄弟」(98年)
● ナンシー梅木 ●
1931年(昭和四年)、富岡町に生まれる。
緑ヶ丘高女を卒業、終戦後兄の友人の米兵の感化を受け、
ジャズシンガーの道を歩む。1946年東京で勉強。55年渡米。
スカウトされて、ラジオ・テレビ番組に出演。57年、マーロン・ブランド
主演のWB映画「サヨナラ」に出演し、アカデミー助演女優賞を
受賞する。「サヨナラ」は、ジェームズ・ミッチェナー原作、
ジョシュア・ローガン監督作品で、日本ロケによる日米親善用作品。
時代は朝鮮戦争の頃、海軍米兵と日本女性との悲恋ドラマ。
参考資料 小樽市史 第10巻 菅谷英孝氏調べ
キネマ旬報 アメリカ映画作品全集
● 中村伸郎 ●
1908年小樽市稲穂町生まれ。
小樽で銀行頭取をしていた小寺家の八人兄弟の末っ子だが、
小学生の中ごろ、 長姉の夫・中村家の養子となって東京に住む。
中学時代から演劇に親しみ、「文学座」「劇団雲」「演劇集団円」
などに参加する。
映画には戦前から出演するが、注目されるのは戦後からで、
日本映画を代表する監督たちの作品に数多く出演した。
渋谷実監督の「本日休診」52、山本薩夫監督の「白い巨塔」78、
黒澤明監督の「生きる」52、「生きものの記録」55、「蜘蛛巣城」57、
「悪い奴ほどよく眠る」60、「天国と地獄」63。
小津安二郎監督の「東京物語」「早春」56、「東京暮色」57、「彼岸花」58、
「秋日和」60、「秋刀魚の味」62(アジア映画祭助演男優賞)
など。
気品にあふれた紳士といった容姿で、大学教授や重役など
適役だが、シニカルな役など柔軟な演技力をもつ名脇役。
91年7月5日82歳で亡くなる。
参考資料 キネマ旬報刊 「日本映画俳優全集・男優編」
● 西村青児 ●
1906年小樽市生まれ。
庁立小樽中学卒業後して、24年東亜キネマ甲陽撮影所へ入社。
日向錦之助の芸名で,たて続けに準主役級で出演する。
(「光に向ふ人々」27、「夜鴉」28、ほか。)
29年退社、30年、松竹蒲田へ入り西村青児と改名する。
渋い脇役として「風の中の子供」「浅草の灯」37、「暖流」39、
「黎明曙光」松竹ー満映提携作品ー40、ほかに出演。
戦後、松竹大船で「リラの花忘れじ」47、「駒鳥夫人」48、
などに出演したが、48年に死去したと伝えられる。
参考資料 キネマ旬報刊 「日本映画俳優全集・男優編」
● 八田尚之 ●
1905年(明治38年)12月2日小樽市稲穂生まれ。
小樽中学卒業後、法政大学・明治大学に学び中退。
シナリオの才能を認められ、「勝見プロ」を経て「マキノプロ」
「日活」「新東宝」などで活躍。
シナリオ代表作に、石原洋次郎原作の「若い人」、
井伏鱒二原作の「多甚古村」などがある。
舞台では戦後、「手織座」を結成。「ふるさとの詩」など、
情感豊かな作風で知られている。夫人は女優の室生あやこ。
66年に祝津鰊御殿に詩碑が建てられた。石碑に刻まれた
詩「がんぜ」は、少年時代のおもいでとウニを歌ったもの。
1964年58歳で永眠。
参考資料 北海道新聞社刊 「北海道大百科事典」ほか
● 碧川道夫 ●
1903年小樽市生まれ、父親の転勤で東京、大阪などに移り住み、
上智大予科を経て19年に松竹キネマに入社。
ハリウッドから松竹が呼んだ現役カメラマン、ヘンリー小谷に師事し
撮影技術を習得する。26年には劇映画撮影と平行して、京大医学部で
「肺結核手術」などの記録映画を製作する。そのリアリズムの視点を
生かして39年、農民映画の傑作「土」を撮影する(監督内田吐夢)。
