review

深層/表層という隠喩
書評:Julian Thomas, Archaeology & Modernity, chap. 7

評者: 佐藤啓介

■ はじめに

最近、考古学者ジュリアン・トーマスが、以下のような著作を刊行しました。

Julian Thomas, Archaeology & Modernity, Routledge, 2004.

このうち、「深層と表層(Depths & Surfaces)」と題された第7章がなかなか面白い議論をしているので、ちょっとその紹介と評をしてみようと思います。まず、簡単に著者紹介と、この本全体の意図を説明してから、第7章の紹介に移らせていただこうかと思います。

■ 著者紹介

Julian Thomas. マサチューセッツ大学教授(考古学)。専門はイギリス・ヨーロッパ大陸新石器時代研究。著書にUnderstanding the Neolothic (1991), Time, Narrative, Identity: An Interpretive Archaeology (1996)など。『時間・物語・アイデンティティ』において、ハイデッガーを中心とする現代哲学をふんだんに活用しつつ、人間と物質の関係という観点からイギリス新石器時代研究に新しい解釈を投じ、注目を集める。

Archaeology & Modernityという本

タイトルだけを見ると誤解されそうですが、この本は、「近現代考古学」の本ではなく、「考古学という学問の成立条件が(西欧の)近代であること」を明らかにする研究書です。その意味で、メタ-考古学的な研究だと言えます。引用すると、

過去を明らかにするために獲得された方法論的・理論的スキルという点で、考古学がかなりの前進を示してきたことは確かだが、他方で私たちは、自分たち自身が現在活動している条件について、洞察が欠けていることが多いと言ってもよいだろう。……私がこれから提示しようとしている中心的論点とは、近代が考古学の可能性の条件であること、である。(pp. 1-2)

つまり、トーマスは、考古学(と今呼ばれている)というディシプリンは、西欧近代という条件にあったからこそ成立しえた、と言いたいわけです。もう一個、引用。

私が明らかにしようとしたのは、現在おこなわれている考古学が、単なる近代技術や近代社会関係の産物ではない、ということである。むしろ、考古学は近代の中心的な一連の理念に立脚しており、それがなかったとしたら、考古学はひょっとしたら存在さえしていなかったかもしれないのだ。(p. 52)

ただし、彼のいう近代、正確にいえば「近代化のプロセス」というのは、例えば社会学において古くはウェーバー、最近ではルーマンらが論じたような多次元的な複合的プロセスというよりは、デカルトに始まる「観念のパラダイムの変容」に切り詰められている節があります(例えば、「自然/精神」の二分法とか、個人という概念の発明とか、昔から頻繁に言われてきた古典的議論です)。この辺り、悪い意味でのハイデゲリアンとしてのトーマスの性格が現れてしまっているようで、残念です。

そのため、正直、「近代が考古学の可能性の条件である」という彼の主張は、かなり観念的な次元に止まり、結果、「近代哲学の諸特徴が、現行の考古学にも当てはまる」ということをひたすら反芻しただけ、という印象が拭えません。(無論、そもそも彼の近代理解そのものの観念性自体も、多々、批判されねばならないのですが、ここでは割愛)

そうした点で、実をいえばかなり「退屈」な本になってしまっているのですが、ただ、第7章「深層と表層」はなかなか面白い。他の章は、如何に近代の思考が考古学を構成している(とトーマスが考えている)か」が論じられているのに対し、逆に第7章だけは、「如何に考古学が近代の思考を構成してきたか」という論点が扱われているからです。というわけで、chap. 7: "Depths &Surfaces"(pp. 149-170)の内容をご紹介。なお、参考までに、本全体の目次も以下に掲載しておきます。

  1. The emergence of modernity & the constitution of archaeology
  2. Archaeology & the tensions of modernity
  3. The tyranny of method
  4. History & nature
  5. Nation-states
  6. Humanism & "the individual"
  7. Depths & surface
  8. Mind, perceptions & knowledge
  9. Materialities
  10. Towards a counter-modern archaeology: Difference, ethics, dialogue, finitude

■ 深層/表層メタファー

既述のとおり、第7章以前の議論は、「近代が考古学という知を構成した」という論点だったのですが、考古学と近代的知の関係は決して一方的なものではなく、考古学が近代の知を構成したという一面もあるとトーマスは言います。

それは、考古学が近代的的に対して、「深層/表層」という「メタファー」を提供したという点です。

しかも、このメタファーが特に活躍した場は、意外にも、(いわゆる近代的知の特徴といわれている)「精神/物質の二元論」の対極側、すなわち、「精神」の場であったことが、より問題を面白くします。

