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いば−さとう 編 (3)

以下は、もの研往復書簡: いば−さとう編 (2)(第3便&第4便)の続きです。今回は、一便のみで公開です。分量があり、かつ読み応えのある「ものフェチ論」の便ですので、一便のみで一頁使ってしまいましょう。

■ 第5便 2002/08/20 : いば → さとう

さとうけいすけ 様

 泥田にはまって身動きとれなくなった議論を、要領よくまとめてくださいました。私の発言を読み返してみるといろいろと言い訳・注釈を加えたくなるのですが、ますます深みにはまりそうなのでやめておきます。

 一言だけ付け加えると、私の前便でお話した「手ぐせのパターンで土器を読みとる云々」というところは、古くは佐原さん、最近では家根祥多さんや深澤芳樹さんが実践され、角張淳一さんの石器の製作技法論や、さとうさんが掲示板で触れておられる岡安光彦さんが紹介なさったアフォーダンス認識論にも触発されました。
> 研究ないしものとの出会いの「始まり」以後には、一体、その始まりの根底にあった「ものフェチ性」はどのような運命を辿っていくのか

 ここはさとうさんが前便で整理されたのを受けて、この話題に移ることにしましょう。

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> 認識論の場合、「始まりの瞬間」が謎めいていた以上、「始まり以後」は却って首尾一貫したものになります(思惟する私しかいないわけですから)。

 そうなんです。
 考古学ではまずモノとの出会いをそのまま受け入れなければ始まらないと思います。が、それゆえ(かどうかよくわかりませんが)その「始まり以後」はどうにも首尾一貫せず、おさまりが悪いです。
 少し分野の違う文系研究者から「考古学の人は××というモノを△△と見ているけど、当時の人が××を△△と見ていた確証はないでしょ(△△と見ているのは現代に生きるあなたの主観・恣意じゃないの)?」と意地悪な質問を受けると、絶句してしまうのです。
 その理由の一つには、われわれがモノに対して下す解釈には少なくとも2つくらいのレベルがあるのに、それらをきちんと整理できていないということがあるのではないか、と考えています。つまり先の例でいうと、当時の人が△△と見ていなくても、現在に生きるわれわれが△△と見分けることができればそれでよい、いや△△と識別できること自体が考古学の重要な成果である、という解釈のレベル(たとえば型式編年で表現される通時的なモノの形態変化がそうでしょう)。もう一つは、われわれが識別したように当時の人も認識していなければ成り立たないような、解釈のレベルです。

 考古学では、われわれが識別できた何らかの遺物・遺構やその特徴を、「当時の人は意識していたにちがいない」と解釈することがあります(実際に、そう言ってしまいたくなる場合がある)。これは、それらをわれわれの恣意によって識別したのでなくて、その当時にも何らかの特別な意味があると認識されていたものであり、それゆえわれわれにも際立った特徴として認識できるのだ、と主張しているのです。
 そういうこともあるかもしれないし、否定はしません。しかし、当時それらが「意識されていた」かどうかを論証することは非常に難しいです。なぜなら、無意識に作られた「モノ」なんてのはありえず、したがって考古遺物はすべからく「意識して」作られているのだから、「当時も意識されていた」という場合の意識とは、意識の程度の問題ということになるからです。失われた当時の意識のありようを考証することは考古学の夢ですが、非常に難しいと気づかざるをえない・・・。

 では、この2つの解釈レベルを噛み分けるにはどうしたらよいか。この点にさとうさんが提起された「始まり以後」の問題が、大いに関係するのではないかと思います。要するに、「始まりの瞬間」を改めて問い返さず所与として受け入れたかわりに、「始まり以後」におけるモノの説明・解釈にはより慎重さが要求とされるという次第。

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 結論を言ってしまうと、1つ目の解釈レベル(当時の人が△△と見ていなくても、現在に生きるわれわれが△△と識別できることを考古学の重要な成果とする解釈のレベル)が、私の前便でお話した手ぐせのパターン云々に相応し、2つ目の解釈レベル(われわれが識別したように当時の人も認識していなければ成り立たない解釈のレベル)が、より即物的な「手触りうっとり」遺物に相応するでしょう。
 誤解が無いように言っておきますと、2つ目のレベルではすべて、観察した方の「うっとり感」にしたがって解釈されている、と言っているわけではなく、資料操作の手続きのことを言っているのです。対象遺物に見られる他との差異を、そのまま解釈に結びつけるのが2つ目の解釈レベル。そうではなく、どのようにしてそのような差異が生まれたのかを何とか工夫して説明して(この工夫の凝らし方が腕の見せどころと思います)、遺物から直接解釈を導くのではなく、その説明にもとづいて解釈しようというのが1つ目の解釈レベル、と考えています。

 奥歯に物の挟まったような言い方で恐縮ですが、経験の浅い私がここで考古学の資料操作法を展開しても仕方がないので、次に続けることにします。

 で、この資料操作(私の例でいえば、土器の調整・紋様を私自身の手によってシミュレートするやり方)によって、あるパターンをいくつもの土器によって繰り返し確認する作業自体は、おっしゃるとおりかなり意識的な作業です。しかし、一つ一つの土器に対して、成形・施文されるときの手の動きなどがどのようであったかを探り当てようと観察しているとき、そのときは土器に耽溺していると言ってよいかもしれません。

