宗教と内的体験


掲載日:2012年4月3日     



(本稿は「内なる神:霊学的瞑想論」として、スピリチュアリズム・ブログに掲載したものです。)


◆内面へ向かった人類


 《神秘家たちは内在の神について語るが、これは誤った考え方である。〈神〉ということばは、〈至高精神〉、全生命の背後にある〈一大観念〉、純粋思念という観点からみた〈全体〉、つまり、存在の一部始終が一つの心的概念として生み育てられているところの〈本源〉を意味するのである。宇宙におけるあらゆる行為、あらゆる思考、あらゆる事実、あらゆる部分がこの〈全体〉の中に含まれている。その中にこそあらゆるものの最初の概念が存在する。神秘家たちがこれを称して彼自身の内なる神なぞと呼ぶことは、途方もない戯言(たわごと)なのである。》(『不滅への道』第一章)

 マイヤーズ通信はばっさりと言っていますが、宗教的探究者が神秘主義に傾斜し、「内的体験」へ向かうのは、ある種やむを得ざる道ではないかと思います。
 特に、この2000年余の人類の宗教史は、「霊界との断絶」という大きな流れの中にありました。人間は、個人性や物質への知識という「成果」を得る一方、霊界・霊的存在との直接的交渉は不能になっていきました。
 仏教もキリスト教も、この大きな流れに加担しました。
 仏教は「死後世界を含む輪廻界全体を超越する」ことをめざしました。そのためには、自らの心を知り尽くし、無明を断滅することが必要だと述べ、超越世界への視線・言及を抑止しました(「無記」)。
 初期キリスト教は、「もうすぐやってくる神の審判」を強調しましたが、ユダヤ教に先祖返りすることで、その「神の国」が死後世界であることを隠蔽しました。国教化以降のキリスト教は、霊界および霊的存在を極端に狭小化し、そのアクセス権の独占を宣言することで、霊界・霊的存在との直接交渉を弾圧しました。

 その代わりに、仏教もキリスト教も、宗教の「内面化」を強調しました。仏教はすべての問題を「我欲・妄執」の問題としました。キリスト教はイエスの反律法主義・罪の内面化――「お前ら姦淫姦淫と騒ぐが、エロい気持ちで女を見るのも同じだろうが」――を受け継いで、内心の信仰を最重要の問題としました。

 かつては、儀式(祭り)をすることで、霊界・霊的存在は「そこに」立ち現われました。司祭者や巫女のみならず、参与者はカミや死者霊を「そこに」見たわけです(今でもごく一部ではこうした営みはあります)。
 しかし、それは「なぜか」不能になっていきました。人間は自ら独り立ちし、巨大な物質世界と対峙することになりました。科学が発達するはるか以前から、人間は、ごくわずかな達人や特殊能力者を除き、自らの外に「モノの拡がり」しか見なくなったのです。

 そうした中で、「超越世界」との交渉を持つには、自らの内面を頼るしかありません。内的体験の中に霊界や霊的存在が、顕われ、語りかけることを待つしかなくなったわけです。
 これはある意味では仕方ないことです。霊的感覚機能は霊的身体(エーテル体)に帰属するものであり、これが十全に働くためには、物質的感覚機能=肉体の活動がある程度抑制され、エネルギーや意識志向がそちらに奪われないようにしなければなりません。そのためには、意識志向を外界から内面へと向ける必要があるからです。

 ところが、この「内面の探究」も、位相の変化が起こったようです。そこでは、個人性の強化、つまり個人の心の内容量増加と独立化があったものと思われます。これはもともとヒトの進化過程の必然でした。ネコやイヌやイルカが豊かな内面を持ちながら、「集合魂の出店」というあり方を保持しているのに対し、ヒトは集合魂(類魂)からの独立性を強めていったわけです。
 この個人性の強化によって、内面の探究も、豊かなものになりました。感覚、感情、思考、直観、すべてが個人の独創的な達成となり、それらを吟味し、分析し、組み立て直すことは、個人の創造の歓びを味わえる「至福の泉」となりました。

 古代グノーシスが提唱した「霊・心・体」の三重構造とは、まさしくこうしたヒトのありようを的確に表現するテーゼでした。余の生物は霊と体でできているが、ヒトは心という中間物があるのだと。そしてヒトが生きることは、もっぱら心を生きることなのだと。

