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らんまる−中井 編 (2)

以下は、 らんまる−中井 編 (1)(第1便と第2便)から引き続く、らんまる−中井両氏の往復書簡です。学際性(自らの学問外部への志向)と自己反省性(自らの学問内部への志向)とはどのような関係を持っているのかということを巡って、議論は展開します。

■ 第3便 2002/08/09 : らんまる → 中井

中井様

 早速本題に入りましょうか。
 まず中井さんの書簡を一読すると、どうやら中井さんの今のお考えは、前回の書簡で提示させて頂いた、

2. 「方法論的反省(あるいは革新)をともなった学際性をもめざし・・各学問分野の方法論や意識のちがいを顕在化させてみたい」

についてに、一番重きが置かれているように読みとれました。ですから、今回はこの点について思索を深めてみましょう。

 さて、中井さんのご意見を引用させて頂きながら、僕の考えを随時述べてみましょう。

> さまざまな諸分野のさまざまな視点を知識として得たとしても、じっさいに何かを検討する場においては、いずれかひとつを選ばざるを得ません。私たちの場合、もちろん考古学です。考古学の「目」で、モノにあたっていくということになります。その時点で、すでに考古学において自明化された思考や枠組みにある程度とらわれ、自由ではなくなってしまうのです。どれだけ多くの分野をきわめたとしても(そもそも、ひとりの人間の力量として、それがどこまで可能かという問題はありますが)、実践の場ではひとつを選ぶ以上、このジレンマからはのがれられない…

 確かに、考古学を選んで、考古学の中で「観察」をスタートさせる時点で、「自明化された思考や枠組み」にはある程度「囚われる」てしまうのかも知れません。しかし、それはイコール「自由ではなくなる」「縛られる」ことではないと思います。
 中井さんが「無垢の目」と表現してくださった視点、これは決して「外」の世界のみに存在する、あるいは求めるべきものとは限らないと、僕自身は考えています。確かに「内」に居たら、この「自明化された思考や枠組み」は、見つけにくい、見出しにくいかも知れません。しかし決して認識することは不可能ではないと思います。根本的な発想そのものを転換することで、むしろ実は簡単に見えてくるのではないかと考えます。
 それにはまず研究者の一人一人が、「素朴な疑問」をどれだけ大事にできるか、ということではないのでしょうか?それこそ「学問」としての根幹に立ち戻ることだと思います。それから、絶えず「考古学以外」 〜 僕個人としては、「学問以外」を常に念頭に置くのですが 〜 の「外」のヒトに、「自分のやっていること」が、矛盾なくスムーズに、かつわかりやすく、「説明」できるように常に意識しておくこと、ではないでしょうか?考えると難しいかも知れませんが、実際にやってみると以外に簡単なことだと思います。
 そしてそこで「自覚」するのですが、「検討」することと、その結果や考えを「発表」することは、分けて考えると良いかも知れません。分かりやすく具体例を挙げれば、当研究会の佐藤さんがそうでしょう。つまり考古学の研究会での彼の「発表」は「それ」を最大限効果的に表現するために、考古の人間の思考を「イメージ」したうえで「アレンジ」します。それは決して考古学に「迎合すること」ではないと、僕は思います(佐藤さんがどう考えるかは別ですが・・(^ ^))。それは考古学の、例えば中井さんのフィールドでも同じだと思います。「考古学者」として「考古学者」に「論文」を語る、と考えるのではなく、「中井さん」が「中井さん以外のヒト」に、「中井さんの考え」を語るのだ、と考えてみてください。その時「ジレンマ」は「武器」に変わるような気がするのは、僕だけでしょうか?
 そしてその先に、ややフライング?飛躍しすぎかも知れませんが、初めて本質的な「学際研究」が存在しうるように思う今日この頃です。

 さて、次の論点に移りましょう。

> …また、知識として「精通する」とは、ご本人の頭のなかで体系化されて理解されてゆく行為です。すなわち、複数の分野の知識を、調和(整合)的に理解する(少なくとも、その範囲で理解される)ということです。ここで重要視されるのは調和ですが、私には予定調和的なまなざしが、問題・意識を顕在化させるうえで絶対かつ至高の武器か、うたがわしく思っています。むしろ、らんまるさんが前回の討論で提起された、こどものような「無垢の目」こそ、注目されるべきではないかと思えるのです。…(中略)…自分たちの専門分野に関しては、自明のものとして受け入れられてしまったものがあり、それを自分自身の力で発見し、反省してゆくことは簡単なことではありません。しかし、他分野については、制度化された学問として教育されていない分、まだ「無垢に」みることのできる余地がのこっているのではないでしょうか。異分野の人があつまって議論するなかで、他分野の人間から、「無垢の目」による意見が提出され、それが自分自身の学問を「反省する」(佐藤氏流にいえば)手がかりが得られれば…

