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いば−さとう 編 (1)

以下は、2002年7月から始められた、いばいさお氏(専門: 考古学)とさとうけいすけ氏(専門: 哲学)の間でやりとりされた往復書簡の記録です(両者の希望で、何故か平仮名表記)。いば氏からさとう氏に対して、さとう氏の研究発表を踏まえた質問から書簡は始まります。ですので、そちらの研究発表にも目を通しておくと、一層、理解が深まるのではないかと思います。

■ 第1便 2002/07/19 : いば → さとう

さとうけいすけ 様

 せっかく第1回の研究会に参加させていただいたのだから、なにかコメントしなければと思っていたところです。が、掲示板は多くの人の議論参加を前提にしていますから、論点を絞れなくなってしまいました。ちょうど具合のいい企画を立ててくださったので、参加させていただくことにします。
 もっとも、学生時代にデカルトを読み出して挫折して以来、哲学はまったくだめです。孫引きと経験とカンだけが頼りの議論ですが、よろしくお願いします。

*** ○○○ ××× △△△ ??? ***

 さて、研究会のさとうさんのご発表です。
 研究会から少し時間がたってさとうさんの発表要旨を読み直し、さとうさんと、そして中井さんおよび私たち考古学にたずさわる者たちとのスタンスの違いが、よくわかりました。
 私たちが普段行っている”モノについて考える”ことを私たち自身が反省的に考え直そうとした場合、まずは今行っているモノの解釈のしかたを相対化しようとして、別の解釈様式(解釈パターン)の可能性を探ろうとします(「別様にモノを読む仕方」)。そして、新たな可能性が開けたときに、いまの私たちの解釈様式がいかに固定観念にとらわれたものだったかが明らかとなり、そこにある開放感のような快感と刺激を感ずる、という次第です。
 しかし、さとうさんのスタンスは「モノを読まない仕方」ということだったんですね。この違いがよく理解できました。とはいっても、「読まない仕方」がわかったわけじゃないですが・・・。ともあれ、さとうさんの問いかけはより根源に触れる問いであるといえるでしょう。それに対して、私たちの目指すことは、どうしてもやはり "モノをよりよく読む仕方" になりがちです。

 さとうさんがカントの認識論からご発表を始められたように、モノに関する議論を突き詰めることは、近代西欧の思考様式を根底から問い直す壮大な議論に発展しそうだ、ということがだいたい理解できました。さとうさんは第1章から第3章において近代的思考のたどった歴史的流れを整理されていますが、私には第1章註4で触れておられる、表象主義の隠れた前提に主体中心主義があるというハイデッガーの指摘に興味を感じました。この主体中心主義の拡張が、解釈学から記号論的解釈へ導くことになる遠因と見えるからです。
 非常に大雑把にまとめてしまうと、これらでは「○○という主体は、××というモノを、△△と見る」という具合に、「○○」という主体を立てることによって、「××」というモノが「△△」と認識される、と説明しています。つまり、主体である「○○」がいなければ、「××」から「△△」が導き出されることはなく、「××」は単なる××のままに留まります。
 ここで重要なことは、「××」というモノは「○○」という主体(われわれ)との関係において、われわれのなかに「△△」という認識として上ってくることです。あたりまえのことですが、私たちはモノをヒトの認識とは関わりなく存在するものとして対象化する自然科学とは異なる立場にたって、モノを扱おうとしていることを確認しておきます。

 もちろん、自然科学の観察結果や科学的法則ですら、モノ(××)に関するわれわれ(○○)にとっての認識(△△)でしかない、と考える立場もあります。
 しかし、私はこの考え方に賛成する気になれません。自然科学の営みの実際を知らない私には、なぜ賛成すべきでないかをうまく説明できないけれど、、、。

*** ○○○ ××× △△△ ??? ***

 さて、ここまでは、さとうさんのご発表の「第1部 No-thing」の内容を、私なりに復唱したようなものです。
 「第2部 Some-thing」では、さとうさんはアーチストや美術史におけるいくつかの試みを例示しながら、主体による「関心ある眼差し」によって見出されたモノの背後には、おそらく膨大に存在すると思われる「見出されなかったモノ」が存在していなければならないことを指摘して、「主体の関心が貼り付いたモノ」の特権的地位を相対化しようと試みておられます。
 そうした議論のなかで、さとうさんが示した "モノ論のコンセプト" はと見ると、