 内的世界の探究は、霊的世界・霊的存在との接触を求めるものではなく、「心」のありようの探究となっていきました。
 この趨勢は、仏教において顕著になります。ブッダ自身が、心は何から成り立っているかを仔細に観察し、後に十二因縁としてまとめられるような教説を提唱しました。その後の仏教は、最終的に唯識思想という巨大な体系にまで発展する「心の学」を作り上げたわけです。
 つまり、仏教は、「内的探究」の宗教となった。そして禅あるいは止観という瞑想を基本に置いた。

 瞑想というものは、古くからあったものでしょう。そして仏教以前の瞑想は、「心の探究」ではなかったはずです。それは、端的に言えば「脱魂」(体外離脱)をめざすものだったでしょう。
 脱魂をめざす行為は、古態的土着宗教にはよく見られます。ネイティブ・アメリカンの踊りや麻薬服用などはその典型ですし、古神道の「籠もり」にもそういった側面はあったでしょう。もちろん、仏教の中にも「脱魂」をめざす行法はあります。回峰行や不眠不休の読経など苛酷な身体行もそうでしょう。実際、『日本霊異記』には、修行中の脱魂体験を記したものがいくつかあります。
 脱魂というのは、霊体が肉体から離れることで、霊的世界や霊的存在と接触することができます。神々(高級霊)と対話・交渉したり、死者霊を捕まえて引き戻したり、未来を予見したりすることが可能になるわけです。
 ところが、仏教系の瞑想は、中途半端な脱魂志向を排除しました。禅が霊的世界や霊的存在との接触を「魔境」と表現したのは、その象徴的な例です。
 こうした志向性は、ブッダ時代に遡るものでしょう。古い伝承では、ブッダは「無所有処定」「非想非非想処定」の瞑想を学び、卒業したとされています。「何ものも捉えない」こと、さらには「主体さえも存在しない」ことをめざしたということです。これは、霊界・霊的存在との接触を否定し、それを超えた境域、人間の認知力では不可測な境域をめざすということです。仏教の「急進究極志向」がよく表われています。(ただし、ブッダは「自分の過去生や衆生の輪廻の姿を見た」と言っており、そうしたことが明かされる霊的世界を体験したと思われます。)
 こうした「究極の体験」が可能なのか否かは、わかりません。私は上座部系の瞑想でこうした境域に達したと言う人とお会いしたことがあります。嘘を言っているわけではないでしょうから、たぶんあり得るのでしょう。
 ただ、それを「脱魂」と言えるかというと、疑問です。スピリチュアリズム霊学で言えば(仮にマイヤーズ通信の霊界情報で言えば)、生きている者の魂が、通常の死後世界である幻想界やその上の形相界を超えて、高級霊界である火焔界や光明界へ行くことは、まずあり得ないと言わざるを得ません。また、仮にそうした高級霊界を覗くことができたとしても、それは通常の魂の知性では把握することができないし、かといってそれを「無」と捉えることもできないように思われます。

 つまり、仏教の瞑想は「脱魂」志向のものではないということになります。
 では、何なのか。それがめざしているのは純粋に心の働きの「一状態」ということになるでしょうか。対象を対象として捉えない、認識する主体も存在しない、そういった「心の状態」?
 まさしく究極の神秘主義です。「われ生くるに非ず、キリストわが内にありて生き給うなり」などといった生半可な状態を超えて、「われもなしキリストもなし」ということでしょうか。
 もちろんこれは説明も形容もできない神秘中の神秘で、その境地を体験した達人のみがわかることなのでしょう。「それは一瞬の体験ではないか」「戻ってきて何が変わるのか」といった論議をしてもあまり意味はないものかもしれません。体験した者だけが語れるものであり、究極的には体験した者しかわからないものであり、後は体験した者がどれだけのリアリティをもって語れるか、聞く側がどれだけのリアリティを感じられるか……神秘主義というものはそういうものでしょう。
 ひとつだけ、問うておきたい疑問があります。
 それは、「究極境域へ行かない瞑想――おそらくは大半の人はそれにとどまるでしょう――は、何を経験するのか、どういう意味があるのか」ということです。


