letters

らんまる−中井 編 (7)

以下は、らんまる−中井 編(6)に続く書簡です。ここに掲載されている12便、13便、あとがきをもって、らんまる - 中井編は終了です。

■ 第12便 2003/07/07 : 中井 → らんまる

うっとうしい日々がつづきます。現場もなかなかすすみませんね。

さて、なかなか重々しい問いを頂戴いたしました。

「人類の共通した財産として知をつみあげていく」ことに「意味」があるとするならば、そこにはどんな「意味」があるのでしょう?「何」のためにつみあげていくのでしょう?
あるいは、ただ「つみあげていく」「整理し蓄積させる」ことに意味があるのだ、と考えるならば、果たしてそのつみあげられたものは、そのままの状態で本当に「人類の共通財産」になり得るのでしょうか?

これはもはや、考古学という学問上の枠組みをはるかに越えた問いではないでしょうか。むずかしいです。これに対し、らんまるさんは以下のような答えを用意していらっしゃいます。

僕自身は、その「積み上げた」中から、「人類に‘普遍的’…な、‘法則…’を導き出すこと」、ここまでが学問の責務ではないかと考えています。そしてその一方で、その際に留意しなければならないのは、その「導き出した法則」が成立するかどうかという方法論レベルでの議論はもちろん必要ですが、その結果「成立した(あるいは、成立したと考え得る)法則そのものの評価・価値(是否)は、その時点では問わない」ということです。

そして、「法則」の評価や価値判断は、「その時点での風潮」なり「現代の風潮」なり、「今日的課題」なりにゆだねられるべきではないかと。そうすることではじめて、現代社会とのつながりが得られるのではないかということですね。であるにもかかわらず、らんまるさんのみるところ、考古学は「法則」の提示すら果たしていないと。

らんまるさんと私の考えとの間にどれくらいの距離があるかは、この「法則」なるものの実体にかかっているかと思います。もちろん、らんまるさんご自身、無理に「法則」ということばを使っていらっしゃることはわかります。ですが、具体的にどのようなことをイメージしていらっしゃるのでしょうか?

私の関心にひきつけてしまうとするならば、「歴史叙述」のごときものをさしているのかな、と思いました。それとも、ある「歴史的事実」のようなものでしょうか。たとえば、滋賀県の***遺跡では、弥生時代の後期にこんな土器が使われていたとか、AとBという土器をくらべると、Aのほうがあたらしいといったような。

この鉄器は何世紀のもの、この土器はあの土器より古い・・・私が以前もの研究会で話をしたときは、こういった点の解明を「史実の解明」ととらえ、これらをつむぎあわせて近江地域の土器生産の盛衰を述べる、といった「語り」を「歴史叙述」と区別しました(つもりでした)。前者はたしかに、考古学者でなければなかなかわかりにくい話です。考古学の専門家でない人たちを前に話をするときは、おそらく後者のような話を選ぶことでしょう。価値判断を現代の社会にゆだねるとするならば、むしろ後者のような話をどこまでできるのかが鍵になってくるのかもしれません。

これがらんまるさんのおっしゃりたかったことかどうかはわかりませんが、とりあえずこうとらえておきます。

私が「人類の共通財産としての知」という表現でいいたかったことは、上のどちらもです。むしろ、両者を意識的に区別することこそが、前便で申し上げた「(当座の)役に立つか立たないかという物差し」が持ち込まれる契機になるのではないかと思うのです。

「史実の解明」といった往々にしてマニアックな話であっても、これは未来(近未来も含めて)の考古学者の論点となります(埋もれてゆくということもまた、否定的な評価が下されるという点で、ひとつの価値判断にあたります)。その評価をめぐって、多くの考古学者が議論に加わることもあるかもしれません。

これは「歴史叙述」にしても同じです。ある考古学者が提示したひとつの「物語」が、人口に膾炙して、受け入れられてゆくることもあるかもしれません。そして、そういった「物語」にふれたことで、あらたに考古学を志す「年少の友人たち」もあらわれるかもしれないのです。私が「人類の共通財産としての知」といったのは、こういうニュアンスからなのです。

パウル・ツェラーンというドイツ系ユダヤ人の詩人がいました。彼は自分の詩について、こう語っています。

詩は言葉の一形態であり、それゆえにその本質上対話的なものである以上、いつかはどこかの岸辺に――おそらくは心の岸辺に――流れつくという(かならずしもいつも希望にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途中にあるものです――何かをめざしています。
何をめざしているのでしょう? 何かひらかれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけ得る「きみ」、語りかけ得る現実をめざしているのです。
(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」『パウル・ツェラン詩集』飯吉光夫編訳 小沢書店、1993)

たとえ話としてはいまや手あかのつきすぎた感がありますが、それでも私はこの姿勢に惹かれます。(真に価値あるものであれば)今後の人々に共有されるはずだという信念のみをいだいて、評価をゆだねるということ。これは、他者の評価を過度に意識してしまうことでおちいりかねない陥穽を避けるための一助となるのではないか、そう考えています。

