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いば−さとう 編 (6)

以下は、もの研往復書簡: いば−さとう編 (5)(第7便)の続きです。今回も、一便のみで公開です。前便で決定的となった「解釈論」を、如何に問うべきか?その目標に対し、議論は迂回しつつ進んでいきます。

■ 第8便 2002/10/18 : さとう → いば

いばいさお さま

いやはや、お返事がまたも遅くなってしまい、誠に申し訳ありませんでした。学会・研究会での発表が先日まで続いておりまして。

ただ、遅れの失礼の中で唯一得た収穫と申しましょうか、その中の発表の一つにおいて、考古学における「分類」の発表をする機会がございました。そして、そこにおいていくばくなりともここでの議論に関連するテーマを扱いましたので、その発表(別サイトにて少しでも早くHTML化したいのですが、、、)での議論にも触れつつ、いばさんへお返事することにさせてください。

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さて、第7便では、いばさんは「解釈」の問題系を2種類に区別しておられます。

> a)遺物・遺構の分類、あるいは分類体系に依拠して下した識別・同定という解釈
> b)「分類」「識別」された遺物・遺構の、その当時における歴史的、社会的etc.など文脈を踏まえた解釈

この区分については、全く異存ありません。私ども(解釈学的哲学)の分野の言葉におきかえれば、前者は「説明 explanation」もしくは「記述 description」、後者は「理解 comprehension, understanding」とでも言えるかと思います。そして、その決定的差異は、「対象-内的」か「対象-外的」かという点に求められると思います。即ち、前者の場合、(認識論的問題を別とすれば)対象それ自体に内属する属性の記述およびその組み合わせの段階。後者の場合、対象が置かれていた(と思われる)、対象外(しかも、考古資料外)にも広がる文脈に照らして対象の意味を理解する段階、と言えましょうか。

さて、いばさんが第7便後半で述べられているとおり、a)とb)の間には、中間段階もあります。それは、

> IV.考古資料に対する解釈とは他の考古事象との関係性のあり方に求められる必要がある。

という箇所です。いばさんはこの箇所に関して、

> 先述の例のように、前方後円墳や祭祀遺跡と関係付けたにしても、そもそもそれらに含まれている解釈に装飾壷の解釈を委ねたに過ぎません。どこまで行っても、モノそのものから解釈を引き出すことはできないことになります。

と、「ある対象O1の解釈を、他の対象群O2に委ねる」という形で――第2回もの研での中井さんの言葉を借りれば――不等価交換的ケースのみを挙げられましたが(何故不等価であるかといえば、O2がO1の解釈を決定するから)、等価交換的ケース「ある対象O1を、他の対象群O2と関係付ける」という場合も存在することも考えられます。

さて、このように考えますと、(認識論的問題を別とすれば)b)の意味での解釈(=理解)はひとまず脇に置くとすれば、a)の意味での解釈(=説明)には、数種類の段階があるようです。

  • a-1)対象一つについての説明
  • a-2)同一の類に属する対象群についての説明
  • a-3)ある類に属する対象(群)と別の類に属する対象(群)との関係についての説明

a-3)がまだb)の意味での解釈に達していないのは、まだ「どう関係している」という「そこにある事物についての how の記述」にとどまり、「何故関係している」という「そこにある事物についての why の記述」にはなっていないからです。もちろん、a-1)とてまだ「属性」への細分化も可能ですから、a-1)〜a-3)の区別は、実際の個体とかに対応するというよりは、もっと汎用的に妥当する「one」「many」「plural」の三分法だと理解していただけると幸いです。

ちなみに、第2回もの研で問題となった概念「マスターコード」ですが、提案者の中井さんに後日お伺いしたところ、マスターコードとはb)にのみ関する概念なのだそうです。なので、質疑応答の際に焦点となった「考古学独自のマスターコード」という概念自体、中井さんの意味では語義矛盾なのだとのこと。

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さて、私は何故このような区別をしたのでしょうか。

その理由は、考古学的資料の「認識論」に論理的に遅れ、「意味論」に論理的に先立つ段階としての「形式論」に注目してみたいからです。少なくとも、解釈に関する原理的不可知論に一手でも抗うための橋頭堡として、形式論を考えてみるのは無駄なことではないのではないか、と思うのです。

比喩的表現を避ければ、こういうことです。ここでいう意味論とは、「モノを説明し分類することによって得られる結果にどのような意味を与えるか」に、つまり、先のb)に関わる領域のことです(これはいばさんも用いているタームですね)。他方、形式論とは、個別の説明や分類から論理的手続きによって抽象され、或いは、論理的-理論的に構築され、それ故に説明・分類行為全般に妥当する枠組みを扱う領域を指します(それゆえ、考古学において器種とも訳され得る術語としてのformとは違う、もっと普通の意味での形式論です)。そして、認識論とは、形式論や意味論において扱われるモノがそもそもどのように認識されるかという問題を扱う領域のことです(我々が第6便までで論じてきたモノフェチ論も、その一つでしょう)。「現実的には」この認識論/形式論/意味論という三分法は循環したりするのですが、「論理的には」いちおう順番立てて理解することができると思います。

いばさんは第7便において、一つ間違えれば不可知論に陥りかねない意味論へ向かうために、

> 考古学における「モノの解釈論」をすすめるためには、まずはもっと単純に「モノと意味との関係の仕方」をわれわれはどのように行っているか、ということを吟味することが必要になりそうです。「モノに意味を見出す(見出さない)」とはどういう行為なのか?