53年日本で初めて「イーストマン・カラー」のフィルムを使用、
華麗な色彩で平安朝の王朝絵巻を撮影する(「地獄門」衣笠貞之助
監督作品ーカンヌ映画祭グランプリ受賞、アカデミー賞外国語映画賞受賞)。
65年には市川崑監督の、ドキュメント映画と芸術映画の視点を
クロスオーバーさせた名作「東京オリンピック」を担当、103台
のカメラを統括する技術総監督を務めた。
63年、内田監督、カメラマンの宮島義勇氏とともに「碧川映画科学研究室」
を開設。同年から68年まで日大芸術学部で講義した。
98年3月13日、95歳で死去。
映画「東京オリンピック」は、日の丸の旗が写る回数が少ないとか、
競技を忠実に写していないとか、映画に無知な人に不評だったが、
レースの順位に比重を置かず、競技する選手の表情をひたすらとらえた。
走るアベベ選手の顎を離れていく汗が、クローズアップの超スロー
モーションで撮られたシヨットは、人間って美しいと思わせて忘れられない。
詩人、三木露風は異父兄で、内田監督は義理の弟である。
参考資料 北海道新聞記事より
● 室田日出男 ●
1937年10月7日小樽市奥沢町生まれ。
父親は、石川県能登の庄屋の息子で、日露戦争をきっかけに
小樽へ渡ってくる。小樽では人を使い、運送業の「馬追」をしていた。
父は戦後まもなく亡くなり、潮見台中学1年のとき母も亡くなる。
札幌に移り、高校を卒業後姉を頼って上京する。
57年、東映第4期ニューフエイスに八百人に一人の難関を突破、
合格する。同期に山城新伍、佐久間良子、山口洋子などがいた。
58年「台風息子・修学旅行の巻」小石栄一監督作品で台詞のない
端役でデビューする。
41本めの「脅迫(おどし)」66年で深作欣二監督(03年1月12日
ガンにて亡くなる)にしごかれ演技開眼、やくざ役を演じる。
73年、深作監督の実録路線「仁義なき闘い」シリーズで、
あまたある助演人のなかで一際荒々しく、ふてぶてしい演技で
異彩を放ち注目される。川谷拓三、志賀勝ら脇役俳優グループ
「ピラニア軍団」を結成、主役を食う演技が迫力満点だった。
いかつい顔を逆手にしたコミカルな役もこなす。
テレビでも、「必殺仕掛人」74、「前略おふくろ様」75、
「祭ばやしが聞こえる」77などに出演、茶の間の人気を得る。
78年日活ロマンポルノ「人妻集団暴行致死事件」(田中登監督)で
主役を演じ「第1回ロマンポルノ主演男優賞」、92年「死んでもいい」で
第14回ヨコハマ映画祭助演男優賞受賞。
北海道新聞のインタビューに小樽での想い出をこう答えている。
「東京の生活のほうが長くなったけれど、おれが生まれた北海道
という土地に行くと、ほっとします。キリギリスを捕ったり、小樽の
街でいろいろなことをやった。小樽での時代、両親がいたころの
思いでは、楽しくて、すてきだった。どういう風に表現していいのか
分からないくらいのすてきさだった。」
筆者はこれを読んで失礼かもしれないが、ひらがなの多い文面に
親しみを感じた。漢字に変換する前の素直な気持ちのままで書かれ
ているからだ。今いちばん会いたい映画人のひとりだ。
2002年6月15日、64歳で永眠。
参考資料 キネマ旬報社刊 「日本映画俳優全集・男優編」
北海道新聞記事 「98故郷への手紙H 」
● 水の江滝子 ●
1915年小樽市花園町生まれ。
二年後東京ヘ出て、のちに「松竹少女歌劇」の大スターとなり、
ターキーという愛称で親しまれる。
戦後、日活でプロデューサー。
作品に1956年の「太陽の季節」があるが、撮影所に遊びにきていた