◆霊学的に見た瞑想


 脱魂でも究極的主体消滅でもない、瞑想というものはあるでしょうか。それはどのようなものでしょうか。そこで霊的世界や霊的存在と接触することはあるでしょうか。

 様々な「瞑想の求道者」がいます。特に最近は、上座部系のヴィパッサナー瞑想や、ニューエイジ系の様々な技法などが注目され、それを探究し賞揚する求道哲学者がたくさんいます。
 そういった探究とその成果を論評したり分析したりする能力や資格は私にはありませんので、私自身の個人的体験から得た考察を少し書いてみます。

 瞑想によって人は無意識の領域に入るとよく言われます。これはある意味で正しいでしょう。ただ、この無意識とはどういうものかというのは、問題があまりに厖大で、よくわかりません。
 そこには、確かに、「私が生まれる時から現時点までの体験のうち、意識から排除されたもの」があります。ある系統の心理療法で行なわれる無意識探査はこのことでしょう。この中には、自ら体験したものばかりではなく、家族や時代環境から受けた想念や感情も含まれています。
 ところが、私の心の奥には、そういった「現世の私の個人的存在を超えた何か」が含み込まれています。ユングの言う「集合的無意識」がこれに当たるのかもしれません。ユングはそれを「元型」とか「神話」といったキーワードによって表現しようとしたと思われます。
 しかし、実際のところ、そこにはもう少し具体的なものがあります。それは、「前世の体験記憶」「中間世の体験記憶」「類魂の体験記憶」です。この「体験」は、必ずしも具体的事実を含んだものではなく、感情体験や想念などが主体になることが多いようです。
 私の中には、「かつて生きた私」の感情や想念があります。人を殺したり人に殺されたり、権力を振り回したり権力に踏みしだかれたり、愛したり憎んだり、夢を描いたり絶望したり、といった様々な体験から生まれた感情や想念があります。これはかなり厖大な内容のものです。
 また、いわゆる「中間世」、つまりは「あの世」の記憶もおぼろげながらあります。これは一般的には前世記憶よりさらに強く遮蔽されているものですが、そのかすかな記憶・印象はあるものです。
 さらには、中間世で交流したり、現世で超常的な方法で交信し合った「類魂」の体験記憶――特に想念や感情――も、非常にかすかなものではあれ、含まれているでしょう。
 私が瞑想によって意識の奥に踏み入っていく時、私はこうした様々な想念や感情を「再体験」することになります。そして同時にそこには「知識」「知恵」「叡智」といったものも含まれています。
 こうしたことを「再体験」することは、理想的に言えば、私の想念や感情をより豊かにし、また知恵もより複雑で高尚なものにすることになるでしょう。

 そしてここに、重大なポイントがあります。
 それは、誰しもが「中間世」の記憶を持っているということです。(「今回が初めての人」はひょっとしたらそれほどはっきりした記憶はないのかもしれませんが、よくわかりません。)
 人は死ぬと、あちらの世界に行きます。そしてなにがしかの活動をした後、再びこの世に生まれてきます(多くの人の場合)。そこで、人は(おそらく多くの人は)、「超越的存在」と出会っています。「守護霊」「指導霊」「本霊」といった、われわれから見れば神に近い存在と。
 つまり、あからさまに言えば、ほとんどの人は、「神の御使い」「諸菩薩・諸天」と、“会って”いるのです。
 中間世(つまり「あの世」)の記憶は、前世記憶よりはるかに強く隠蔽されます。ですから、われわれは通常、「自分がかつて、超越的存在と接触した」という記憶はありません。
 しかし、深く心の奥に分け入っていけば、それはかすかな形ではあるものの、出てくるようです。

 私は瞑想の中で、おぼろげではありますが何か強烈な光のような存在と対峙する感覚も体験しました。地上を足下に見下ろす高い峰の頂で、底のない空に向かって心を拡げると、そこに何か大きな存在がいることを感じました。
 それはどこか懐かしい感覚でもありました。
 確かにこれは、どこかで体験したことがある……

 一部の神秘家が、「神(仏)は内にある」「天国(浄土)は内にある」というのは、一面ではこのことを言うのではないかと思います。私たちの内に、超越者と会った体験がある。この世ならぬ光と色彩に満ちた世界にいた体験がある。

