letters

いば−さとう 編 (4)

以下は、もの研往復書簡: いば−さとう編 (3)(第5便)の続きです。今回も、一便のみで公開です。第4便での問いかけを受けて第5便で提起された「ものフェチ論」を、さらに先鋭化させていきます。また、次第に「解釈」という問題が前景化してきます。

■ 第6便 2002/09/09 : さとう → いば

いばいさお様

いやはや、お返事が遅くなってしまい、誠に申し訳ありませんでした。何をどう書こうか悩んでいたこともありますが、ここしばらくちょっと体調を壊していまして。おかげさまで、現在は復調しております。さて、さっそく本題に入らせていただきます。

------------------------

私が第4便で「ものとの出会いという『始まりの瞬間』ではなく、出会ってからの研究という『始まり以後』には、ものとの出会いで感じた感覚(=ものフェチ性)はどうなるのか」と問いかけたのに対し、いばさんは、先の第5便にて「ものフェチ論」を送って下さりました。そして、この議論は、いばさんのスタンスが鮮明に現れているだけに、大変興味深く読ませていただきました。特に、(これはもの研に関していえば、私のみならず、中井淳史さんの関心領域にも関わることですが)ものフェチ論を「ものと解釈の関係」と関係づけながら論じる視点、これは非常に啓発的だと思いました。即ち、

> 1つ目の解釈レベル(当時の人が△△と見ていなくても、現在に生きるわれわれが△△と識別できることを考古学の重要な成果とする解釈のレベル)が、私の前便でお話した手ぐせのパターン云々に相応し、2つ目の解釈レベル(われわれが識別したように当時の人も認識していなければ成り立たない解釈のレベル)が、より即物的な「手触りうっとり」遺物に相応するでしょう。

という箇所ですね。ただ、いばさんご自身が既に前便の中で気づかれているので蛇足に終わってしまいそうですが、いばさんのお考えを私なりに引き受けてさらに整理すると、こうなるような気がします。

(1) まず、ものとの出会いという「始まり」において、我々は「もの」に触発され、それに目を奪われます。これが「うっとり感」や「ものフェチ性」と呼ばれるものに該当するかと思います。さて、この段階は、まだ「解釈」ないし「理解」という語はまだ当てはまらないほどに、観察者はものを前にして「恍惚と」している状態と位置づけておこうとおもいます。いばさんの言われる「言語化以前の感覚的な情報」も、この段階に相当するのではないかと思います。

しかし、始まり「以後」、研究という形でものと付き合い始めると、即ち、「解釈」という段階に入ると、(1)の状態は変化します。

(2-A) いばさんの言われる「一つ目の解釈」に相当する、言語化・記述化による説明的な体系化の段階

(2-B) (2-A) を素通りした、「ものに対する安易な共感」とでも言うべき、いばさんの言われる「二つ目の解釈」

このように分けておくと、ものフェチ性は、(1)だけを指す場合と、(1)から(2-B)へ安易に移行したものを指す場合の2通りの用法が区別できそうです。ものフェチ性がいかがわしく感じるのは、いばさんが挙げられた理由((2-A)をせずに、(1)の感覚を一人で大事にしまい込んでしまうこと)と並んで、(1)から(2-B)へと飛躍してしまう「安易さ」にあるとも言えると思います。そして、いばさんが自身の研究の中に住まわせようとしているのは、(2-B)ではなく、あくまで(1)のみであると言ってよいかと思います。それが、以下のいばさんの言葉に顕著に現れていますね。

> しかし…、言語化以前の感覚的な情報は、われわれにとって発見の宝庫です。要は、急いで2つ目のレベルの解釈を下してしまわずに、しかし一人だけで抱え持たないでいつでも引っぱり出して言語化を試みられるようにしておくことだと思います(難しいですが)。

だからこそ、究極の理想は、(1)がその豊かさを保ったまま(2-A)へと移行することなんですよね。しかし、それはなかなか実現できない(原理的にできない?)ことを考えれば、「始まった瞬間と始まってしまった後との隔たり」は、やっぱりジレンマの原因であり続けるようですね。

--------------------------

ただ、いばさんの文章を読んでなるほど、と思ったのは、ものとの出会いという「始まりの瞬間」が、いわば「過ぎ去らない持続する瞬間」として捉えられている点です。ちょっと以下は深読みかもしれません(その場合、あくまで「私の思考の展開」としてのみ、お受け取り下さい)。

私の場合、「始まりの瞬間と始まってしまった後との隔たり」という語が指し示す通り、は、ものとの出会いは、「常に既に私を過ぎ去ってしまった過去の瞬間」として考えられがちです。喩えれば、誕生してしまった者にとっては決して立ち戻ることのできない誕生の瞬間のように。それは、わたしの第1回研究会での発表の中で、ずっとこだわっていた問題でもあります。また、第2便での私の言葉を使えば、「完了形の出来事」としてしか捉えられない「始まり」とも言いじゃえられると思います。

他方、いばさんの場合、その始まりの瞬間は、「常に私と共にあり続ける瞬間」として考えられていると感じられるのですが、如何でしょうか。喩えれば、この私が生きている限り、意識しようがしまいが、常に私を動かし続ける心臓の鼓動のように。いわば、動機 motive が絶えず作動 motion し続けている、とでも言えましょうか。だからこそ、言語化以前の感覚的な情報が「発見の宝庫」として、位置づけられているのではないかと感じました。