 「予定調和的な眼差し」・・、確かに「複数の分野の知識」を用いて「予定調和的」あるいは「都合の良い」「解釈」が提示された論文は、日本考古学界、特に先史考古学においても、残念ながらしばしば見受けられます。これは決して好ましい事態ではないと、僕自身も理解しています。ではどうしたらよいのでしょうか?
 仮に「無垢の目」で「外」あるいは「内」から「みて」「反省」したら改善されるでしょうか?確かに、うまくいけば問題点は浮き彫りになるかも知れません。でも、問題の本質は別の所にあるのではないかと、僕自身は考えています。
 つまり、「具体的な問題意識」あるいは「研究視点」を用意してから、「他分野」に「救いを求める」のか、あるいは「具体的な問題意識」が用意される「前」に、他分野についての見聞を深めるのか、このどちらのスタンスに、「自分自身」が立っているのか、あるいは立とうとしているのか、この点について、「研究者個人」が「自覚する」ことが、まず必要なのではないでしょうか?
 考古学の中では、例えばある研究をしようとする時に、その「材料」や「手段」についての、それまでの「経緯・学史」を整理することは、普通にしますよね。ここまでは、問題はないと思います。しかし、「他分野」の引用になるとどうでしょう?「無批判」あるいは「無検討」のまま「事実」として受け入れていたりしないでしょうか?必要な作業は同じですよね。その「他分野」の「学問」としての「背景」や「方法論」についても、当然吟味されるべきでしょう?そのためには、「問題意識・研究視点」の「解決」を求める前に、その方法論の是非・妥当性等々については、自分なりに「白黒」をつけておく、決して全否定ではなく、あくまで判断材料として、‘白黒’をはっきりさせておくこと、が必要ではないのでしょうか。その作業がなされていない研究が少なからずあるように思うのは筆者だけでしょうか?例えば中井さんのフィールドでも、同様のお互いの「寄り掛かり合い」に支えられた研究はないでしょうか?
 それは、自ら「自覚し」、襟を正すことから始めなければ、改善されないように思うのですが、如何なものでしょうか。それから、この点は確かに個人の力量や物理的制約にも左右されるでしょうが、だからこそ少しでも「多くの分野に精通しよう」とすること、これはやはり必要でしょう。決して堅く難しく考える必要はなく、「常に」「いろいろなこと」に「興味」を「持ち続ける」ことこそが、大切だと思います。確かに突き詰めれば「精通する」ことを要求されるようには思いますが、まず「精通しよう」とする気持ちを持つこと、そこから始めると、そんなに大変なことではないように感じませんか?

 長くなりましたが、今日はこの辺に論点を絞っておきたいと思います。如何でしょうか?中井さんの真意はくみ取れていますでしょうか?
 今回の書簡では、以上のようなことを感じた次第です。

 さて、それから、もう少し中井さんにお伺いしたいのは、中井さんの書簡中の、

> …制度化された学問として教育されていない…考古学という立場にかぎっていえば、私には「モノをして語らしめる」ことへの意志という、一見逆説的な欲求が根底にあるように思われるからです。

という中井さんの言葉についてです。これについては、どうも今ひとつ僕の中で中井さんの真意がくみ取れません。。いずれも、もう少しかみ砕いてお聞かせ頂けたら、次のネタにできそうな気がするのですが・・如何でしょうか?特に前者については、講師として教壇に立っておられる「中井先生」としての意見を、是非是非お聞かせ願えれば幸いかと存じます。