 それは単なるイメージに過ぎないのではないかと言う人もいるでしょう。心が描いたファンタジーだと。
 しかし、心というものは、案外しっかりしたものです。自前で創作したものと、そうではないものとは、うまく説明できないにしても、違うのだとわかるものです。

 「でっち上げではないにしても、それはおぼろげな記憶に過ぎないのではないか、それを想起したからといって、今の私が神(仏)や天国(浄土)に出会ったことにはならない」と言われるかもしれません。
 それはそうです。けれども、そういった記憶ないしイメージの中に深く入っていくと、どうも何かが起こるようです。
 魂の波長が変わる、そしてそこに通路が生まれる。
 実際、そういう場面で、私は「今現在の情況」に対応したメッセージをもらったことがあります。
 単に記憶の再体験ではない、そうした境域にいる時、遠くから、高くから、確かに何かの働きかけがある。

 想起が現在進行の現実になるという不思議な出来事は、催眠による中間世想起の実例でも起こることが報告されています。
 稲垣勝巳氏の『前世療法の探究』および続編『生まれ変わりが科学的に証明された!』では、里沙さんというクライエントが、史実と符合する過去生を語ったのみならず、過去生の言語(ネパール語)で会話するという、驚異的な事例が報告されていますが、そこでは、クライエントが中間世の記憶を想起している際、「守護霊」が現在形で話し出すという場面があります。そしてさらに驚くべきことは、守護霊がクライエントに憑依し、セラピストと会話をするということも起こっています。
 つまり、中間世を想起し、「光の存在が見えます」というような「記憶を語る」のではなく、「今、光の存在がこう言っています」という「現在形の会話」がなされているのです。
 これはきわめて特異な事例です。しかし、中間世=あの世を想起することで、あの世に現在形でつながるということが(稀にでも)あるということです。(このことに関しては、TSLホームページの「死後存続証明の新たな展開」及び「『前世記憶』の真偽を検証した日本初の試み」lを参照してください。なお、「中間世体験を繰り返すこと自体に治癒効果がある」とか「中間世で体験される意識状態は非常に高レベルのものである」といった指摘も興味深いものがあります。)

 催眠によって中間世体験に入ることができるのは、なかなか稀なことのようです。
 まして、瞑想によって――自己催眠によって――その体験を得ることは、かなり困難なものかもしれません。
 けれども、そのかすかな記憶を呼び戻すことはできる。その状態の「魂の波長」に自らを近づけることはできる。
 そしてその時に、われわれは、現在進行形として、「光の存在」からの働きかけを感じることができる。
 霊学的に見れば、瞑想とはそういうことなのではないでしょうか。


◆内的体験の限定性


 内的体験というものは、そこで体験されるすべてが当人にとっては意味があります。
 特に聖なるものの顕現や至福の体験は、当人にとって何ものにも代え難い貴重なものです。
 けれども、内的体験は万能のものではありません。

 まず、内的体験は、当人以外には伝わらず、直接的には他者に何のメリットもないということです。
 体験者がどれほど高い霊的世界に触れようと、どれほど深い真理に達しようと、それは他の人には伝わらず、時には「妄想」「嘘」と捉えられてしまいます。
 言葉による表現は、限定的なものです。体験が豊かであればあるほど、高度で複雑であればあるほど、言葉による説明・描写は不可能になります。
 ちなみに、現代の思想で、「言葉を超えたものはない」とか「人間は構造を超えることができない」といったことが言われますが――私も昔そう考えた時期がありましたが――、それは間違いだと思います。「イデア」は常に構造や表現を超えているのです。「私」もイデアであり構造や表現を超えています。(「私」はしばしば上部のイデアを受け入れる器になりますが、それでもその事態全体を言語で表現できるわけではありません。)
 仏教がしばしば「境地」という言葉を使うのは、このことに対応しています。それは確かに「不立文字」であり、「私のさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである」(律蔵にあるブッダの言葉)というものです。
 つまり、内的体験自体は、当人以外のこの世すべてにとっては、ほとんど無意味なのです。

