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らんまる−中井 編 (6)

以下は、らんまる−中井 編(5)に続く書簡です。そこで掲載した第9便以降、一旦長期の休止状態に入っておりましたが、第10便にて再開されました。

■ 第10便 2003/06/16 : 中井 → らんまる

往復書簡、私の勝手な都合でずいぶん長いお休みをいただきました。これまで「学際性」をめぐって意見交換をしてきましたが、第7便あたりで、らんまるさんが提起された『今、日本の「考古学」は、「何をしなければならないのか」』という問いを手がかりに、考古学という学問と「社会的」諸事情との関わりへと議論の焦点が移っていったのではないかと思います。

とはいえ、かなり間があいてしまったことで、これまでの書簡とのつながりが不明確になってしまったことは否めません(これはもちろん、間をあけてしまった私の責任です)。そこで、第7便〜第9便で出た論点をあらためて整理するかたちで、再開のとっかかりとしておきたく思います。ですので、過去のメールの繰り返しの部分が多くなることはご了承ください。

議論の出発点は、『今、日本の「考古学」は、「何をしなければならないのか」』というらんまるさんの問いです。この問いは二重の方向性を持っていることがこれまでのやりとりのなかで明確になりました。ひとつは体系化された学問として考古学が成立していないようにみえるがために、方法論や資料の解釈といった局面で、学際的であるべきではないのかということ、そしてもうひとつは、「現実としての今日の諸事情(社会的・日常的・個人的・・等)を'今'として直視」(第7便)すること、つまり考古学研究者のコミュニティ内にとどまらず、社会全般へ開かれたものにするという開放性の問題です。

このふたつの方向性のうち、つぎの論題となるのが後者の問題です。

私は手はじめに、「説明責任」論のみが考古学の開放性の根拠となることに疑義を呈しました。発掘調査の大半が、公金を使用して市町村や調査機関が担っている現状を鑑みるとき、説明責任の必要性はみとめますが、これが学問的な価値基準へ刷り込まれることは拒否しなければならないだろうというのが、私の考えです。公金を利用しているのだから、成果は開示されるべきという説明責任論は一方で、適切な公金の使われ方という価値基準も内包します。いわば、費用対効果が意識されるということです。これが学問的な価値基準とおきかわったとき、どのような茶番が起きたのかは、かの事件をみれば明らかでしょう。説明責任論が、考古学の開放性という学問体系にかかわる価値判断の基準となることはかくも危険なのです。

私の主張に対し、らんまるさんは「説明責任」論の大枠はご支持くださったように思います。こうした議論が、日常的な仕事の大義名分であり足かせにもなるというジレンマは、そうした場でお仕事をされてきたご経験に裏打ちされたもので、根なし草の私には大変重く響きます。「異文化間」の利用・援用においても「説明責任」論が適用されるべきというのは、これまで問題にしてきた濫用の現実に対し、ひとつの方策になりそうで、大変興味深いご指摘だと思いました。

さて、その一方でらんまるさんはひとつの問題点を提起されました。考古学は「社会的」諸事情とリンクできていないのではないかという問題です。つまり、「社会的・今日的課題」に対して、結びついていないのではないかという危機感を表明されたのでした。そしてらんまるさんは、環境汚染や自然保護といった今日的課題に積極的に発言する科学者を引き合いに出しておられます。彼らの姿に対し、私たち考古学者はどうであろうか。現実に直面する課題に示唆を与えたり、あるいはまだ顕在化されていない隠れた問題を浮き彫りにできたりしているだろうかと。

「社会的」諸事情とのリンクが、例示したように現代社会の課題解決というレヴェルを想定するとすれば、らんまるさんのご指摘はおそらく正しいでしょう。考古学はたしかにそれに成功していないようにみえます。しかし私は、あらゆる学問が現代社会に何らかのかたちで貢献しなければならないし、問題に発言していかなければならないという考えは、極端ないいかたをするならば、非現実的なものにみえるのです。

「説明責任」論と「社会的」諸事情へのリンクというのは、私にはほとんど同じことのようにみえます。そうしなければならないという思いが、しばしば強迫観念のように生成される点においてです。「説明責任」論への過度の眼差しが、学問的な価値基準をゆがめてしまうというのであれば、それは「社会的」諸事情においても同じことです。それは、「説明責任」論が「社会的」諸事情におきかわっただけにすぎないのです。

学問として未成熟であるか否かの基準を、このような「説明責任」なり「社会的」諸事情へのリンクなりを果たせているかどうかにみる考え方に、私は同意できません。これはつまるところ、(当座の)役に立つか立たないかという物差しで学問をおしはかることになるからです。月並みないいかたですが、人類の共通した財産として知をつみあげてゆくことに意味がある学問も存在するからです(そして、考古学は歴史的知をつみあげてゆくという点で、こちらにあてはまるのかもしれないと思っています)。

と、ここまで書いてみましたが、どうでしょう。上で申し上げたように、「説明責任」論も「社会的」諸事情リンク論も根は一緒だと思いますので、「説明責任」論のところでおおむね意見が一致した以上、こちらもさほどお互いに大きな意見の相違はないのではないかと思います。せいぜいもう一回やりとりできる程度ではないでしょうか。

