Zum Ding selbst

ものそのものへ

以下は、哲学に関心を持つ人へ向けての、もの研アピールです。とはいえ、哲学に関心を持たない人にも読んでもらえるよう記してあります。

■ 0.

現象学には、「事象そのものへ zu den Sache selbst」という、非常に有名なモットーがあります。
Res: もの研究会には、「ものそのものへ zum Ding selbst」という、あまり有名ではないモットーがあります。

■ 1.

カント以降、ものは、それ自体は認識し得ない「物自体 Ding an sich」として、我々の認識の地平として、或いは彼方として、我々からは遠ざかってしまいました。正確にいえば、「認識論的には」遠ざかってしまったというべきでしょうか。裏返して言えば、少なくとも近代以降の哲学において、ものは、常に認識の「対象 Objekt」という視点で捉えられてきました(中期以降のハイデッガーという例外を除いては)。

■ 2.

しかし、認識論的にはともかく、我々は日々、いろんな「もの」に囲まれて生きています。第一、この身体自体、ものと言えるでしょう。ものは、認識論的な隔たりとは裏腹に、我々のすぐ身近にあります。このような事実に、このアピールを記している私は、ある種の眩暈を感じてしまいます。ものは、遠いのに近い。近いのに遠い。この不調和。

その不調和は、ただ単に、認識論という(経験について反省を施した)次元と日常経験という次元を混在させた結果、つまり、メタ経験的次元と経験的次元とを混在させた結果にすぎないという、もっともな意見もあるでしょう。しかし、それでは、「ものの経験的な近さ」を、その質を損なうことなく考えるには、どうしたらいいのでしょうか。

■ 3.

その点で想起されるのは、他者という、これまた我々のすぐ近くにいる存在者のことです。なるほど、最近では「他者」という対象については、それを対象化しない仕方でのアプローチ、認識論的ではない仕方でのアプローチが模索されています(その場合、根本にあるのは倫理的関心だといえるでしょう)。

しかし、そうした他者へのアプローチが模索される際、何故か、「他者はものと違って別格だ」という具合に、他者とものとの差別化が図られることが少なくありません。ものは、どうにも侮蔑されがちのようです。

■ 4.

もっとも、ものはいつも侮蔑されているわけでもありません。ものが「私にとって意味あるもの」として理解されるとき、ものは哲学の中でも歓待されることがあります。

しかし、そのような歓待は、一見すると「もの」を扱っているようですが、実は、ものそのものではなく、ものを媒介として「意味」を扱っているにとどまります。何故なら、意味のないものは、やはり「単なるもの」として見捨てられているからです。ものそのものは、意味があろうとなかろうと、正面から受け止められているわけではないのです。

■ 5.

結局、これだけ近くにあるものは、その近さにもかかわらず、どうにも上手く扱いきれないままというのが実情のようです。ものに対して我々が抱く経験的な近さ。自己の身体の近さや精神の親密さとは別種の、「平凡な近さ」。その平凡さをそれとして考えるような思惟のあり方はないのでしょうか。

■ 6.

そこで、これまでとは違った形でものにアプローチする思惟のあり方が考えられねばならない、ということになります。そのアプローチのあり方は、具体的には全く分かりません。ただ、一つ言えることは、そのアプローチが「ものそのものへ」という方向を持っていることです。意味にも、像にも、表象にも、対象にも還元されない「もの」そのものへ。我々の最も身近にあるはずの「もの」そのものへ。そのような思惟のあり方について、少しばかり考えてみませんか。

■ 7.

Nicht "Zu den Sache selbst", sondern "Zum Ding selbst" !!
(「事象そのものへ」ではなく、「ものそのものへ」!!)

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