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らんまる−中井 編 (5)

以下は、らんまる−中井 編(4)に続く書簡です。そこで掲載した第8便以降、一旦長期の休止状態に入っておりましたが、第9便にて再開されました。そして、その後、また休止状態に入り、第10便にて再開されました。

■ 第9便 2003/01/23 : らんまる → 中井

中井様

取り急ぎ、返信に添えて若干のお返事を・・・

> 一方で日本考古学の(学問としての)未熟さを述べておられますが、こうした学問としての問題と、「社会的」諸事情とは、どのようにリンクしてくるとお考えでしょうか?

そもそも「リンクしていない」という現状こそが、まさにもう一つの「学問的課題」だと思うのですが如何でしょう。つまり、僕の考える日本考古学の学問としての未成熟さは、「学問としての成果」が、直接「社会的・今日的課題」に対して、「結びついていない」ことにも表れているのではないかと思うのです。

少し言葉を補足してみますと、科学が然り、かつての哲学が然り、あるいはかつての歴史学が然り、学問的に導かれた「考え」が、世の中の課題に対して何らかの示唆を与えることは、これまでもしばしばあったように思いますが如何でしょう。また最近では、例えば環境汚染の問題に、一部の古環境研究家や、自然地理学者の見解が示唆を与えたりしてますよね。あるいは人類学や民俗学であれば、例えば鯨漁の問題などに一定の示唆を与えることもあるでしょう。

今の日本考古学(もちろん考古学だけではなく、多くの人文系の学問はそうかも知れませんが・・)は、こういった現実に直面した課題に何らかの示唆を与えることはできるのでしょうか?あるいは、現実の中で、「まだ見えていない課題」を浮き彫りにすることはできるのでしょうか?

先学の方々の中には、常にそういったことを意識されていた方もいらっしゃるように思われます。最近であれば例えば、考古学的な是否は僕には分かりませんが、故佐原先生は「戦争」について常に前向きに、問題提示されてきたように思います。

そういった、「学問」としてのあり方を含めて、現時点での日本考古学は未熟なのではないのだろうか、と感じるのです。前回「今、日本の考古学…」という、「今」に込めたニュアンスを説明させて頂いたかと思います。広い意味では、そこで述べた「未来像」にも繋がりやすい側面ではないでしょうか?体系化されてないだけでなく、本来その根底に多少なりとも必要なはずの「問題意識」が稀薄であるということも、大きな問題だと思うのです。

それから、中井さんが後段で提示された「説明責任」論は、基本的に賛成ですね。この「説明責任」と「わかりやすく」というのが、「社会」における諸「仕事」の、実は大義名分である代わりに、弊害になったり足かせになる場合も、現実にはあるのではないかと思います(だからといって工夫が必要ないと言ってる訳ではありません。あくまでも「工夫・改善しつつ続けなければならない」ことにかわりはありません)。同様にまた、昨今の考古学成果の世の中への「還元」は、本来あるべきものと、少し乖離しているようにも思います。中井さんの言われる「説明責任論」は、むしろそれを顕在化させたとも言うことができるように思います。

そしてそれに対しては、ご指摘の通り、「わからないこと」を正直に表現することしか、僕にもそのとっかかりはないのではないかと思われます。そして現実には、それさえも必要にもかかわらず少ないのが実情ですしね。ここで考えるべきは、その「わからない」事の方が、考古学的な諸事実の中で絶対的に多いことを、如何に正直に見せるかだと思います。仰る通りでしょう。

あるいは、さらに言を加えるのならば、以前お話しした、異分野間での引用・援用に当たってのルール、倫理観等も、「説明責任」論の一類形ではないかと、思うときがあるのは僕だけでしょうか。

鈴木 2003.1.23

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