 さらに言えば、内的体験は、当人の自己内においてすら、保持されません。
 ある体験をして、それに付随する様々な認識を得たとしても(高度な体験は確かに様々な認識をもたらします)、それらの認識は体験自体ではありません。体験自体を言語や感情記憶によって「完全に保存する」ことは不可能であり、当人がそれを「再びまったく同一のものとして体験する」ことはできません(心には「再現性」はありません)。
 もちろん、漠然としたイメージや感情・感覚状態の記憶によって、「私」はその体験を思い出し、瞑想の中で「あそこをめざそう」と志向することができます。けれどもそれによって似たような深さ・高さの体験をすることはできても、「まったく同一の体験」にたどり着くことはないのです。
 従って、ある内的体験の中で「至高の法悦」「究極の救い」を得たとしても、それは「保持」されません。もちろんそれによって様々な認識や感情・感覚記憶が得られ、それが当人の心を変革し、成長させることはあります(しかもそれは外界から簡単に得られる変化動因より深い力を持っています)。しかしそれは「体験自体」の法悦や救いではありません。
 だから、「さとった」人が転落する、「救われた」人が堕落するということは、起こりうることです。体験によって得られた認識や記憶を保持し、それによって自らを変えることがなければ、体験自体は風化していきます。
 これはたとえば「瞑想によって心の状態が浄化され、霊との交信ができるようになった」という場合でも同じです。何らかの事情で当人が心の状態を低下させれば、霊との交信は不可能になったり、低級霊に割り込まれるようになったりします。こうした事例はけっこうあります。
 もちろん、ある「高度な体験」をすれば、それによって魂が成長することは当るでしょう。しかしそれは、「魔法の杖」のように一気に魂を変化させるものではなく、その体験を糧にし、魂の活動領域を豊かにさせることで、成長するということでしょう。「瞑想による高度体験」が特権的な体験ではなく、どれだけ成長の糧になるかという点では、他の体験と同一地平にあるということです。

 これを敷衍していけば、「内的体験は現実変化を保証しない」ということがわかります。
 わかりにくい言い方ですが(ちょっと他の表現が思いつかないので)、「ある内的体験をしたから、現実的に○○が○○だ」ということは、単純に言えないということです。
 たとえば、変な例ですが、ある人が脱魂体験をして、死者が行く世界を見てきたとします(これは現在では「内的体験」でしょう)。それは、当人が「死者の行く世界がある」ということを納得するには充分でしょうが、だからといって当人が「地獄のような世界には行かない」ということにはなりません。それはその人の魂の状態が決めることだからです。その人が「魂は死なない」と確信することで生き方を変えた時、初めて現実が変化することになります。
 また、ある人が祈りの中で「救い主」の姿を見たとします。それは、当人が救われたことを意味しないでしょう。教義から言えば、審判は信仰と罪の計量によってなされるからです。「見た」ことによって信仰が不動になり、それによって当人の生き方が変わり、「罪が許される」ことはあるかもしれません。(「いや、義人のみが見ることができる」というのであれば、「見たことによって(当人がすでに)義人であることが証明された」ということであって、「見たことによって義人になった」ということにはなりません。)
 内的体験はあくまで受動的な「体験」であって、それによって魔法のように自己や外的世界が変わるという性質のものではありません。
 さて、そうなると、仏教の「さとり」はどうなるでしょう。
 「何ものも認識しない」さらには「認識する主体が消滅する」ことをめざす仏教の瞑想者が、それを達成したとして、それによって「私は輪廻を超脱した」ということになるでしょうか。
 仏教の教義では、「さとり」を体験すれば、「輪廻(および苦)が無明=欲望への執着から生じていることを知り、執着の対象が無(非実体)であることを知り、さらには我もまた無であることを知る。それゆえに無明を断滅して輪廻を脱する」とします(ただしこれは私が想定する標準的な教義であって、異説はたくさんあります)。
 しかし、「さとり」によってそうしたことを知る(もちろん体得的に知る)ことと、「無明を断滅する」ことは、同一ではありません。「さとり」が内的体験であるならば、それは様々な認識や感情・感覚記憶をもたらしますが、体験自体は保持されません。「さとり」体験の中で「無明を断滅した」としても、「私」全体はそれをなしていません。「私」が「無明断滅」するためには、認識および行為が必要でしょう(また過去のカルマの弁済としても行為が必要でしょう)。仏教の目標である「輪廻超脱」は、そうした認識および行為によってなされるのであって「さとり」単独ではないことになります。
 つまり、
 「さとりイコール解脱ではない」
ということです。
 (なお、これは別に新説(珍説)ではありません。ブッダも、「戒・定・慧」とか「八正道」を強調し、すべてを修して初めて「輪廻超脱」があると説いています。バンダ村での説法では、《四つのことわり、すなわち戒律、精神統一、智慧、解脱をさとらなかったから、わたしもお前たちも、このように長い時間のあいだ、流転し、輪廻したのである》と述べています。)