という形で、一つの筋道を提起されています。そして、モノフェチ論への回帰を示唆している辺りを考慮すると、おそらくは、私の認識論/形式論/意味論の三分法のうち、認識論を一つの鍵とされているように思われました。私は認識論と同時に、形式論にも注目する余地があるのではないか、と感じています。認識論と形式論は、共に意味論に先だって「我々がおこなっていること」という点において共通しています。他方、両者は、「私固有のもの(=認識)」なのか「我々に共通しているもの(=形式)」なのか、という点で違いを生みます。その意味で、いばさんが第7便にて、

> つまり、原理はどうあれ、ともかくもヒトはモノから意味を読み取っていますし、その行為は少なくとも書き言葉には先行して存在しそうに思えるのです。つまりそれは、ヒト固有にそなわった能力(象徴化能力というべきでしょうか)ではないかと…。そして、この能力を健全(?)にコントロールすることを、言わば教養のようなものとして、誰もが習得できるようにすることはできないものか…。

と記された箇所のうち、認識論的部分を削ぎ落とし、「誰もが習得できる」という汎用性のみを掬い上げたのが形式論とも言えるでしょう。

そして、先にa)の意味での(説明としての)解釈という概念にいくつかの段階(a-1〜a-3)を区分してみたのも、その形式論の一環にほかなりません。考古学においては――いや、恐らくは考古学を超えても――、a-1)〜a-3)を自在に組み合わせた手法が、「気づかぬうちに」用いられていると思います(そして、その手法のもとで成立した分類群や分類群同士の関係に意味を付与している―ー即ち、モノと意味とを関係付けている――という次第)。こうした、さまざまな説明の手続きの「形式面」だけを「明示化しておく」こと、それが「一般形式論」の企て――私の言葉では形式的分類理性批判――だと言えます。

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例えば、形式論の一例として、分類の手続きを挙げてみます。あくまで仮想ですが、以下のような対象群があったとしましょう。(縦欄/個々の対象、横欄/属性)

材質 年代 産地 器種 技法
a 陶器 I 期 輸入 ミガキ
b 陶器 II 期 近江 ミガキ
c 土器 I 期 近江 なし
d 土器 I 期 近江 ミガキ
e 土器 I 期 京都 ケズリ
f 土器 II 期 近江 なし
g 土器 II 期 京都 なし
h 土器 II 期 大和 ケズリ
i 須恵器 I 期 近江 ミガキ
j 須恵器 II 期 京都 ミガキ
k 瓦器 I 期 大和 ミガキ
l 瓦器 II 期 大和 ケズリ

恐ろしくてきとーに捏造した(いやな言葉ですね)遺物一覧表です。対象はa〜lの12個、材質は4種類(全部粘土なので材質という言葉自体おかしいですが黙殺)、年代は2期、産地は4ヶ所、器種は2種、技法は3種類あります。で、上の表は材質順にまず並べ、次いでその中で年代順に、次いで産地順(輸入>近江>京都>大和)、器種順に、技法順(なし>ミガキ>ケズリ)に「入れ子式に」並べたものです。でも、既にお分かりのとおり、実際には仮に「入れ子式」分類法をおこなうとしても、「入れ子にする順番」自体は、自在に変えられます。最初に産地、次に技法、次に年代、、、といった感じに。数学の知恵に頼るなら、全体としては5×4×3×2×1=120通りの入れ子のやり方がありますね。しかしそもそも、横欄の5種類の属性の全てを使わなければいけない必然性はありません(或いは、もっと増やし得る可能性もありますが)。横欄を1つだけ選んだ場合、=5通り、2つだけ選んだ場合、=20通り、、、(以下略)。

さて、何もここで懐かしい数学の復習をしたいわけではありません。そうではなく、私が言いたいのは「実際にはこうした数学的とも言える形式手続きが(意識的にせよ無意識的にせよ)働いた結果、分類がおこなわれている」ということなのです。

しかも、そうした手続きは、単に「分けて並べる」段階のみならず「並べて関係付ける」段階(本便前半のa-3に概ね相当)においても作用します。例えば、「I期の皿のうちミガキ技法を持つものを系統Aと設定する」という議論があった場合(ここで当てはまるのはa, d, i)、上の表に従えば横軸に当たる属性のうち、材質と産地の欄を抜き取って設定された「関係群」です。

