review

Bill Brown, "Thing Theory"
Critical Inquiry 28-1 (special issue "Things"), 2001, pp.1-16

評者: 佐藤啓介

以下で紹介するのは、シカゴ大学出版局から刊行されている雑誌 Critical Inquiry で、2001年秋号にて「モノ」特集が組まれた際、その巻頭を飾ったブラウンの論文「モノ理論 thing theory」である(ちなみに、その特集の編集者も兼ねているブラウンは、シカゴ大学英文科の教授であり、Critical Inquiry の編集委員も務めている。著書には The Material Unconscious (1996), A Sense of Things (2002)などがあるとのことである)。評者自身の「モノ論」の立場が定まっていないため、「論評」ではなく「紹介」にとどまってしまうことになるが、ご寛恕願いたい。なお、文中の( )で囲まれたページ数は、全てこのブラウンの論文のページ数を指しているまた、以下では、主題となっている thing を「モノ」とカタカナで表記し、そうでない、半ば文法的に要請された語としてのものを「もの」と平仮名で表記し分けている。【 】で括られた表題は、全て私の手によるものである。

■ はじめに

近年、カルチュラル・スタディーズの流れの中で、「物質文化 material culture」への関心が高まっている。

その関心の原因の一つとしては、カルチュラル・スタディーズが抱えてきた「テクスト中心主義」、即ち、研究対象としてテクストという「言語的コード」によって形成された対象が特権的に選ばれる傾向性(もちろん、それにはそれなりの理由があってのことなのだが)へのアンチテーゼを挙げることができるだろう(同様のアンチテーゼとして、テクストという語を広く解し、視覚的事物全体(図像から景観まで)を対象とする visual culture studies なるものの台頭を理解することも可能であろう(註1))。しかも、テクスト中心主義の場合、テクストを手にすることのできなかった文化の担い手たちの実相が、研究対象から零れ落ちてしまう危険性を常に孕んでいた。テクストから描かれるのは、常に「表象としての非識字層」に限られてしまうのだから。従来、考古学や民族学などが細々と扱ってきた「物質文化」は、こうした背景から、文化研究のアリーナへと踊り出ようとしているのである(註2)。

だが、それと同時に問題も発生する。そもそも、「モノ thing/material」という語は何を指しているのだろうか。例えば、モノという語を「対象 object」 − しかも、「主体 subject」と対に置かれた意味での object − と同一視することはできるのだろうか。ある意味でそれは何ら問題ないようにも思えるし、その一方で、何か違うという気もする(p. 3)。そうしたことさえ定かではない事実、それが「モノ」という語の曖昧さを示している。

そこでブラウンは、「モノ」という語の二面性を指摘することから議論を始める。それはモノという語の「身近にありつつ at hand」「理論的フィールドを超え出ている outside the theoretical field」という、両義的な性格である(p. 5)。平たく言えば、「よく出くわすモノ the thing encountered」と「何だかよく理解できないモノ some thing not quite apprehended」、この2種類の意味が「モノ」という語には見出されるのである(p. 5)。この二面性について、もう少し詳しく見ていこう。

  1. visual culture studies については、例えば以下の文献を参照。Ian Heywood & Barry Sandywell (eds.), Interpreting Visual Culture: Explorations in the Hermeneutics of the Visual, Routledge, 1999

  2. こうした動向については、例えば以下の論文を参照。鈴木透 「アメリカン・スタディーズと歴史考古学−ポスト多文化主義の足音−」『メタ・アーケオロジー』第2号, メタ・アーケオロジー研究会, 2000、pp.90-97。また鈴木氏の議論への批判として、拙文「物質文化は何処?」(本サイト内)を参照。

■ モノの無意義性

ブラウンが注目するのは、「モノ」を「観念 idea」と対置させてモノの図式的な定義をしたL. シュタイン(Leo Stein)の議論である。シュタインの定義によれば、

モノとは、我々が出くわすもの what we encounter であり、観念とは、我々が投影するもの what we project である(p. 3)

ということになる。シュタインの定義から引き出せるのは、モノの物理的性格に由来する偶然性、ということになるだろう(p. 4)。例えば、頭上から鳩の糞が落ちてくることなどを想像すればよい。このシュタインの議論から、ブラウンは「モノを我々は如何に見ているか」という論点へと話を進める。そこでキーワードとなるのは、「モノ thing / 対象 object」という対概念、そして、「窓 window」という概念である。