 ではでは。。暑い日が続きますが、くれぐれもご自愛の程お忘れなきよう。。

■ 第4便 2002/08/14 : 中井 → らんまる

 暑い日々が続きます。メール頂戴いたしましてありがとうございました。

 さっそく本題に入ることといたしましょうか。考古学という立場で観察をはじめる時点で、考古学という学問体系で自明化された思考や枠組みにとらわれる、という主張に対し、らんまるさんのお考えをうけたまわりました。
 私がこのジレンマを外在的な働きかけで解決すべきだと主張するのに対し、らんまるさんは内的な反省からも可能だ、という議論になるかと思いますが、らんまるさんのご意見に異論はありません。私の説明がいたらなかったかと思いますが、外在的な働きかけのみで考古学の内部の問題を解決しようという心づもりはありません。これは、学問的主体性とも関わりかねないからです。もちろん、らんまるさんのおっしゃる「素朴な疑問」の必要性は大事ですが、これを Res:もの研究会の場合、異分野の人たちとの対話のなかから得てもいいのでは、ということです。結局考古学を(問題があるとすれば)どう変えていくかは、考古学者自身が考えるべき問題です。「素朴な疑問」を忘れないことで、考古学的な思考や枠組みに「縛られない」立場を保持するということは、もちろんあり得るとは思います。
 「検討」と「発表」をわけて考えるべきというご指摘も、異論はありません。迎合するのではないとしたら、考古学という立場に立脚すること、つまり「ジレンマ」を抱えるということが、ひとつの「武器」になるだろうという点も、その通りかと思います。「ジレンマ」から完全に自由になることが困難だと自覚することが出発点となってはじめて、異分野との対話が可能だと考えているのですが、私の考えではこれこそが重要であるように思います。「諸分野への精通」は、必ずしも異分野との対話の必要条件ではないのではないかと考えます。少なくとも、私のなかでは、二義的な位置にあります。

 この「諸分野への精通」にからんで、第二の論点です。具体的な問題意識ないしは研究視点をもって異分野をみるか否かということについて、自覚的であるべきというご意見と理解いたしました。前便でも申し上げたように、諸分野への精通をめざすこと自体に対して、何の異論ももっておりません。
 他分野の引用に際して、無批判・無検討に事実として受け入れるのではなく、方法論や背景を知っておくべきだという意味において、諸分野への精通が必要だというご指摘も、これまた異論はありません。
 私は歴史考古学の立場で、どうしても文献史学を念頭においてしまっているので(つまり、歴史考古学という体系で自明化された枠組みにとらわれているということですが)、なかなか実感のいく説明にならないかもしれませんが、「無批判・無検討に事実として受け入れる」ところに問題を感じています。考古資料の何らかの操作によって、いくつかのことがわかりますが、それを歴史的に説明(ある意味で歴史叙述といってもいいでしょう)する際に、歴史考古学では問題が生じてくるように思うのです。そこでは、文献史学の成果の引用が、考古資料群を説明する準拠枠として機能してしまうことが縷々みられます。
 これがなぜ問題なのでしょうか。それは、こうした言説が考古学的検討にもとづいているようにみえて、文献史学の成果に左右されてしまっているからです。ちがう成果をもってきてしまえば、たやすくちがう話ができてしまうのです。そこでの議論の優劣は、考古資料やその成果ではなく、準拠枠として移入する文献史学の成果のちがいに帰結してしまいます。考古学的な議論をしているつもりが、本来議論の根拠となる考古資料から遊離して、互いの準拠枠の相違に引き寄せられてしまうのは、健全ではないように思います。考古学という立場を保持しないというのなら話は別かもしれませんが、歴史考古学という立場を標榜するのであれば、こうした姿勢は学問的主体性が問われかねないように思うのです。
 こうした陥穽におちいってしまう原因はいくつかあるかと思いますが、私のみるところ、そうした原因のひとつに「諸分野への精通」があるのではないかと(個人的問題という余地は完全に排除できませんが)思っています。
 考古学という立場を選択して議論をしようとする以上、注意すべきは文献史学(一般的にいうならば異分野)と考古学が等価であることです。この配慮(あるいはバランス感覚というべきでしょうか)が欠けてしまうと、こうした「不等価交換」が生じます。「諸分野への精通」はもちろん知のあり方として何ら批判する余地はありませんが、考古学とは異なる分野の知識があって、それが整合的に頭のなかで体系化されてしまったときに、ややもすれば、「等価性」が見失われてしまうことがあるのではないかと思います。したがって、この問題も先ほどの議論と同様、異分野との対話の必要条件たり得ないのではないかと考えるのです。

 さいごにらんまるさんがお寄せくださったご質問について。「制度化云々」というのは、特に深い意味はありません。ひとつの専攻として体系的に知識を学んだか否か、といった意味あいで用いたものです。ですから、ご期待のように教師としての経験と関係しているものではありません。ごめんなさい。もうひとつのほうですが、自分自身練れていないまま書いてしまっております。状況は今も大して好転していないのですが、「モノ」を出発点として拘泥するあまり(といって、これが悪いというつもりはまったくありません)、今まで述べてきたようなモノ=資料と解釈の関係に目が向けられてこなかったのではないかということ(それが、ひいては文献史学の成果をそのまま解釈のマスター・コードとして用いてしまう姿勢につながってゆくのではないかとにらんでいます)、「モノ」に何でも(知りたいことが)隠れていると素朴にみなす態度を引き起こしたのではないかというニュアンスです。

 うーん、最後のところは歯切れが悪いですね。私自身もまだぼんやりとしかみえていないもので。これで勘弁してください。

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