「類似性」 「受動性」 「無関心/無区別な眼差し」 「モノ解釈のゼロ度」

・・・ などを挙げられるでしょうか。

 第2部は、「私たちの関心を引いたモノ」をよりよく解釈することを切望してやまない考古学研究者たる私には、ついてゆくことが難しくなる部分です。おそらくさとうさんにとっても、ここに大きな課題をお持ちなのではないかと推察しました。

 とはいっても、私たち考古学研究者の「関心を引かなかったモノ」は無視してよい(どうせ見えなかったのだから・・・)と、安易に居直っているわけではありません。むしろ、見出した(掘り出した)モノをよりよく解釈するための鍵は、たくさんあるにもかかわらず「見落としたモノ」のなかに隠されているかもしれない(あるにちがいない)、ということを絶えず(できるだけ)心にとめておくよう自戒している、というところです。また、こういう態度を保持しておくことよって、バランスを保とうとしているのかもしれません。

 さて、私なりにさとうさんの4つのコンセプトを分類すると、「関心を引かなかったけれど、どちらかというとモノの方から存在を主張してきた」という説明にまとめられるのが前の二者、「関心を引かないモノに対する主体の眼差し」(形容矛盾ですが)にまとめられるのが後の二者でしょう。
 後の二者(特に「モノ解釈のゼロ度」)は研究会でも議論になりました。そのわかりにくさ、という意味で(でしたよね!)。さとうさんの議論を読めばわかるとおり、論理的に導き出されたゼロ度ですから、実態としてその意味を汲み取ることは難しいわけです(上記のとおり、形容矛盾する言葉によって説明する必要があるわけだから)。私にとっては、これよりも前の二者のコンセプトのほうをより面白く感じます。これまで私が考えてきたこととも合致する点がありそうです。

 つまり、後の二者の場合には、主体中心主義の前提にたって、見出されなかったモノを俎上に載せようとするわけですから、主体の認識・関心の理論的ゼロ度という無関心/無区別な段階を設ける必要が生まれてくることになります。しかし、前の二者では、モノを見出すヒトが中心主体の地位から転げ落ち、主体中心主義が倒立されています。したがってこの含意を推し進めると、ヒトがモノを見出すのではなく、 "ヒトは周囲のモノによって、認識という精神的活動をさせられている" ということになるのではないでしょうか。そして、こちらのほうが、私の考古学における経験により近いと思えるのです。

*** ○○○ ××× △△△ ??? ***

 日々モノを扱っていて何かを発見したり、新しく何かに気づく時の経験によれば、まずモノの存在の知覚が先にあり、それを「発見だ!」と気づくのはその後のことになっていると思います。つまり、平凡なモノ(土器、石器ばかりでなく、石、砂、粘土も含む)にあふれ返った発掘現場において、解釈などはしなくとも、まずはそれらが存在することの知覚だけは行っていると思います。そのなかから、発見にふさわしいモノはモノの方から私にうったえてきて、他の平凡なモノとの違いを印象付けます。モノをじっくり観察して、それが何らかの発見であると認識できる所見を得るのは、その次の段階です。

 もう少し論理的な説明を試みましょう。発掘現場では、トレンチの隅から隅までを詳細に観察して記述し尽くし、そのそれぞれを他の調査例にいちいち照らしてから、その中のどれかについては新発見であったと判断する、という具合な手順をとることは、少ないです(このような手順をとる場合の発見とは、説明方法などの方法論的な発見である場合です。ここでは、モノの発見というケースに限ります。)。もちろん、レポートを作成するときには、このような説明の順序をとります。しかし、実際にモノを発見する場ではまったく逆です。発見だ!と認識するための詳細な観察を行うまえに、すでに平凡な多くのものの中から「発見だ!」につながりそうな、発見候補のモノを選び取っています。そしてわたしが「発見」候補のモノを選び取る直前の知覚においては、発見候補のモノたちはそちらから私の知覚にうったえてくる、まさに比喩ではなく、モノの方から「目に飛び込んでくる」「視線を吸い寄せる」のです。
 つまり、モノの知覚は主体中心の行為ではなく、モノの方からやってくるものであり、その次の段階に認識という過程が開始されるというわけです。知覚がやってくる前に認識という過程は生じません。したがって、認識とは主体的行為であるよりも、受動的にさせられている精神的活動である、といえないでしょうか?