モノに出くわすということは、少なくとも出くわすまでは我々とモノとは隔絶していたはずである。となれば、極端に考えれば、モノは我々とは関係がない。となれば、モノを見て−しかも、モノをモノ自体として純粋に見た場合−、それを解釈したところで、我々に関する何某かの知識など得られないはずである。しかし、我々は、モノを解釈することによって、つまり、モノを通じて、多くの知識を得ている。即ち、そこでは、モノは「何かへの窓」として位置付けられていることになる。ブラウンは、このように「何かへの窓」として機能している事物を、「モノ」とは区別して「対象」と呼ぶ。そして、それとの対比で「モノ」の性格付けをおこなっていく。言わば、我々は「窓を通じて何かを見ている」が、「窓そのものは見ていない」のである。

……(対象が歴史や社会、自然や文化について明らかにしてくれるものを見るために、そして何より、対象が我々について明らかにしてくれるものを見るために)我々は対象を経由して見る look through objects が、他方、モノについては、我々はその一瞥 a glimpse of things しか捉えていないのである。我々の解釈癖が対象を意味あるものにできるコードが存在するから、つまり、対象を事実 facts として用いることを許してくれる対象性 / 客観性 objectivity についての言説が存在するから、我々は対象を経由して見る。他方、モノが窓として機能することはまずあり得ない。(p. 4)

このようにブラウンは、モノと対象とを比較させることで、モノの「無意義性」を浮き彫りにする。もちろん、対象がモノへと変化することもある。例えば、透明だった窓が曇ってしまい、そのとき初めて窓という「対象」が意義のないガラス板という「モノ」として認識される、といった具合に。しかし、それは、事物そのものの変化というよりは、その事物に対する我々の接し方の変化と理解すべきである。いいかえれば、モノ / 対象という対概念には、それを成立させる第三項として「主体 subject」が必要なのである。この主体が事物へどう関わるかによって、その事物はモノになったりもすれば、対象になったりもするのである。

その意味で、モノには「我々が出くわし、身近にあるもの」であり、かつ、「身近にあるが故に気づかれない」(意義を与えられない)という性格があるようである。これが、「モノ」という語の両義性の一面である。

■ 何か some-thing

しかし、日常的な性格の中では、「モノ」という語はもっと様々な場面で、ほとんど「代名詞」であるかの如く用いられる。「棚のうえのモノが落ちそうだから、何かいいモノないかな」「そういうモノってやばいよね」などなど。これらは、文字通り「何か some-thing」というべき「モノ」である。

さて、こうした語の用法の特徴とは何だろうか。その特徴は、その「非特定性」にあると言えよう。何故なら、「棚の上のモノ」が仮に人形だと分かっていれば、「棚の上の人形」と言い換えても何ら問題はない。しかし、そのように言い換えた場合、人形ではない可能性を排除することになる。このように、「棚の上のモノ」は、それが何であるかを特定しない用法、「何だか分からない何かを何となく何とかして呼ぶ」用法である。ブラウンの言葉を借りれば、「名指しえるものと名指しえないものの間の、描けるものと描けないものの間の、特定できるものと特定できないものの間の敷居の上でふらふらしている」用法である(p. 5)。

これが、ブラウンの指摘する「モノ」の両義性の他面、「何だかよく分からないモノ」という特徴である。

となると、考えねばならないのは、前者の性格と後者の性格との関係であろう。ブラウンの叙述を私なりに解釈すれば、ブラウンの考える「モノ」の基本特徴は、やはり前者のそれである。それに対し、後者の特徴は、前者のそれを強調し、補足するものとして位置付けられているようである。ブラウンは問う。前者の特徴に照らした場合、我々の態度の変化に応じて対象がモノになる以上、対象の中に潜在的に「モノ性」なるものがあると考えられるだろうか、と(p. 5)。しかし、ブラウンは決してそう単純には考えない。何故なら、「some-thing としてのモノ」を考えてみれば分かるように、「何かのモノ」でさえ、同時に「特定はできない何かを指し示す」という意義を担っているからである。従って、あまり単純に「対象からモノへの時間的変化」を想定することに、ブラウンは警鐘をならしている。むしろ、some-thing の用法に極端な形であらわれているように、事物は「モノであると同時に対象」であり得るのである(例えば、窓という意義を果たしている対象は、やはり同時に単なるガラス板というモノでもある)。