原作者の弟の石原裕次郎(当時、慶応大生)を見出し、
同映画に端役で出演させた。
引き続き、兄慎太郎に原作を書かせ裕次郎を主役に抜てき、
「狂った果実」を製作する。大スター石原裕次郎の生みの親だ。
58年、成城大生だった赤木圭一郎をも発掘し、スターに育てる。
参考資料 小樽市史第十巻
キネマ旬報845号 「にっかつ創立70周年記念号」
● 宮本信子 ●
1945年3月27日小樽市長橋町生まれ。
4歳まで小樽に住んだ。
女優として数々の名匠の映画に出演する。
「日本春歌考」監督大島渚(67年)、「あかね雲」篠田正浩(同年)、
「男はつらいよ純情篇」山田洋次(71年)などだが、一躍有名に
なったのは夫でもある伊丹十三監督(97年12月自殺)との一連の、
社会派エンターテイメント映画である。84年「お葬式」、87「マルサの女」、
92年「ミンボーの女」などに主演、堅実な演技で作品をささえた。
87年度「キネマ旬報」主演女優賞受賞。
参考資料 「お葬式」パンフレットほか
● 山中 恒 ●
1931年、稲穂町で生まれる。
日中戦争の始まった頃、(8歳)父親が北京で看板店を始めたのを
きっかけに、一家は湘南の地へ転居する。戦争中は(45年)疎開で
小樽を訪れ、小樽中に通った。
50年、早稲田大学へ入学、童話を書き始める。56年、
「赤毛のポチ」で日本児童文学者協会新人賞受賞。
児童文学作家として著名だが、映画との関わりも深い。
彼の原作をもとにして、4本の映画が創られている。
62年「サムライの子」。尾道出身の大林宣彦監督とは、
「転校生」82年、「さびしんぼう」85年、「はるかノスタルジィ」92年と
3作コンビを組んでいる。このうち、ほとんどの場面が小樽で
ロケされた(セットを除いて)「はるかノスタルジィ」は、原作が
SFの味覚のする若者受けのするものだったが、大林監督が大幅に
変えて、中年男の懺悔を主にした暗い映画にしてしまった。
「転校生」(原作名「おれがあいつであいつがおれで」)は、
偶然に性が入れ替わった少年と少女をコミカルに描き、異なる世界
(性や生 )を尊重しあって育つ愛を描き、「さびしんぼう」
(原作名「なんだかへんて子」)では、若い日の母に似た面影をもつ少女を
無意識に追っている息子と、夫の若い日のおもかげを息子に見るを、
輪廻の手法で感動的に描いた。ともに筆者の大好きな映画だ。
山中氏は自らを「児童文学者」と呼ばず、「児童読物作家」としている。
従来の児童向けの読み物が、大人から子供に一方的に押し付ける
ものであったことに反発、自分が子供であった視点で生き生きと
表現している。最近は「ボクラ少国民」72〜80年など、戦時下の
庶民生活を紹介することにも力を入れている。
『間違いなく湘南の地の校門を出て歩いていたのに、いつの間にか、
粉雪を吹き上げてくる富岡橋の坂道を下りながら、今日も三角山へ
スキーに行こうと思い、ふと気がついたら、もとの湘南のわが家の
前にいたりした。でも粉雪には石炭ガラのにおいや魚のにおいが
まじっていて、幻とは思えなかった。』と、小樽が恋しかった子供の
頃の想い出を書いている。
参考資料 市立小樽文学館刊 「山中恒の世界」
北海道新聞記事 「'98故郷への手紙@」
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*「小樽ゆかりの映画人」は、2003年6月調べで、
17名を数えました。これからも新しい情報が入りましたら
追加、更新いたします。
* 他に、映画評論家の品田雄吉氏も小樽ゆかりの人です。