appeal from / for archaeologists

考古学者からの / へのアピール

以下は、「考古学者による / 考古学者のための」もの研アピールです。

■ 1. 「もの」と「解釈」のはざま

「ものをして語らしめる」といったたぐいのことばは、日本考古学を学んだことのある方なら一度は耳にしたことがあるでしょう。(もちろん考古学者は遺物だけでなく遺跡や遺構もあつかいますが、これすらも大地にのこされた痕跡ですから、それ自体語らないという点で「もの」に含めて考えることができるでしょう。)このことばは、私たちの学問の出発点は「もの」であって、「もの」=考古資料に立脚した実証的な研究をめざすべきだということ、したがって「もの」=考古資料の裏づけの欠いた研究は机上の空論であり、かたく戒めねばならないことを意味しています。このような「もの」に徹底的に即した帰納論的研究こそが、日本考古学の要諦でありました。

このような考え方は、現在においてもさほど違和感なく受け入れられているものでもあります。さまざまな議論の場において、私たちは、「ここに(遺物が)あるから、たしかなのだ」という主張をすることがありますが、これは「もの」の存在こそが、歴史的事実をもっとも雄弁に実証すると考えるものであり、まさにさきのことばどおりといえます。

しかし、同じ遺物に対し、まったく相反する見解が成立するということも、おそらく多くの考古学者は経験したことがあるのではないでしょうか。ある遺物をある考古学者はAという主張の根拠とする一方で、ほかの考古学者はまったく相反するBという主張の根拠とするといった具合です。

しばしばみられるこの現象は、ものを「語らしめる」主体が異なれば、異なる語りが成立しうることをあらわしています。「語らしめる」主体を問うたとき、冒頭に示したことばの意味も、微妙にずらされてゆくのです。つまり、単純に「ものをして語らしめる」といっても、私たちは虚心坦懐に「もの」にあたるわけではありません。つねに何らかの(解釈しようとする)「欲望」や「意図」(そしてこれは、どのように「読む」か、すなわちコンテクストにいきつきます)を抱いて「もの」に対峙しているということなのです。ほかならぬ「もの」(存在論的に確実だという意味で)であるために、私たちはともすれば忘れがちですが、「もの」と「解釈」のはざまに横たわる大きな懸隔について、私たちはもう少し意識的であってもいいのではないでしょうか。

■ 2. Res: もの研究会がめざすもの

ひとくちにコンテクストといっても、社会的、経済的、宗教的コンテクストなど、その実体はさまざまですが、それはつねに「もの」に先行してしまうものなのでしょうか。コンテクストこそが、つねに尊重されるべきものなのでしょうか。

「もの」とコンテクストが織りなす緊張関係を、それ自体をひとつの対象としてとりあげてみたいというのが、Res:もの研究会のひとつの目標です。両者の関係は、どちらかからどちらかへといった一方通行的な関係ではありません。コンテクストを先行させて「もの」をみることもたしかにありますが、「もの」の積み重ねによってあるコンテクストが形成されてゆくこともありますし、まったく未知の「もの」の場合、参照すべきコンテクストがないということもあります。また、あらたなコンテクストの発見によって、これまで顧みられなかった「もの」が再発見されるということもあるかもしれません。両者の関係はむしろ、相互交流的といえるかもしれません。この相互交流の具体像を明らかにするということは、これまでの方法論の反省にもつながるかと考えます。それゆえ私たちは、この点を研究対象としてとりあげてみたいと思うのです。

さらに、考古資料ではなく「もの」ということばを使うところにも、私たちの目標の一端があります。広義の歴史学、すなわち過去を知ろうとする知的営みは、現在の制度化された学問体系のなかでさまざまに分節化されています。文献史学、考古学、民俗学、美術史学などなど。いずれも前提となっているのは、過去を知るための素材の材質的な区分です。文献史学の場合は文字資料ですし、美術史学の場合は絵画などのビジュアルな資料です。それぞれの学問分野で何を扱うべきかがおおよそ決まっているのです。つまり、「もの」のもつ材質的特性(文字、絵画など)が、コンテクストに先立っているということです。そしてそれぞれの学問分野は、資料のもつ特性に適合した方法論を発展させてきました。

これは人為的に生成された枠組みですが、私たちは資料の材質的特性を越えて「もの」としてとらえなおすことによって、それを乗り越えられるのではと考えます。「もの」ととらえなおすことによって連帯が可能になり、それぞれの方法論のちがいをより明確に意識できるのではないでしょうか。私たちがあえて「もの」研究を標榜するのは、このような理由からなのです。

これは現在盛んにおこなわれている学際的研究という流れに含まれますが、私たちは「語る」領域の拡大だけにとどまらず、方法論的反省(あるいは革新)をともなった学際性をもめざしたいと考えています。何らかの歴史的解釈の是非を議論するよりも、各学問分野の方法論や意識のちがいを顕在化させてみたいと思うのです。

■ まとめにかえて

私たちが発足にあたって考えていることをいくつか書き連ねました。おそらく、多くの方々にはわかりにくいものではないかと危惧しております。それは私たち自身の方向性がはっきり定まっていないせいでもあるのですが、これまで問われることのなかった問いであるからこそ、研究会の方向性について可塑性をのこしておきたいという思いのあらわれでもあります。

ですから、これまで述べてきたことは、あくまでもひとつのたたき台として考えたことにすぎず、研究会の方向性を縛りつけてしまうことを意図するものではありません。たとえば、今まで「もの」とその(歴史的な)解釈を対置させて話をすすめてきましたが、そもそも考古学の基本である「もの」の記述ですら、何らかの解釈を含んでいますし、あるいは歴史性を抜きにして、今そこにある「もの」をあつかう学問分野さえ存在します。研究会の具体的な活動は、興味をお持ちいただき、参加していただける方々との対話を通じてともにつくりあげてゆきたいと考えています。

「もの」それ自身、あるいは上で述べたような「もの」とコンテクストとの緊張関係、あるいは異分野との交流・・・こういったことに関心をお持ちの方々の参加を、私たちは歓迎します。

研究会の方針としてひとつつけくわえておくとすれば、私たちは、何かの明確なかたちをむすぶ成果(論集の発行や大規模なシンポジウムの開催など)を必ずしも求めているわけではないということです。発足にあたり私たちが重視したいのは、自己の学問や方法論への「反省」(reflexion)と、他者との「対話」(dialogue)です。私たちは柔軟であろうとしても、ある学問分野に身を置くことで無意識的に身についてしまった思考体系や発想にとらわれがちです。私たちの身についた思考や発想とは異なる考え方もあるのだという発見を大事にしていきたいと思っています。その発見をどう育ててゆくかは、参加者のみなさまにお任せしたいと考えています。

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