このように考えれば、やはりモノは「そこらじゅうに満ち溢れている」のである。

■ 方法論的フェティシズム

それでは、上述の前者の意味でのモノ−対象とは区別された意味でのモノ−を扱うには一体どうしたらよいのだろう。言わば、モノのモノとして扱うにはどうしたらよいのだろうか。そこでブラウンが注目するのは、A. アパデュライ(Arjun Appadurai)が『モノの社会生活 The Social Life of Things』(1986)の中で提起した「方法論的フェティシズム」という概念である。方法論的フェティシズムとは、端的に言えば、「まずモノから始め、そこから人間(なり社会)を論じる」態度を指す。まずはモノより始めよ、というわけだ(もっとも、物質文化研究の一翼を担ってきた考古学からすれば、それはあまりにも当たり前のことに聞こえるかもしれないのだが)。

理論的観点からすれば、行為者たる人間がモノに意義を与えるにせよ、それでも方法論的観点からすれば、それらの人間的・社会的コンテクストを明らかにしてくれるのは動くモノ thing-in-motion の側なのである。(p. 6)

つまり、先の「モノ / 対象」といった二分法的発想そのものを「方法論的に」忘れること、言わば「モノ自体に従うこと follow the things themselves」、それが方法論的フェティシズムである。アパデュライがそうした概念を提起した理由は、明快である。それは、もう一つの、従来広く流布してきたフェティシズムを避けるためである。即ち、「主体、図像、言語のフェティッシュ化 the fetishization of the subject, the image, the word」(p. 7)を避けることが目的なのだ(註3)。

こうした態度を取ることによって、従来社会学やカルチュラル・スタディーズにおいてなされてきたモノをめぐる問いのあり方も変化する。

これらは、観念やイデオロギーがもたらす物質的効果 material effects について問うのではなく、むしろ、物質的世界やその世界の変容がもたらすイデオロギー的・観念的効果 ideological and ideational effects について問う問いである。即ち、モノがあるかないかではなく、モノがどのような働きを遂行するか what work things perform を問う問いである。(p. 7)

もちろん、こうした問いは、それ自身で(=モノ自体で)完結するのではない。あくまで、最初からではなく最終的に「主体-対象関係」へと帰っていく問いである(註4)。従って、方法論的フェティシズムとは、「不活性な事物がどのように人間の主体を構成し、どのように彼らを動かし、どのように彼らを脅かし、どのように彼らと別の主体との関係を促進したり脅かしたりするかを考える」(p. 7)ための前提条件なのである(註5)。繰り返せば、最初からモノを「窓として」扱うことでモノ自体を脇に置くのではなく、モノがなすこと自体を観察せよ、というわけだ。

  1. ただし、評者自身の感覚からすれば、「主体、図像、言語のフェティッシュ化」にも、ある程度の序列があると感じる。つまり、主体と言語に比べ、本当に図像が同じくらいにフェティッシュ化されてきたのか、と問いたいのである。むしろ、モノが対象として捉えられてきたのと同様、図像もまた「言語(ないし意味)」へと還元されてきたのではないだろうか。このような私の考えは、美術史家のJ. Elkins の研究に多くを負っている。詳しくは以下を参照。James Elkins, On Pictures and the Words That Fail Them, Cambridge U. P., 1998
  2. 評者自身は、「最終的にでさえ」主体-対象関係へと帰還しないようなモノ論があってもよいのではないか、と思っている。しかし、まだその考えをうまく扱いきれないでいるのが実情である。
  3. こうした「モノによる主体(ないし知)の編成」については、言うまでもなくJ. クレーリーの古典的となりつつある研究を挙げないわけにはいくまい。Jonathan Crary, Techniques of the Observer: On Vision and Modernity in the 19th Century, MIT, 1990。また、ブラウンは Critical Inquiry の同号に収録されているM. ジョーンズの論文 "Descartes's Geometry as Spiritual Exercise" (pp. 40-71)を、こうした研究の実例として挙げている。ジョーンズの論文は、デカルトの幾何学の形成の途上において「ものさし」と「コンパス」が果たした役割を明らかにしようとした論文である。

■ 政治するモノ

さて、このように方法論的フェティシズムによって浮かび上がる「モノがなす効果」(「モノへの効果」ではない点に注意しよう)によって、モノは人間がなすのとは異なった仕方で、言わば自ら進んで「社会的なるものの領域」へと身を投じることになる(pp. 8-9)。ただし、ここで注意しなければならないのは、モノがなす効果といっても、それは社会が異なればその効果も異なってしまう、という点である。何故なら、モノ自体は変わらなくとも、モノがどのようにその社会の構成員によって受け止められるか(=対象化されるか)は変化し得るからである。

こうした[社会間の]知覚の食い違い(しかも、モノの意味のみならず、モノの存在そのものの知覚の食い違い)は、少なくともモースの研究以降、人類学の主要トピックだった。たとえ対象が物資的には安定しているように見えても、こういってよければ、それらは場面が異なれば異なるモノなのである。(p. 9)