 (ただし、瞑想の中で、「現実を動かす」体験もあります。それは「霊的存在や霊的パワー」に働きかけて、現実に影響力を与えることです。たとえば、ギリシャの聖人ダスカロスが瞑想の中で宇宙ステーションの地上落下を防ごうとしたという話があります。これはもはや「内的体験」ではありません。脱魂ないし憑霊によって霊的存在に働きかけ、それによって現実を動かそうとする行為です。これは現代では内的体験に含まれてしまいますが、そうではなく、霊的現実での行為です。)


◆内面化の陥穽


 「内的体験」の最大の問題は、他者に伝えることができず、結局それに関して議論や反論といったものが不可能であることです。
 同じ個人がつむぐものであっても、「思想」というものは、一定の公共性を持ちます。それは前提・主題・合理的展開・傍証といったものを提示します。他者はそれを検討することができるわけです。
 しかし内的体験は、そういったものから「非連続」的に体験されるものです。ある主題を詰めていって、そこから合理的につむぎ出されるものではありません。むしろ、突然の到来、飛躍、非合理性というものが際立つことが多いものです。そして、それの表現も、体験が深く高いものであればあるほど、非合理的的なものになるようです。
 ですから、内的体験について、他者が論じたりすることは基本的にはできないし、公共の場で議論の対象にすることもできないでしょう。本質的に、他者にとっては無意味なのです。また、当然のことながら、複数の人の内的体験を比較して、どちらが深いとか有意義だとか言うこともできません。
 空海は室戸岬(?)で虚空蔵菩薩求聞持法を修した際に、「明星が口に飛び込んだ」と言います。黒住宗忠は病弱な心身を鍛えるために太陽に向かって祝詞を唱えていたら、太陽が腹に入ったと言います。こういう事例はあまたあるでしょうが、当人たちはそれ自体については何も述べていません。体験自体は述べられないし、述べても意味がないわけです。他者がそれを論じても意味はないし、そういった体験のどれが深いかを議論しても意味はないでしょう。

 「人間の内的体験には、共通する要素があるし、高低・深浅もある。内的体験、特に瞑想における体験に関して、われわれは地図を持ちうる」という人もいると思います。
 内的体験は当人の広大な内的世界の中で成立し、その内的世界は非常に多彩であるがゆえに、ある内的体験だけを取り出して客観的に評価することはできません。しかし、たとえば、「無我(非想非非想)」を求めるという前提に立ち、仏教的世界観をしっかりと持ち、徹底的な修行生活をしている中で、というふうに要素を限定していけば、その瞑想体験がどのレベルに位置しているかは判断できる。――そういう理論は成り立つかもしれません。
 おそらくそういうことはあるのでしょう。そして仏教を始め、世にある瞑想行法指導は、こうした考え方(前提や目的や世界観はそれぞれ違うでしょうが)に基づいているのでしょう。それを否定するつもりはありません。
 いささか疑義を生じるところは、人間の精神活動をそうやって限定することが、果たして望ましいことなのか、ということです。基準・標準を設けることが、逆に瞑想の中で自由に働く魂を抑圧にならないだろうか。特に、一生をかけてそれをやることで、魂の成長が歪んだものになったりはしないだろうか、と。もっともこうした問いは、宗教(およびそれに準ずるもの)に常について回るものなので、簡単には論じることはできないでしょう。