いささかソシュール言語学的物言いであまり好きではないのですが、個体の意味とは、個体に内属しているという考え方以外に、別個体との関係の中で――とりわけその差異性の中で――はじめて設定されるという考え方があります。後者の考えに則るならば、その「別個体との関係」自体が、この表の場合だけでも(あえて入れ子のイメージにこだわった場合でさえ)1.属性を何種類選ぶか、2.選ばれた属性をどう並べるか、の2つの選択によって、何通りにも設定されることになります(実際、そのようにして、「系統」「系列」「ホライズン」「類」、果ては「文化」「型式」などの「関係的」な諸概念が定義されてきたわけです)。例えば、実際の遺物を目にしたら厳然と質を異とすると思うはずのaの輸入陶器とdの近江産土器もまた、さきの系統Aの中では同じになってしまいます。産地や材質に着目することによってのみ、それらが異なるのですから。

そして、形式論の範疇内では、先の1.属性を何種類選ぶか、2.選ばれた属性をどう並べるか、に関する答えなど与えられません。ましてや、そこからどのような関係性を産出するかなど。それらの選択は――これまたソシュール的で嫌なのですが――「恣意的」か「慣習的」なそれにほかなりません。何だか最も基本的な枠組みであると感じられる材質の欄を選ぶ必然性、或いはそれを優先的に扱う必然性、それは「形式論的には無」です。

何故ここで私が「ソシュール的」な思考法を嫌がるかといえば、単に「あまりに言い尽くされてきた慣用句と化しているから」という、単なる「うんざり」感(正しくは、それなのにそれに頼らざるを得ない「自分の独創性のなさ」)という感情的問題のみならず、それを慎重に取り扱わないと、ただちに「モノの言語化」「モノの記号化」へと転落しかねないからです。まさにその「モノ性」は、形式論に先立つ認識論と、形式論に遅れる意味論において確保され得るかなぁと思っていますので、あえてここでは記号論的に語ってみました。自分でも、いまいちしっくり来ないですが。
また、「そもそも各属性の決定自体、分類によってなされている」以上、実際には上記の表は既に認識論的次元を内包してしまっている表です。例えば何が土器で何が陶器か、何が皿で何が碗か、などなど。その意味で、各属性の決定自体は、形式論的には不可能です。実際の形式論とは、材質の欄を「欄1」、そこに並ぶ諸々の属性を「1−1」「1−2」「1−3」、、、といった具合に、全てを等価な抽象的記号化を施した上で理解すべき事柄であることは、補足しておきます。

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さて、モノ解釈にまつわる認識論/形式論/意味論のうち、ここでは形式論だと私が考える部分だけを抽出――文字通り、抽象abstract=引き抜かれたもの――してみました。分類に限定されてしまいましたが、そこでの知見をまとめれば、以下のようになると思います。

  1. 形式論的には、説明(or分類)の手続きは、数学的ないし論理的に全ての可能性(=選択肢)が網羅される
  2. 個々の選択肢が成り立つ原理は等価である、故に、個々の選択肢も等価である
  3. いずれかの選択肢が優先されるのは、恣意性か慣習による
  4. 恣意性や慣習は形式論には属さない
  5. 形式論的には、万人が全ての説明が可能である以上(1より)、実際には全ての説明ではなくいずれか一通り(or数通り)の説明のみがなされているのも、恣意性や慣習による(3より)

ただし、だからと言って、私は

  1. 故に、全ての考古学的解釈は恣意的か慣習による

と、相対主義へと突き抜けてしまおうとしているのではありません。3で挙げた「恣意性や慣習」は、具体的には認識論や意味論に関わる領域であると思います。逆にいえば、形式論のみが考古学的解釈の全てを決定するわけではありません。故に、5だからといって、そこから勝手に「形式論的には」という条件を取っ払って6を結論するのは、それこそ飛躍だと思っています。

私はむしろ形式論を、「認識論」と「意味論」という、本当に問わねばならない難問を問うための前提的作業――私の言葉では、真の問いを問いとして浮きあがらせるための試み――として考えています。形式論は、どこまでも「内実のない形式」のみにしか関わらないのですから。

冒頭で私が最近おこなった研究発表について触れましたが、その発表もまた、そうした前提的作業としての形式論に徹したものでした。ただ、聴衆の皆さんは、認識論か意味論のいずれかを論じて欲しかった方が多かったようで、そんなところからも形式論の「どこまで行ってもやはり前提的作業」という性格が拭えないことを痛感した次第です。でも、やっぱり前提は必要なのだという私の立場は変わっておりません(それしかできないから?)。

さて、こうした前提的作業――真の問いを問いとして浮きあがらせるための試み――によって、いばさんの問い、即ち、

> つまり、原理はどうあれ、ともかくもヒトはモノから意味を読み取っていますし、その行為は少なくとも書き言葉には先行して存在しそうに思えるのです。つまりそれは、ヒト固有にそなわった能力(象徴化能力というべきでしょうか)ではないかと…。

という能力の所在も、少しでも「浮きあがって」いれば幸いなのですが、、、

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以上、遅筆のせいで失礼に失礼を重ねた挙句に逢着した見解です。、、、しかも、見解といっても、本当に「前提」でとまってしまっているのが誠に悲しい限りですが。聞くに、風邪が流行っているとのこと、いばさんもくれぐれもお気をつけ下さい。

さとう

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