しかも、社会間の知覚の差異のみならず、社会内部での知覚の差異までをも考慮しなければならない。知覚の差は、様々な局面で発生し得るのである。故に、問われるべきは、単にある社会にとってモノが何であるか、という単純なものではなくなってしまうのである。

このように、社会的な領域へと投げ込まれた(自ら身を投じた)モノは、社会の構成員と複雑な関係を切り結ぶことになる。しかし、ブラウンはそれを単に「事態の複雑化」と位置付けるのみならず、そこから「政治的可能性」をも引き出そうとする。ブラウンは、20世紀前半の社会主義者 B. アルヴァトフ(Boris Arvatov)の論文「日常生活とモノの文化」(1925)を手がかりとして、モノが政治に働きかける可能性を探っている。つまり、モノの行為遂行性を確認できたならば、モノもまた人間と同様、政治してもいいではないか、と考えたのである。

……アルヴァトフが想像していたのは、社会が商品形態に満足している状態からは決して発生しないような、人間の新たなるモノ化 a novel reification of people とモノの新たなる人間化 a new personification of things である。構成主義的唯物論は、世界の再形成に参与するものとして対象を認識しようとしたのである。(p. 10)

政治するモノなどというといささか極端な擬人化という感もしてしまうが、ブラウンが科学史のB. ラトゥール(B. Latour)を引用して警告するように(p .12)、近代に特徴的な「主体のフェティッシュ化」の帰結としての、極端な human / thing の存在論的二分法には、常に懐疑的である必要があるだろう。「実際のところ、世界は準-対象的なもの quasi-objects と準-主体的なもの quasi-subjects に満ちている」(p. 12)というのが実情なのだから。

■ モノと現代

ブラウンは、最後に「この現代においてモノを問うとはどのような試みなのか」、ないし、「この現代におけるモノの位置付けとは」と自問する。ブラウンの言葉を借りれば、戦後とは「モノの増殖に圧倒され、かつ、モノへと特異な仕方で関心を寄せてきた時代」である。それは、例えばJ. ボードリヤール(Jean Baudrillard)の消費社会についての分析などを読めば、納得にいくことであろう。ただ、モノと現代に関するブラウンの叙述は、若干散文的過ぎる感があるため、ここで詳細に取り上げることは避けたい。むしろ、ブラウンが述べていることを一般化する方が意義がある。それは「モノと時間の関係」である。

対象として意義に満ちてい物質は、ときに時代が経つにつれ、意義が失われてモノとしてしか扱われなくなる(当時からモノであったにも関わらず)。逆にいえば、我々の関心がそれほど移ろい易いということでもあろう。それは、考古学的に発掘される遺物といった遠い過去の物質に限らずとも、そのような事例はいろいろと思いつくだろう。このように、ある意味でモノは遅れて発見されるものなのである。それ故、我々は今ここにあるモノの多くを、多分捉え損ねているに違いないのである。逆に、遅れて発見されたモノは、常に時間差を伴っているために、それを発見した人間にとっては「時間」との関係の中で立ち現れてくることになるだろう(ただし、それが古いモノだという手がかりが残されていれば、の条件付きではあるが)。

しかし、その一方で、私たち「モノ研究」に関心を寄せる人間にとっては、モノが来るのは遅すぎる。私たち(いや、少なくとも私)は、主体・言語のフェティシズムを回避する、別の理論 different theory、いや、理論とは別のもの some-thing different from theory を欲している。そう、文字通り、「特定できない何か」を。しかし、モノ研究は、常にそのような「追随的な遅れ」の状態の中で研究することになるのだろう。それが、モノのモノ性の探求の原理的条件なのだと思う。その原理的条件を忘れてモノ研究がなされるときにこそ、却って主体のフェティッシュ化の罠が、再びぽっかりと口を開けて待っているのではなかろうか。我々は、観念や言語、主体を超えるモノの独自性を予期しつつも、それをそれとして直ちに捉えられると思いこむことは、深く慎まねばならないだろう。

最後に、ブラウンからの引用によってこの書評を閉じることにしたい。

……モノがどうしても遅すぎると思われる、基本的な不整合 basic disjunction ないし人間の状況 human condition。では、何故遅いのか。それは我々が、観念よりも先に、理論より先に、言語より先にモノが到来してほしいと願うからである(なのに、モノは遅れてくることに拘っているらしいのだけれど)。そう、観念とは異なる選択肢として、理論への限界として、言葉の犠牲として。(p. 16)

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