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作品としての発掘現場
アースワークから考える

佐藤啓介

■ 場

考古学の発掘現場。

その空間は、表土から始まって徐々に層を掘り下げていくことで形成されます。もちろん、その前後には「トレンチ」と呼ばれる試掘の溝を幾本も入れたり、逆に、土層の観察用に、畦を掘り残したりもします。その結果、平らな面の上に、数本の溝と畦が交差する空間ができあがります。そして言うまでもなく、出てきた遺構や、当時の自然地形の跡などが、その姿を残しています。また、場合によっては取り上げずに残しておいた遺物がぽこぽこと残されていたりもします。

そして、掘り進めていくごとに、そのつど必要な記録作業をおこない、また、掘り進めながら、今度どのように掘り進んでいくか、その方針を臨機応変に検討していくことで(=掘らないと、何が土中から出てくるか、誰にも分からないから)、現場の姿は徐々に姿を変えていきます。

さて、それらを掘るのは、基本的には人の手(時には重機)なわけですが、その掘った痕跡は、あまりにも見事としか言いようがない。美しいのです。粘土質の土壌であれば、その壁面や床面は、まるでバターをナイフで切ったような断面を呈しています。もちろん、それらの作業は、美しさを目的としているわけではありません。「写真に残しても問題がないように」「観察の支障にならないため」など、(発掘作業の本義たる)記録・報告に益するという目的を持った、言わば「手段としての美しさ」「副産物としての美しさ」です。美しいのは、何も保存修復の話題となる某古墳の壁画や、高級な陳列棚に収められる出土文化財だけではない。職人たちがガリで削り出した床や壁面の一つ一つが、美しいのです。

あまり「美しい」という形容詞を連呼したくないのですが、ただ、それでも私のような素人が現場を目にすると、そこが何の遺跡であるかよりも、まずその土の(意図せざる)造形の面白さに目が行ってしまいます。トレンチや畦のような人工的な造形と、遺構や土層、自然地形によって強いられる自然的造形が交じり合う、しかも、それを全て人の手によって掘り下げたという、類を見ない造形。ただ掘るだけなら、重機でどかどか掘ればよい。そうではなく、言わば、「土の木目」に沿って掘る。いや、「土の木目」にガリやジョレンを無心に沿わせていくことで生まれる、非志向的造形。

それは、「遺跡」として報告されるだけでは、あまりにも惜しい

さらにいえば、掘った分だけ、当然、土が排出されます。土がどこかに消失してしまうわけではないですから。その結果、現場のすぐわきには、ベルトコンベアによって運ばれた土が小山となってこんもり盛られています。まるで、採石場のように。そちらもまた、「ただただ莫大に土を盛っただけ」というその「量の莫大さ」ゆえに、もはや(カントの意味での)崇高の対象にさえなりえます。しかし、こちらは、報告されることさえありません。当たり前です。それは、「過去の人間の行為の痕跡」ではなく、「『過去の人間の行為の痕跡』を調査した、現在の人間の発掘行為の痕跡」にすぎないのですから。そして、発掘終了後、埋め戻すための土として使われ、その小山は姿を消していきます。何もなかったかのごとく。

■ 土

このような観点から発掘現場を考えたとき、容易に連想されるのが、「アース・ワーク」(ないしランド・アート)と呼ばれる芸術です。

1960年代末〜70年代にかけて、アメリカにおいてアース・アートと呼ばれる一群の芸術が流行ったことがあります。その代表としては、R. スミッソンやM. ハイザーらが挙げられますが、彼らは、カンバスや粘土、金属などではなく、自然にある素材をそのまま使った芸術作品を制作しました(彼らの意図は人それぞれで、本当は一括りにはできないのですが、ここでは話を単純化します)。

ただし、その作品は、一言でいって、でかい。

たとえばスミッソンは、ユタ州の沼地に、レンガや岩石を用いて巨大な渦巻き状の堤を作りました。その全長は400m以上あります。また、ハイザーに至っては、さる渓谷の、数百mも離れた谷間の両岸に、重機でささやかな切れ込みをいれます。"Double Negative"と題されたその作品は、空から航空写真で見ないと見れないほどです。

(参考)
スミッソンの作品サイト *特に、アース・ワーク関連
ハイザーの作品 "Double Negative" の画像

これらの例は巨大過ぎるにせよ、基本的に、彼らは「土」ではなく「大地」を作品の素材としたと言えましょう(土を素材にするだけなら、陶芸とてその一つなわけですから)。

アース・ワークは70年代以後、製作にお金がかかるという現実的な理由、ならびに、彼らの多くが「自然との調和」を作品のモティーフとしていたにも関わらず、結果としてその作品が自然を壊しているという批判を浴び、衰退していったそうです。(遺跡を発掘することで破壊せざるをえない宿命を持つ考古学とも、どこかパラレルを感じさせます)

造形的にのみ比べた場合、こうした作品と発掘現場を比較してしまうのは、あながち間違いではないように思えるのですが、いかがでしょうか。

ましてや、このような(ある意味での)先駆者たちの作品が、極めて「強い作為」のもとに、かなりの無理(?)をしつつ希少な作品という位置のもとに形成されているのに対し、発掘行為は、日常の中でも見られないわけではない(残念なことに、工事現場同様、安全上の理由などから、フェンスなどで覆ってしまう場合も多いですが)。しかも、その形成の技術もまた、「土の木目」に添うという、極めて「弱い意図」のもとになされていく。