 どこにとっかかりを求めるべきかわからなかった初心者のときには、土器観察は退屈でした(何をやっているのか良くわからなかった)。ある程度なじみができてからパターンをつかむまでが、もっとも耽溺というにふさわしい付き合い方をしていた気がします(私はこの時期に多くの遺物に接する機会があまりなかったので、耽溺したという実感があまりないのですが・・・)。モノは目に飛び込んできましたが、パターンは観察の試行錯誤の中から気づいたり、土器を前にしていなくてもある日突然気づいたりします。いったん気づいてしまうと、より意識的に観察を重ねて確かなものにしようと努めますから、耽溺の程度はずいぶん浅くなります。
 私はどちらかというと感覚が鈍いほうですから、かなりの量を見ないとパターンを発見しません。鋭い人は少ない量で発見してしまいます。発見するまでが耽溺のときですから、鋭い人ほど耽溺の機会が多いに違いない、と思っています(?)。他人のことですからよくはわかりませんけど、少ない量で発見しているように見える人のなかには、予断や当てはめ、あるいはすでにパターンの確認作業に入っていらっしゃる場合もあるのかもしれませんね。

 さとうさんの問いかけから少し外れたような気がしますので、もう少し付け加えておきます。

>研究ないしものとの出会いのの「始まり」以後には、一体、その始まりの根底にあった「ものフェチ性」はどのような運命を辿っていくのか

 佐原さんが記述された弥生土器の中に惹かれるものがあって、「いつかこれを自在に扱って説明できたらなあ」と思ったことがあります。いまになって、他のたくさんのタイプの弥生土器とともにこれをいくらか説明できるようになりました。そうなるまでの過程は上述したとおり。で、かつて惹かれた土器をいまの私はどのように感じているかというと、やっぱり愛着を感じます。一種の独占欲に近い感情が含まれているかもしれません。しかし、この土器は私でなきゃ説明できない、などとは思っていません。けど、将来ほかの誰かがより魅力的な観点から説明してみせたとき、そのとき私に嫉妬のような感情が起こらないように・・・、と心から願っています!

 こんなイージーな書き方でご理解いただけたでしょうか?

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 さて、パターンを発見し、なんとか工夫を凝らして説明・記述できたとしましょう。先述したように、パターンの発見は感覚による観察から導かれます。説明・記述のための工夫とは体系化のことです。ところがその記述は、感覚が受け取った土器の印象(情報の総体)とはかなり異なった(平板でつまらない)ものになってしまいがちです。体系化によって、感覚がキャッチした情報の多くが欠落してしまうのです。体系化の過程でこぼれ落ちた情報でも言葉を尽くす努力はできますが、他人を納得させることはないでしょう。ある程度の体系化が図られなければ、意味が一貫しませんから。また、こぼれた情報はいちいちその性質に即して体系化してやらなければいけないですが、並大抵の作業量ではありません(少なくとも私にとっては・・・)。
 一番いいのは、他人を納得させることをあきらめて、一人で黙っていることです。上記のように、感覚がキャッチした情報を他人と共有することはたいへん難しいことだと理解すれば、やむをえずあきらめる場合ばかりでなく、全部放り出してあきらめてしまうこともあるでしょう。このように、言語化する以前の情報を一人で抱え持って他人と共有することを拒む姿勢に、”モノフェチ”のいかがわしさがあるのかもしれませんね。

では、言語的に体系化される以前の感覚的な情報は、どのようにしても共有することはできないか?まったくできない、とは言えないと思います。「共感」という言葉もあることだし。ただし共感は、論理的に正しい知識の共有とは言えないし、「共感」の乱用には危険な側面があることはご承知のとおりです。共感だけでやっている日本考古学、と言われないようにしたいものです!しかし…、言語化以前の感覚的な情報は、われわれにとって発見の宝庫です。要は、急いで2つ目のレベルの解釈を下してしまわずに、しかし一人だけで抱え持たないでいつでも引っぱり出して言語化を試みられるようにしておくことだと思います(難しいですが)。

 さとうさんが前便でおしゃったように、「思惟する私」になる直前には、「モノが私に現れる」という体験があるわけですよね。その体験は、だれにとって等しい価値を有する体験なのでしょうか。それとも、それぞれの「私」によって異なる非常に個性的個人的な体験というべきものなのでしょうか。私は密かに後者ではないかと予測しています(いや、「体験」と言ってしまったからそうなってしまうのかもしれませんが)。その体験が、他人に対して説明することが難しい、あるいはある程度棚上げせざるをえない個人的体験であるとするならば、「始まりの瞬間が謎めく」ことも、また仕方がないことではないか、と思います。いかがでしょう?
 もしこう言って良いとすると、「思惟する私(哲学のスタンスに立たなくても、ここに出発点をおくことの合理性は理解できます)」の原初には”モノフェチ”性がある、と言って良いのではないか?これは言いすぎでしょうか? 強引な結論、すいません。

 なんだか最後は共感を求める語尾を連発して終わりました。なんとか”モノフェチ”論になりましたでしょうか。長文になりました。ご容赦ください。 急に涼しくなりましたが、体調など崩されませんように。

   いば

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