 私の経験をお話したところで、やはり私の眼差しは一定程度の訓練を積んでいます。その訓練によって、あらかじめ発見が準備されているのだ、という反論が予想されます。そこで、次のように考えてみてはどうかと思います。

 つまり、個々具体的なモノではなくそのどれでもであるところの抽象的な「モノ」について考えるのではなく、実際に存在している具体的なモノのそれぞれ(つまり、私がいま触っているパソコン、胸ポケットに入っているライター、腰掛けている椅子などなど・・・)と、私自身とが関わりあっているその場面における私という主体は、認識という精神的活動を行っているヒトである以前に、身体というモノである、ということです。
 モノに対する認識とは、精神的な活動をはじめる前に、まずはそのモノと私の身体というモノとの接触(五感のうち、必ずしも触覚だけに限定する必要はないでしょうが)において始まるのではないか。このように考えることによって、私の発掘現場における経験(認識に先行する知覚)も、説明できるのではないかと考えました。

*** ○○○ ××× △△△ ??? ***

 やれやれ。このへんでさとうさんのご意見をうかがうことにしましょう。少し先走りすぎました。私の関心に引き寄せすぎて曲解しているかもしれません。考えを適切に言葉に置き換えることができているかどうかも疑わしくなってきました。
 手短にまとめると、モノ研究によって近代西欧の知のあり方に対する批判のよりどころを模索する試みであったさとうさんのご発表は、模索途中であるという雰囲気を漂わせながらも、「モノ解釈のゼロ度」という提案に収斂したかに見えました(これでよろしかったでしょうか?)。私はこれに対して、「モノ解釈のゼロ度」という考え方も、やはり主体中心主義に属す考え方ではないかと考えました。そこで、さとうさんが少しだけ触れた「受動態」というコンセプトを中心におき、モノの知覚の瞬間とその後に続く認識という過程、という経験を反芻しながら、知覚(そして認識)が受け身な活動であり、その局面では「私」は認識する主体ではなく身体というモノである、という考えを提示しました。

 まだ十分に練れていませんが、このような感想を抱いた次第です。

  いば

■ 第2便 2002/07/24 : さとう → いば

いばいさお 様

連日、うだるような猛暑が続く中、いかがお過ごしでしょうか。

このたびは、もの研往復書簡なる企画に賛意を示していただき、誠に感謝しております。企画発案者として、心より御礼申し上げます。さてさて、堅苦しい挨拶は早々に切り上げて、早速、楽しみであったいばさんとの対話にうつらせていただきます。

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第一便からはやくも的確かつ濃厚な書簡をいただき、うれしく思うとともに、ひしひしと知的対話特有の緊張感を感じております。特に、(ご指摘の通り)試行錯誤ないし暗中模索の段階であった私の発表を、いばさんが的確にまとめていただいたことで、私自身、自らの論点とその問題点を再認識することができました。いばさんの言葉をお借りすれば、「「主体の関心が貼り付いたモノ」の特権的地位を相対化する試み」、それが私の考えている思索のありどころだと言えます。

この試みを、私は「主体中心主義への批判」といった語を用いて説明してきたのですが、何かそうした私の試みには、依然としてなお主体中心主義の前提が拭えていないような感じが、私自身の中で残っていました。そして、そのことをいばさんは、「類似性」「受動性」「無関心/無区別な眼差し」「モノ解釈のゼロ度」という四つのキーワードを二つに分類することで、より一層明確にしてくださいました。一応確認しておけば、「関心を引かなかったけれど、どちらかというとモノの方から存在を主張してきた」グループと、「関心を引かないモノに対する主体の眼差し」グループですね。

さて、実際、私のもの論の根幹にある「もののもの性を垣間見る試み」とは、端的に言えば「ものを受動的に見ること」だと呼ぶことができます。既にして矛盾した表現ですが。何故なら、「受動的に」といいつつ「見る」という能動性が加わっているからです。「どっちやねん!」とお叱りが飛んできそうですが、まさにこうした曖昧さが、発表にも見事に反映されてしまったようです。いばさんが具体的に説明された「モノの方から「目に飛び込んでくる」「視線を吸い寄せる」」出来事と、私のいう「ものを受動的に見ること」との間には違いがあるのかないのか、本便では、そのあたりのことを、若干私なりに考えてみたいと思います。