ホームページにアップしました往復書簡をみて、再開してほしいというリクエストがありました。とある資料館におつとめの方で、わかりやすく発信すること、社会的責任の明示といった点に腐心されているようです。こうしたリクエストもふまえて、論点を一新させたほうがいいかもしれません。

あるいはもう少し具体的な論点(それこそ出前授業といった)で議論したほうがいいのでしょうか。何かご意見があったら、お聞かせ願えますでしょうか。

というわけで、またもや尻切れトンボみたいな話になりました。じめじめした季節になりました。うっとうしい空とは裏腹に、晴れやかな日々をお過ごしください。

中井

■ 第11便 2003/06/23 : らんまる → 中井

らんまるです。返事が遅くなり、スイマセン。早速本題に入りましょう。

中井さんの文章の中盤・・

さて、その一方でらんまるさんはひとつの問題点を提起されました。考古学は「社会的」諸事情とリンクできていない(後略)

この行以前の文章については、基本的にはご指摘のとおりでしょう。ただ、1点だけ・・

体系化された学問として考古学が成立していないようにみえるがために、方法論や資料の解釈といった局面で、学際的で「あるべきではないのか」・・・

最後の「」内については、僕自身はけして「そうあるべき」と考えている訳ではなく、現状では「そうならざるを得ないのではないか」と考えています。

さてさて、それでは冒頭の引用文から後半の部分に、論点を移しましょう。中井さんが示された以下の行を、今一度見直してみたいと思います。

月並みないいかたですが、人類の共通した財産として知をつみあげてゆくことに意味がある学問も存在するからです(そして、考古学は歴史的知をつみあげてゆくという点で、こちらにあてはまるのかもしれないと思っています)。

この言葉は、中井さんのみならず、しばしば多くの考古学者からも発せられる表現かと思います。そこで、改めて問い直したいのですが、「人類の共通した財産として知をつみあげていく」ことに「意味」があるとするならば、そこにはどんな「意味」があるのでしょう?「何」のためにつみあげていくのでしょう?

あるいは、ただ「つみあげていく」「整理し蓄積させる」ことに意味があるのだ、と考えるならば、果たしてそのつみあげられたものは、そのままの状態で本当に「人類の共通財産」になり得るのでしょうか?

僕自身は、その「つみあげた」中から、「人類に‘普遍的’(あるいは「歴史」としての考古学を強調するのならば‘通時的’とすべきかも知れませんが)な、‘法則(〜この言葉は、個人的には、自然科学系ならばいざ知らず、人文学系では適切な表現ではないかも知れないと考えています。でも代替案がまだ浮かばないのです・・〜)’を導き出すこと」、ここまでが学問の責務ではないかと考えています。そしてその一方で、その際に留意しなければならないのは、その「導き出した法則」が成立するかどうかという方法論レベルでの議論はもちろん必要ですが、その結果「成立した(あるいは、成立したと考え得る)法則そのものの評価・価値(是否)は、その時点では問わない」ということです。

なぜなら、その価値判断を下す基準は、「その時点での風潮」に左右されるように思うからです。例えば「現代の風潮」なり、「今日的課題」なりにも左右されるでしょう。しかし逆に、だからこそ、そこから「現代社会へのテーゼ」が見えてくるのではないでしょうか。中井さんが文中で提示された>現代社会の課題解決というレヴェル<とは、「法則」を導き出した後、その法則を「何らかの課題」と対比・対照させる作業もしくはその過程、を指すものと僕自身は考えています。従って、その作業結果の産物として「説明・提示できた」課題があり、また課題に対して提示され得た「答え」や「ヒント・目印」があるのだと思うのです。

「説明責任」論、あるいは「社会的諸事情リンク」論が、直接学問の成熟度を測るバロメーターであるとは、中井さんが賛成しかねるのと同様に、僕自身も考えてはいません。それはあくまで「副産物」でしかないからです。ただ、僕が言いたかったのは、単に「説明できないから未成熟である」ということではなく、その前提としてあるべきはずの、「法則」を導き出すところまでの方法論が構築されていない現状を考えるに、やはり考古学が未成熟な学問であることに代わりはない、ということなのです。

そして、その背景と現状には、考古「学者」の問題意識の希薄さがあるように思えてならないのです。もっとも、それは考古学のみならず、現在の人文系の学問に関わる方々の多くは、「‘当座の’問題意識」さえも、もっていないように思います。だとすれば、仮に「人類の共通財産としての知」として、その研究成果が積み上げられたとしても、そこに「どんな花」が咲くのか、咲かせられるのか、は推して知るべしではないでしょうか?

すいません。中井さんの答えを待たずに、やや先走ってしまいました。少々書きにくく感じられるかも知れませんが、遠慮無く中井さんのお考えをお教え下さい。

それから、新しい論点についてですが、今回のメールから発展させても良いかとも思いますし、「資料館におつとめの方」と、中井さんか僕、で新たに往復書簡を初めてみるのもひとつの手かも知れませんね。

鈴木

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