ちょっと過度に図式化してしまえば、始まりの瞬間が、私にとっては『原初にあった最初の一撃』であるのに対し、いばさんにとっては『永続する不断の躍動』として感じられている、と言えるかとも思います。或いは、私の考えるものとの出会いとは「もう終わってしまっている」始まり、いばさんの考える始まりとは「その余波がどこまでも残り続ける」ものとの出会い、と。ちょっと二分法が過ぎた感があるのですが(しかも、私の側で勝手に立てた図式なんですが)、ものフェチ論を進めて行くにつれて、我々二人の間の「時間に対する感覚」にまで話が及ぶとは、何とも面白いですね(深読みだったらすみません)。そして、その「時間に対する感覚」の違いを念頭に置いた場合、いばさんが前便の最後に記された問いかけ

> もしこう言って良いとすると、「思惟する私」の原初には”モノフェチ”性がある、と言って良いのではないか?これは言いすぎでしょうか?

という問いかけには、半分賛成半分反対ということになります。即ち、確かに「原初」にはものフェチ性がある、それはまさに同感です。故に賛成。しかし、「原初」という時間のとらえ方が異なるのではないか。故に、その点では反対、と。

もちろん、私の場合でも「ものとの出会い」は何度でも起こる不断の生成転変の出来事なんですが、やっぱりその出会いにくらべて、思惟する私は常に既に遅れている、それが私の哲学の自己観です。その意味で、原因の私(=ものとの出会いを感じる私)と結果の私(=その出会いから生まれた思惟する私)とが分裂しています。それが「反省」----自分が自分について振り返って見る----の哲学の基本原理です。
「時間感覚の差異」を手掛かりにしたものフェチ論に、かなり熱を入れ込んでしまいました。その理由は、まさに今の議論が、世の中の多くの事象に対してそれこそindifferentな私が、珍しく関心を寄せるたった5つの領域(1.もの、2.解釈、3.はじまり、4.反省、5.思惟)の、ほとんど全てに関わるからです。というか、そっちに強引に引き寄せた議論しか展開できず、誠に恐縮です。

--------------------------

さて、今までの議論は、ものフェチ性を時間論的視点で考えてきたものでした。いばさんは、前便の中で、それとは違った視点からの問題も提起されています。それは「主観性 / 間主観性」或いは「個人的体験とその共有化」という視点です。

> さとうさんが前便でおしゃったように、「思惟する私」になる直前には、「モノが私に現れる」という体験があるわけですよね。その体験は、だれにとって[も]等しい価値を有する体験なのでしょうか。それとも、それぞれの「私」によって異なる非常に個性的個人的な体験というべきものなのでしょうか。私は密かに後者ではないかと予測しています。

この問題、実は、第1回研究会での質疑応答でも問題になった主題にも通じるところがあります。質疑応答の場において、私の「in-differentな眼差し」という概念に対し、「それは『客観的な眼差し』とはちゃうんですか?」という質問を頂きました。in-differentな眼差しとは、ものとの出会いという過ぎてしまった体験をもう一度捉えなおそうとする眼差し、それを反復しようとする眼差しのことですから、まさにその方のご質問は、いばさんのそれとも接点を持つと思います。

私の考えでは、他人がものをどう見ているか、そのこと自体が分からない以上、あまり断定的な答えは出せないのですが(そもそも、私自身にとってさえ、私とものとの出会いは謎めいているのに、況や、他人のことなど...)、やっぱり私も「個性的個人的な体験」だと思います。私のいうin-differentな眼差しも、やはりそれが眼差しである以上、いわゆる客観的な眼差しではありえません。それは、原初において起こった個性的個人的な体験を再び捉えなおす眼差しだ、と言ってよいかと思います。

やはり、ものとの出会いは、決して「純粋無垢なもの」ではないと思います。「新たな出会い」「発見」などというと、全くの未知の領域に出会うかのように聞こえますが、やはり、それ以前の個々人の体験が何らかの形で土台となって起こる出来事ではないかと思います。それゆえ、ものが私に現れる出来事は、個人差があってしかるべきだと思われます。それは、客観性とか先入見のなさとかいった基準で考えられるのとは別次元のことで、意識化・体系化を経ているかどうかという基準で考えられるべき事柄だと言っておこうと思います。

しかし、このように書けば書くほど、いばさんがジレンマ的に呈示されたこと(私なりに言えば、(1)がその豊かさを保ったまま(2-A)へと移行するという究極の理想)は、より一層ジレンマになってしまいますね。うーむ、困った...。どうやら、この問題は、いばさんが提起された「ものと解釈」の問題、そして、「説明としての解釈(2-A)と共感理解としての解釈(2-B)」を、もっとしっかり考えないといけないのでしょうか。「解釈」の問題については、ちょうど次回のもの研究会のメインテーマが「もの、解釈、歴史」ですので、ちょうどいいですね!(むぅ、宣伝くさい...)

さて、どうしましょうか。ものフェチ論をさらに続けるもよし、そこから発展した体験の共有化論に話を進めるもよし、という分岐点にさしかかっているようです。ここからさらに話を続けたいのもやまやまですが、だいぶ長くなってしまいましたので、本便はこの辺りにて終わらせていただきます。お返事が遅くなってしまったこと、最後にもう一度、お詫びさせていただきます。ではでは。

さとう

▽ next page

△ page top