そもそも、考古学が提供するような「深層/表層」のメタファーが精神を語る際に活躍するようになるためには、いささか前史があります。それを箇条書きしてしまえば、

  1. 古くはアウグスティヌスに遡り、デカルトあたりから顕著になる「内的自我」の成立と、「内観(intro-spection)」という知的技法の発明
  2. 18世紀末あたりにおいて、「人類とは生物学的・社会的・文化的に多重決定されているという意識」が生まれてきたこと
  3. 2に伴い、「意識」が、表面の観察だけでは見えないものとして考えられるようになったこと

だといわれています。その結果、

[18世紀になると]今や、内面性[という概念]は、知る主体(the knowing subject)と同時に、知られる対象(the objects of knowledge)とも結びつき始めたのである。(p. 152)

という基盤が確立し、ここに、精神に関する「深層/表層」図式が成立する条件が整った、という次第。考古学は、この図式に豊かなイメージを提供し続けることで、近代の知の一翼を担ったといえるわけです。

では、当時の考古学において「深層/表層」を巡る言説はどうなっていたのか、そちらを見てみることにしましょう。

■ 考古学における深層/表層論の成立

考古学において深層/表層といえば、当然、「層位学」が真っ先に念頭に浮かびます。ただ、層位学自体は、考古学の成立以前から地質学において成立していました(その理論的基礎はJames Hutton, Theory of the Earth, 1788. と William Smith, Strata Identified by Organised Fossils, 1816.)

その地質学では、熱変成、化学的風化、物理的風化、地層累乗の法則、鍵層の概念などに対して注目が寄せられていました。(ただし、進化論インパクト以前の議論であることに留意しておきましょう)

そのため、この時点で、深層/表層の図式の根幹をなす「垂直方向の軸は年代的な軸を意味する」という視点、つまり、「深いものは古い」という視点は成立していたが、ここでは、鍵層の概念に示される通り、「同じ層」を水平方向に認識することに関心が置かれていました。何故なら、「あの層とこの層が同じ年代である」と認識することで、古環境が理解できる(=要するに、当時の地平面がどんなだったか理解できる)からです。

さて、ここに、19世紀前半のトムゼン、後半のピット=リヴァーズら、考古学的層位学のイメージが上書きされていくことになります。

WorsaaeやPitt Rivers、Petrieら[=いずれも、考古学史における重要な19世紀の考古学者]にとって、層位学の原則的重要性とは、それが遺物を時間的連続の中に位置付けられるという点にあった。地理学とは異なり、考古学では[層と層の]界面はあまり関心が払われなかった。というのも、……[考古学が探求する]物語とは、技術的・様式的変化のそれであって、景観の変化のそれではなかったからである。こうしたわけで、個々の層の垂直的連続に力点を置く考古学的層位学へのアプローチは、文化史と結合したのである。遺物様式の空間的[=水平的]分布が過去の社会的・文化的集団の存在を意味するのと全く同様、垂直方向の層位学は、移住・侵入・伝播・移動の変化に伴うそれらの集団の消長を証明したのである。(p. 160)

つまり、考古学的「層」イメージによって、層を水平軸に沿って見るだけではなく、垂直軸に沿って見る図式が確立した、というわけです。

しかも、ここに「発掘」という行為が持つ「掘る」イメージ、「下へと降りるイメージ」も上書きされていきます。(なお、層位を用いた発掘は、19世紀中葉、Worsaaeが初めておこなったと言われています)

その上、考古学の層位学は明らかに、深みへの「下降(descent)」に基づいて述べられている。この下降とは、最も古いものと最も下のものを結びあわせる起源、すなわちthe most profoundなものの探求である。(p. 161)

ここで、私たちは、考古学が、語源的に「起源(アルケー)の学」であることにも留意しておく必要があるでしょう。しかも、ギリシャ的な「起源」が同時に「真理」としての側面さえ兼ね備えているものとして理解されていたことも忘れてはなりません。こうして、考古学は、「層を下へ/過去へ掘る/遡ることで、起源/真理に至る」としてイメージされ、また、その極めて物質的な「深層/表層」メタファーを、近代的知に提供していったわけです。

考古学は隠された深層を暴き(uncover hidden depth)、過去の真相を暴く(reveal the truth of the past)――そういうのが、考古学に対する通俗的理解であった。(p. 161)

余談ですが、「深層を暴き、真相を暴く」という訳語を思いついたのは私です。うぅーん、我ながらなかなか見事だ。

■ 考古学的メタファーの産物としての精神分析学

さて、この深層/表層という極めて物質的なメタファーが最大に活躍したのが、フロイトの精神分析学だったと言えましょう。

フロイト(1856-1939)は、精神分析の開祖であると同時に、稀代の古物収集家としても知られており、考古学的関心も強かったことはよく知られています(ちなみに、彼のコレクションは1980年代以降、美術史における格好の研究のネタにもなっています)。トーマスは、そうした事実からも、フロイトと考古学的層のメタファーの接合は、恣意的なものではないと言いたいようです。