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恐らく、「受動性」に重きを置くいばさんのお考えでは、こう整理してよければ、その出来事において "イニシアティヴ" は、明らかにものの側に置かれていると思います。他方、私が発表の前半で整理したような "主体-意味-言語" 連関から発せられる眼差しの場合、明らかにイニシアティヴは主体の側に置かれています。そして、私の議論の場合、その辺りが微妙で、どっちつかずになっています。実際のところ、私もまた、「ものと出会う経験」というのは、恐らくはもの側にイニシアティヴがあるであろう出来事だと考えています。その点で、いばさんのお考えと、私の考えとは、そう隔たっていないと言えます。

それでは、何故私は曖昧なのでしょう。実は、私が曖昧な理由は、いばさんが前便後半で述べられた「知覚と認識」の差に、その答えが見出せそうな気がします。非常に重要な箇所ですので、丸々引用させていただきます。

> モノの知覚は主体中心の行為ではなく、モノの方からやってくるものであり、その次の段階に認識という過程が開始されるというわけです。知覚がやってくる前に認識という過程は生じません。したがって、認識とは主体的行為であるよりも、受動的にさせられている精神的活動である、といえないでしょうか?

実は、私もほぼ同様なことを考えていました(後だしジャンケンのようで恐縮ですが)。まず、知覚という意識にはのぼってこない経験らしきものがあって、そこから意識的-精神的作用としての認識が生まれる、という過程。故に、認識とは、「この私がなす」働きであるというよりは、「この私がなさしめられる」働きであるという感覚。まさにその受動性。その点については、全く異論がございません。

では、私がいばさんと異なる点はどこにあるか、それは、「知覚と認識の "時間的" 隔たり」についての考え方に原因があるようです。認識は知覚から生まれる、故に、知覚は認識に先立っています。その点では、私たち二人は一致していると思います。ですが、問題は、「認識に先立つ知覚そのものを認識できるか?」という点なのです。具体例で考えてみます。せっかくですので、いばさんの挙げられた例を拝借するといたします。

歓喜の中で何かを発見するという出来事。いばさんはそれについて、

> わたしが「発見」候補のモノを選び取る直前の知覚においては、発見候補のモノたちはそちらから私の知覚にうったえてくる

と述べられました。私は、この点に留保をつけさせていただきたいと思うのです。何故なら、「発見だ!」と私が喜んだ瞬間、それは、正確には「発見した!」ないし「発見してしまった!」という、"完了形の出来事" ではないかと思うからです。つまり、発見だと思った瞬間とは、既に発見してしまった瞬間であって、原初の知覚ではなく、それについて認識をおこなってしまった瞬間だと思うからです。「発見だ!」と思った瞬間、それと同時に、それがどのように私の身に起こったのか、私たちは果たして理解しているでしょうか?むしろ、理解しておらず、「ほんの直前に私に偶然のように降りかかってきた(であろう)」としか言いようのない出来事、それが発見なのだと思います。

とすると、発見直前(ないし同時)に起こっている知覚について、そう直ちには「もの側のイニシアティヴ」と決めてかかるわけにはいかない気がするのです。何故なら、そこで起こっていた(はずの)知覚自体は、私たちの意識にはのぼってくることがなく、私たちの手元に残されているのは、認識でしかない以上、知覚のイニシアティヴがどちらにあるか自体、よく分からないからなのです。こう言ってよければ、私たちの意識作用としての認識は、常に既に知覚に遅れてしまっているのです。故に、知覚の働きを捉え直そうとすると、永遠に終わりのない「知覚と認識の追いかけっこ」が始まるのではないかと思います。

こうしたわけで、私は「受動的に見る」という、受動的なんだか能動的なんだか、よく分からない概念をそのまま呈示したようです(発表時はまだよく分かっていなかったのですが)。受動という文法用語に誘われて、さらにもう一つ文法用語を用いて要約しますと、「発見とは現在(進行)形で認識されるのではなく、完了形で認識される出来事なので、それに先立つ、既に終わってしまった知覚そのものは、どういう出来事だったのかよく分からないのではないか」となりましょうか。