もう夏はすぐそこまで来ています。

中井

■ 第13便 2003/09/03 : らんまる → 中井

この「法則」なるものの実体・・・「歴史叙述」のごときものをさしているのでしょうか。それとも、ある「歴史的事実」のようなものでしょうか。

僕が法則といったのは、そのどちらでもありません。自分自身充分うまく説明できないので申し訳ないのですが、敢えて言えば『複数の「歴史叙述」「歴史的事実」の俯瞰によって初めて見えてくるであろう、「(人間の)本質」「人間性」「真理」「一般理論」・・』を漠然と指しているつもりでした。もっとも、正直な話、そこには「普遍性」があるのか無いのか、あるいは求めるべきか否かについては、正直僕自身答えは見えていませんけどね・・。

ただ、いずれにしても、「事実」はあくまで事実であり、その事実を紡いで語られる「叙述」は、それを語るあるいは語りたいと思う「個人(例えば考古学者・研究者)」の、事実に対する「感想」「思い」であり「意思表明」だと、僕自身は考えています。僕がこだわるのは、それらとは違う、もっと本質的な「何か」であり、それを紡ぎ出したいのです。

「史実の解明」ととらえ、これらをつむぎあわせて・・・「語り」を「歴史叙述」と・・。前者は・・考古学者・・考古学の専門家でない人たちを前に話をするときは、おそらく後者のような話・・・私が「人類の共通財産としての知」という表現でいいたかったことは、上のどちらも・・

以前、他の考古学徒からも同様な指摘をされたことがあります。ちょっとオーバーかつ極端な表現で言わせていただけば、「未来の考古学者」あるいは「考古学者を志す人」、もう少し広げれば「同じ価値観を有する人」が、「認識する」からそれで良いではないかと・・。

しかし、僕はそれは少し違うのではないかと思うのです。この「史実(の解明)」あるいは「歴史叙述」を、「人類の〜知」であると考えること、そしてそれを「何時か誰かが理解してくれる・感じてくれる・・」というのは、僕自身は「考古学者(あるいは考古学・歴史学に関わる者)のエゴ」ではないかと思っています。あるいはもっと有り体に言えば、どこかで自分を納得させ、安心するための方便ではないでしょうか。

だからこそ、僕自身はそういった考古学研究あるいは歴史研究から導き出された、「事実」や「叙述」をさらに紡いで「俯瞰」すべきだと、その時初めて様々な「本質」が抽出しうる一方で、冷静に「事実」や「叙述」を評価・整理する視点ができ得るのではないかと・・。そんな風に考えています。

さてさて、いささか極論・暴論が過ぎた感がありますね。反省・・です。かなり論点としても、自分自身の思考としても煮詰まってしまったようですしね。

ですが、おかげさまで僕自身何となく何をすべきか、何を考えなければならないのかは、この往復書簡を通じて見えてきたような気がしています。具体事例に乏しく、今はまだうまく言葉にはなりませんが、今一度「考古学的具体的な事例研究」に立ち返って、自分の足下から組み立て直してみたいなあと思っています。ずるずると長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。

■ あとがき(中井)

らんまるさんと話し合った結果、そろそろ論点が煮詰まってきたように思われましたので、第13便をもってひとまず往復書簡を終わることといたしました。遅れがちな私のペースにあわせていただき、らんまるさんにはお礼申し上げます。

第13便の内容について、さいごにほんの少し私の考えを申し上げておきたいと思います。

第11便でらんまるさんが言及した「法則」について、私は「史実」とか「歴史叙述」というレヴェルを考えていましたが、らんまるさんの射程はそれ以上に広い(むしろ、考古学なり歴史学に限定されないイメージをお持ちであるというべきでしょう)ようです。言葉の正しい意味で人文学という視点にたっていらっしゃることがわかりました。

もうひとつ重要なのは、「人類の共通財産としての知」といった言説が、「考古学者のエゴ」で、「どこかで自分を納得させ、安心するための方便ではない」かと指摘されている点です。厳しいご指摘です。たしかにおっしゃる通り、こうした言説は積極的に現代社会にコミットしない、昔風の表現を使えば象牙の塔にこもることを正当化するいいわけになりかねません。学問をめぐる状況が大きく動いている現在、もはやこうした主張が有効たりえなくなっていることを肝に銘じておく必要があるでしょう。とはいえ、「説明責任」といった費用対効果にのっとったスタンスもとれない。要はバランスというわけですが、これがもっともむずかしいことです。いまいえるのは、少なくともこうした現状に意識的であるべきだということだけかもしれません。

大きな問題に直面しながら、けっきょくその輪郭をなでまわしてみるだけに終わってしまいましたが、私も大変刺激になりました。ありがとうございました。

△ page top