■ 過程

しかも、発掘現場とアースワークの間には、さらなる類似点があります。それは、両者ともに「自然にさらされる過程」を、自身のうちに内包しているという点です。

アースワークでは、上記のスミッソンの渦巻き堤防にせよ、ハイザーの渓谷の切れ目にせよ、作ったあとは、そのまま放置され、「自然のなすがまま」にされました。渦巻き堤防は徐々に侵食され、水を被り、水没していきました。渓谷の切れ目は、風雨にさらされ、風化し、劣化し、崩壊していきました。つまり、作品自体に「過程」――生まれ、そして滅び行くまで――という要素が内在しているのです。作った時点で完結しない作品。

こうした発想は、建築においても90年代頃から起こっていると耳にしたことがあります。過程としての建築。建築家・伊東豊雄氏が写真家・畠山直哉氏の写真に触発されて口にした言葉を借りれば、「永遠のunder construction」。

同様の「過程」は、発掘現場にも起こります

単に掘り進めていくという人為的過程のみならず、建築ではあまりありえない過程として、途中、雨でぬれたり乾いたりしながら土が変化していったり、かつての湧水源から水が湧き出したり、はたまた掘り終えて整地した面から雑草が生え始めたりと、様々な自然的過程とが混ざりながらその姿を変えていく。そして、そこが発掘現場である以上、遺構が出たり遺物が出たり、また、当時の林木や河川が出たりして、掘り進めていけばいくほど、単なる土だけではない予期しえないバリエーションを生んでいきます。あまりこうした比喩を使いたくはないですが、ほとんど「自存的な有機体」としての現場。

しかも、面白いことに、実は考古学的研究の中には、こうした「変容過程」を考える術さえもが、内在しています。それは「遺跡形成過程(transformation process)」論と呼ばれています。遺跡がどのように形成されていくか、その過程を研究する分野です。大きくわければ、それは自然的過程と文化的(=人の手による)過程に分かれます。細かく見れば、遺物が使用され、廃棄されていく過程や、土が堆積・流出する過程、植物が繁茂する過程、土中で土や遺物が動く過程、果ては、土中でミミズや霜によって石・遺物が微量に動く過程など。そうした一連の過程を研究するのが、この分野です。

そして、そうした過程、つまり、掘られる対象となる遺跡にかつて起こった過程は、今掘っているという発掘行為そのものにもまた付きまとっているのです(ちなみに、遺跡形成過程論の第一人者のシファーは、発掘行為を、文化的過程の最終段階として言及はしていますが、それを本格的に論じることはありません。考古学研究としては当然のことなのかもしれませんが)。

■ 公開

ところで、こうした「過程としての現場」を目にするには、どうすればよいのでしょうか。

先に、建築における「過程としての建築」という考え方を紹介しましたが、そうした考えに基づき、建築現場の起工から竣工までの過程を、日々web上で公開しているサイトも、実際にネット上でしばしば見かけます。

考古学でも、調査結果を報告書として刊行するだけではなく、日々の調査過程をリアルタイムで公開しているサイトがいくつかあります。しかし、そこで公開されているのは、「どのような成果があがったか」ということに主眼が置かれ(まぁ、それが本分なわけですから、当然といえば当然ですが)、そこに「土のアートとしての現場」という観点はありません。とりわけ、かの捏造問題以降、「自らを他者の批判にさらす」ための反省的行為として、調査過程の公開の風潮は強まっているように感じます。

しかし、そうした情報公開や批判可能性の理由だけでなく、以上で述べた「過程としての作品」という観点からも、ネット上での発掘現場のリアルな公開を進めていくと面白いと思うのは私だけでしょうか。たとえば、同じ箇所から同じアングルで毎日現場の写真を撮っていくことで、作品=現場が形成される過程を記録していく。それだけで、何かわくわくしてしまいます。「過去のもの」を調査・記録・保存する文化財活動なのに、何故、自分たちのクリエイティヴな活動そのものは調査・記録・保存しないのだろう。もったいない。

確かに、考古学でも現地説明会などによって、発掘現場の美を直接目にする機会はあるのですが、そこには「過程」が失われ、掘り終えた「結果」、すなわち「痕跡」だけしか残されていません(いや、過程が失われても、せめて「写真集」――記録写真とは異なる作品=現場の写真――だけでも見てみたい)。

発掘現場を「土の作品」、しかも「過程としての作品」として捉え直すことで、そこに「文化財的価値」とは別の「文化的価値」を見出すことはできないだろうか、これが私の主張です。いや、価値なんて野暮なこと言わずともよい。端的に、あの土の芸術に存分に見とれたい。そして、多くの人に見とれて欲しい。そう願うばかりです。

「作品としての発掘現場」。大地と人が織り成す、無作為の造形作品。その姿に多くの人が気がつきますように。

□ 参考文献

  • Michael B. Shiffer, Formation Processes of the Archaeological Record, Univ. of Utah Press, 1996 (orig. 1987).
  • John Beardsley, Earthworks & Beyond, Abbeville U. P., 1998.
  • 畠山直哉+伊東豊雄, 『UNDER CONSTRUCTION』, 建築資料研究社, 2001.
  • 佐藤啓介, 「あとにのこされたものたち」『往還する考古学』2, 近江貝塚研究会, 2004.

□ 追記

本文を記すにあたり、アークビジョン有限会社の代表・岡安光彦さんのご協力をいただきました。深く感謝いたします。

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