 内的体験を重視し、極端に内面化を進める宗教の問題点は、「内閉」に陥り、他者や現実が存在しなくなるということでしょう。
 すべてを内面化していくことは、単純に言うと、すべてを「私(観察者)」に起こった「事」だと捉えることになります。苦しみも愛も、「私」に起こってくる「事件」であって、そこに対象としての「現実」「存在」があるかどうかは、どうでもよいことになります。そこには「他者」も存在しません。他者というものは常にわれわれの認識や安定性を破壊するものであり、われわれ自身をいやいや相対化させる厄介なものですが、内的体験世界では、それは単に「刺激」に過ぎないものになります(わざとこのように捉え直すことで自己の心の理解を深める心理療法もありますが、それは一時的な対症療法です)。
 この転換は、けっこう頻繁に使われます。「仏(神)はわが心の内にある」「浄土(天国)はわが心の内にある」という言説は、神秘的体験の一表現としてではなく、現代の宗教の諸場面でさかんに発せられます。「浄土というのはな、何か遙か遠くにあるものではないぞ。そなたの心の中にあるんじゃ。そなたの心が澄み切った時、そこに現われるのがお浄土じゃ」という具合に。
 他界としての天国・浄土、超越的存在としての仏菩薩・神・天使、それらはもはや「存在」「他者」ではなくなります。「私」がそれを見、それを感じられれば、それでいいのです。その時、「私」の心は救われる。「私」の「存在」「現実」が救われるのではなく。(これ、へたをすると根性論になりますね。「つらいと思うからつらいんだ、根性を出せ」とw)

 こうした内面化は、人の精神の営みとして必要なものであり、時には「治癒」「救済」効果ももたらします。けれども、それに傾きすぎると、「自閉」を引き起こします。
 それは、他者とのやりとりを不可能にします。議論や反論が不可能になります。めざすのは「自己救済」のみとなり、他者への働きかけが消滅します。
 仏教はそうした危険性を孕んでいます。仏教は「解脱(自らの輪廻超脱)」を求め、内的観察・内的体験・内的認識を最重要な営為とするからです。
 これは実に奇妙なパラドクスです。「無我――自己を無と観ずること」をめざしていた探究が、いつの間にか「独我論――我しか存在せず」へと変身してしまうのです。
 (ただし、実際の――現実の日本の――仏教は、こうした「内的探究」というより、組織・システムへの参入・適応であるのかもしれません。)

 前にも触れましたが、こうした内面化による「存在」の消去は、現代の唯物論世界の中で宗教がつい取ってしまう「断崖への道」でもあります。私たち現代人は「確かに存在するのは物質だけ」と思わされています。かつての宗教が扱ってきた「見えない世界」「超越的な世界」は、タブー化されます。そこで「存在するか否か」という問い――異端審問官の問い――を回避するには、「存在するか否かは関係ない」ということにするのが解決策になります。「仏(神)や浄土(天国)が存在すると言っているのではありません。そういったことは私たちの心の内面の問題なんです」というわけです。
 けれどもそれは、宗教の自殺ではないでしょうか。

 内面化、内的世界の探究、内的体験の追求それ自体を否定しているのではありません。それはとても重要なこと、必須のことであり、それなくして信仰は成り立たないでしょうし、自己の霊的成長も阻害されるでしょう。
 ただ、内的体験還元主義は非常に危険なものであると思います。われわれは外界の「存在」、「他者」を否定することはできません。内的探究の際はそこから離れますが、われわれは常にそこに帰って行くことになります。世界や他者を「虚仮(こけ)」と見る立場は、「存在」である高級霊界に住む「他者」である高級知性から見れば、逆に「虚仮」とされるのではないでしょうか。

 スピリチュアリズムでは、瞑想(静思)は、自らの魂の声を聞き、その奥に守護霊(別に神と言ってもかまわないでしょう)の囁きを聞くこととされます。それだけのこと。特別な技法も、段階論もありません。そこで何を見たと騒いだり、それを他と比べてもしかたがない。
 もちろん、自らの心を内省し、無用な我欲を鎮めることも、勧められます。あまり執着しない範囲であれば、自らの人生や、過去世の人生や、類魂の人生を再吟味し、その意味を探ることもいいのではないかと思います。
 ただ、それは「専修」すべきものではありません。われわれは肉体を持ち、様々な欲求を持った人間として、他者とぶつかりながら現実を生き、それによって魂を成長させることが課題です。
 ありていに言えば、われわれ(ごくわずかな霊的達人を除いて)は幼稚園生なのだから、世界の究極を知ろうとか、知ったとか思わない方がいい。それよりは、じたばたして、楽しんで、自分を成長させることを考えた方がいいよ、ということでしょう。
 現実を離れるな、他者を消し去るな、それがスピリチュアリズムの警告だと思います。



           Copyright (c) 2012 TAKAMORI Koki

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