それ故、私はやはりまだ「ものから」考えることはできず、「主体から」考えざるを得ないのです。ただし、それは「主体が認識対象を全て決定できる」と考える主体中心主義ではなく、「主体(=この私)の認識の結果からしか思考できない」という、言わば方法論的な主体中心主義なのですが。

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あれあれ、もの研のはずが、認識や知覚の話に集中してしまいました。少し「ものネタ」に戻すとしましょう。実は、私のこうした「知覚と認識の時差」は、「もの」について考える際の、大きな手がかりになっています。発見という瞬間的な出来事に限定されず、もっと持続的なものとの接触についても適用できるかな、などと考えています。即ち、「ものに耽る」ないし「ものに没入する」という出来事に、です。

私自身の経験から、卑近(?)な一例を挙げさせてください。

私が小学生の頃、当時住んでいた家の前には田んぼが広がっていました(田舎育ちがバレるわ)。さて、私と友人は、どういう経緯か忘れましたが、ある雨の降った日のこと、田起こしも終わって水を張る直前の泥沼状態の田んぼに足を踏み入れました。今にして思うと、なんて不届きなガキでしょう。... すると、何とも言えない感触が、たまらなく楽しいのです。雨降りだったので長靴をはいていたのですが、泥の表面に靴底が触れると、一瞬、表面に広がる泥の抵抗が張り詰め、足がその抵抗を破った直後、まるで、深海へと続くかのように、何の抵抗もなく足が泥の中へと沈んでいく ...。私たちは、夢中になって足元に広がる抵抗と無抵抗の戯れを繰り返し、次第に深く泥に沈みこみながら、何歩も足を進めていきました。歓喜の声をあげていたのかどうかさえも忘れるほどに。

しかし、です。ふと見渡せば私たちは田んぼの只中。 ...そう、既に私たちは、帰るに帰れない状態に陥っていたのです。私たちの体の重さ故、一歩足を踏むごとに、底無し沼と化した田んぼに沈んでいくのですから。急に我に帰った二人。泥の楽しさに没入している場合ではありません。それこそ、自分の体が泥の中に没入してしまう危機なのです。もはや長靴は完全に泥に埋没し、もがけばもがくほど動けなくなる半泣き状態の私たち。 ...幸い、二人とも何とか生還できましたが、もちろん親から激怒されたのは言うまでもありません。

さて、このアホな小学生の私の経験で何が言いたかったかと申しますと、ここでもやはり「知覚と認識の時差」があり、それが「もの(この場合、田んぼ)との出会いを構成している」契機になっているという点です。ものとの知覚段階での(受動的な)戯れと、その知覚を自分の意識で捉え直し、意味付ける認識の段階。ものとの出会いとは、程度の差はあれ、こうした二面性の中で出会われると私は考えています(この例の場合、ものについての知覚が(同じくものである)身体の経験である点が、露骨に強調されすぎているきらいはありますが)。

その「知覚と認識の時差」を極度までなくし、認識を知覚へとぎりぎりまで近づけたところに、私の言う「ゼロ度」が生まれるような気がするのですが、やはりいばさんのおっしゃるとおり、まだまだ試行錯誤の段階です。

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以上、いばさんが「イニシアティヴ」という観点から、ものとの出会いについて説明されたのに対し、私は、「知覚と認識の時差」という観点から、ものとの出会いについて説明してみました。途中で用いた「文法の比喩」を使えば、いばさんの視点は受動態/能動態という「態」に焦点が、私の視点は現在形/完了形という「時制」に焦点があったようです。ひょっとしたら、「知覚が受動態に見えるのは、知覚の段階では主体が没入しているから、主体性が欠如しているため」といった要約の仕方もできそうですが、話はあまり性急には進めないでおこうと思います。

実は、まだ「身体というモノ」など、いばさんが前便にて提起された問題を十分には取りこめていないので、そうした点も絡めつつ、いばさんと私の差を生んだ「モノについての知覚の捉え直し」について、もう少しいばさんのお考えを伺いたく存じます。もちろん、心理学や哲学の話ではなく、いばさんの経験に照らしたお話こそが、一番おうかがいしたいところです。例えば、大量の土器というモノに、どう接し、どう耽っているのか、などなど。

ずいぶん長くなってしまいましたが、今日のところはこの辺りにいたします。

  さとう

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