ともあれ、それでは精神分析において、どのように考古学的メタファーが機能しているのでしょうか。

直ちに思いつくのは、精神分析における「顕在的思考」と「潜在的思考」の区別です。これをフロイトは、考古学的層の比喩――顕在的思考は意識の「表層」であり「上にあるもの」であるのに対し、潜在的思考は意識の「深層」であり「下にあるもの」であり「隠されたもの」であり「掘り起こされるもの」である――によって説明し、自ら「層」という語さえ用いていることが確認できます。

(註) なお、フロイトのこうした議論をはっきりと "archaeology" という語を用いて解釈した研究として、P. リクールによる読解が挙げられます。Paul Ricoeur, De l'interprétation: Essai sur Freud, Seuil, 1965. 邦訳:ポール・リクール『フロイトを読む』, 新曜社。ただし、翻訳では「起源論」と訳されているのがいささか残念ですが。

さらに、この深層/表層の垂直関係に、まさに地質学的な「時間軸」が導入されます。すなわち、潜在的思考=抑圧された思考=個人の幼少期・人類の原初期において抑圧された欲望という具合にです。ここにおいて、深層にある記憶としての「幼少期の記憶」および「未開人類の記憶」のオーバーラップまで発生します(それは、当時の進化主義的人類学の大前提「現在の文明社会の過去の姿=現在の未開社会の現在の姿」に立脚したものであるわけですが)。

こうしたわけで、フロイトは民族誌への関心を高めた。……フロイトはこうした考えをさらに先に進め、「未開民族」の精神生活は、幼児や精神病者の精神生活についても有益な情報を与えてくれるかもしれないと主張した。……こうして、フロイトの著作において、考古学・民族学・神話学の融合が起こっている。というのも、そのそれぞれが、潜在的に、経験の原初の領域へのアクセスを提供してくれたからである。(pp. 163-164)

ここにおいて、考古学的な層のメタファーがかなりはっきりと機能しているわけですが、さらにトーマスは、フロイトにおいて別の考古学的層の側面までもが取り上げられていると主張します。それは、遺跡や発掘に伴う「物質性」のメタファーが、人間の意識の構造へと上書きされている点です。

フロイトはさらに、次のような点に、精神と考古学的埋蔵物との並行関係を見出した。それは、心的対象も古代の遺物も、表面に引っ張り出されることで、ダメージを受ける可能性があるという点である。……このことは、フロイトの側で、発掘が解明であると同時に破壊であるという性格を持っていることについて、かなり洗練された理解があったことを示している。(pp. 165-166)

事実、このような意識の構造と遺物・遺構の構造の並行性は、「文化への不満」("Das Unbehangen der Kultur", 1930)においてはっきりとフロイト自身が活用(濫用?)していますから、トーマスの指摘は正鵠を射ていると言えましょう。

このように、考古学的層のメタファーが、精神分析という1つの学問の成立に大きく作用しているわけです。

■ トーマスの議論の意義

こうしたトーマスの議論の意義はどこになるのでしょうか。

従来、「考古学が近代になした(意外な)貢献」といえば、考古学が明らかにした過去による民族的・地域的・文化的アイデンティティの昂揚、といった議論しか存在しませんでした。それに対して、「近代における知の編成」という角度から――しかも、「メタファーの機能」という、構造上-本質上曖昧模糊とした論点に着目することで――新しい視点を提供したのがトーマスの斬新さだと言えましょう。この点は革新的であり、また、まだまだ研究すべきテーマがそれこそ「発掘」できると予想できます。

例えば、私たちもよく「日本文化の基層」論(例えば柳田国男)の類いに出会いますが、こうした議論でも、「考古学的層」メタファーが縦横に機能しているに違いありません。

(補足) もちろん、考古学は考古学で、進化論における「系統」を始めとして、様々なメタファーによって可能になっているという、「メタファーレベルでの相互提供関係」が存在していることは忘れてはなりませんが。

同時に、より巨視的に言うなら、従来、考古学と他の学問との関係は、「一方が他方の研究の役に立つ」という実践的関係、いや、もっといえば「実用的」関係ばかりでした。ところが、トーマスの議論は、考古学が他の学問と関係する新しいあり方――知の編成というレベルにおける関係――への一展望を開いているとさえ言えます。すなわち、知の地平における「文化的財」――文化財ではなく――としての考古学という可能性が開けているわけで、そうした可能性を今後、もっと検討してもよいのではないかと私は感じます。

以上簡略ではありますが、トーマス『考古学と近代』の第7章「深層と表層」の紹介ならびに評(というほどのものでもない)でした。ご関心のある方は、是非、原著をおよみください。(ただし、冒頭で述べましたが、第7章以外は少々難ありかもしれません)

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