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らんまる−中井 編 (1)

以下に掲載するのは、らんまる氏(専門:先史考古学)と中井(専門:中世考古学)との間で交わされた往復書簡です。議論は、「Res:もの研究会」で発表された中井によるアピール(appeal from / for archaeologists を参照)をもとにおこなわれています。中井のアピールをふまえて、らんまる氏による質疑がはじまります。なお、[ ]で囲まれた箇所は、Web Site編集者(佐藤)が補足した箇所です。

■ 第1便 2002/07/22 : らんまる → 中井

中井様

 はじめまして。らんまると申します。どのような展開になるのか僕も全く見当もつきませんが、いずれにしても「楽しくのんびり」考えてみましょう(^ ^)。。

 まず、僕が中井さんの「アピール」を読んで、気になった事を挙げてみましょう。

  1. 「「もの」と「解釈」のはざまに横たわる大きな懸隔」について
  2. 「方法論的反省(あるいは革新)をともなった学際性をもめざし・・各学問分野の方法論や意識のちがいを顕在化させてみたい」について
  3. 「資料の材質的特性を越えて「もの」としてとらえなおすこと」について
  4. 「考古学の基本である「もの」の記述ですら、何らかの解釈を含んでいますし、あるいは歴史性を抜きにして今そこにある「もの」をあつかう学問分野さえ存在します」について

 若干「アピール」で提示された順番とは異なってますが、こんな所でしょうか。

 1については、中井さんが、いわゆる「ミドルレンジセオリー」の存否(あるいは是非?)等についての問題定義をされているのだろう、と読みとりました。

 2については、僕なりに以前いろいろ考えてみた事があります。いわゆる「先史考古学」では、人文科学分野のみならず自然科学系の諸分野とも、「相互乗り入れ」がありますから、考えざるを得ない状況になる事は、多々あります。その際に、僕自身が落ち着いた答えとしては、端的に言えば、「自分が専攻する分野以外の諸分野についても精通し、そこにおいて意見交換をしていく」事しか、「問題・意識の相違」を顕在化させる事はできないのではないか、と言う事でした。この結論が正しいかどうかは分かりませんが、僕自身この考えは今も変わりません・・(^ ^)。

 3については、実は僕自身の目下の課題はここにあると言う事も可能です。ただ、中井さんの問題定義からすればやや「狭義」な話になるかも知れませんが・・。僕自身は、考古学的に言う「土器」と「石器」「木器」「骨角器」を、同じ視点・方法論で、分析してみたいと考えています。仮にこれらの「遺物」が、かつて「ある時点」で、「あるヒト」の「道具」箱の中に、「一緒に」入っていた場合、それらの役割は、実はそれぞれが有機的に関連して初めて、成立し全うできるのではないかと考えるからです。どれか「一つ」から「1側面」を抽出し、「組み合わせて」、○○を復元する事も、一つの手段でしょうが、あるいはその「全て」を等価に扱った場合、また違った○○が見えるのではないか・・とも思えるのです。

あ、仮にこの視点は、「土器」「石器」と言った言葉を、中井さんのフィールドの言葉に置き換えれば、「文献資料」「考古資料」「美術資料」となるのでしょうか?さすがに強引すぎますか?(^^)?

 さて、しかしです。中井さんのご指摘通り、これらの考えにしてもその前提には、僕らが「遺物」として認識する以上、その「もの」には何らかの「意味・意義」を見いだしている事になります。その「意味・意義」とはいったい何なのでしょう。「考古学」の中に「歴史学」としての志向を求めるのであれば、「歴史性」は不可欠なものかも知れません。でも、果たして本当に「もの」は「歴史性」を内包しているのでしょうか?あるいは内包しうるのでしょうか?
 この最後の問いは、少し強引に引っ張れば、上記4での中井さんの指摘に関連する事かも知れませんね。ここまで見てくると、僕自身の目下の課題は、3か4、と言う事になるのでしょうかね。
 僕自身が今考えるのはそんなところです。

■ 第2便 2002/07/30 : 中井 → らんまる

 らんまる様、お返事ありがとうございます。

 さて、私のアピール文をもとに、いくつかの問題提起をしていただきました。私の論点を4つにわけてコメントしてくださったので、こちらもそれに便乗させていただくことにします。

 1につきましては、ミドルレンジセオリーの存否を意識していたものではありません。そこらへんの議論に疎いもので、うまく自分の考えにくみこんで理解できていないのが正直なところです。私の問題関心は、もっと個人的なところから出発しています。ひとの論文を読んでいてしばしば抱くことがある、同じ資料で私ならちがう話をつくれるかもしれないという印象です。「もの」と「解釈」の関係はひとつではないということですが、とはいえ、論文ではあるひとつに結びつけなければなりません。あれも考えられる、これも考えられる、では論文になりませんから。そうした局面で、あるひとつの解釈へしぼりこむこと、そしてしぼりこんだ解釈を読む人に無理なく納得してもらえるようにすることとはどういうことなのか。私の関心は、ここにあります。ミドルレンジセオリーといった高尚な問題というよりは、むしろレトリックの問題だと思いますが、現在のところ、あれ以上の考えはまとまっていない状況です。

 2について。私のアピールは、完全に歴史考古学を意識したもので、自然科学系との「相互乗り入れ」の可能性をおいてきてしまっています。科学的な分析はもちろん、現代の考古学にひろく浸透しておりますから、むしろこちらとの対峙に意識的であるべきかもしれませんね。
 「問題・意識の相違」を顕在化させるために、らんまるさんがおっしゃる「諸分野についても精通」することは、理念としては大事だと思います。顕在化させ、議論していくには、ある程度(より多い方が好ましいでしょう)の正しい知識は不可欠ですから。しかし、私には、これが唯一の道だとは思えません。「端的に」とありますから、お考え自体はもっと複雑なのでしょうが、諸分野への精通という考え方には、二重の意味で限界があるように思われます。
 さまざまな諸分野のさまざまな視点を知識として得たとしても、じっさいに何かを検討する場においては、いずれかひとつを選ばざるを得ません。私たちの場合、もちろん考古学です。考古学の「目」で、モノにあたっていくことになります。その時点で、すでに考古学において自明化された思考や枠組みにある程度とらわれ、自由ではなくなってしまうのです。どれだけ多くの分野をきわめたとしても(そもそも、ひとりの人間の力量として、それがどこまで可能かという問題はありますが)、実践の場ではひとつを選ぶ以上、このジレンマからはのがれられないように思うのです。
 また、知識として「精通する」とは、ご本人の頭のなかで体系化されて理解されてゆく行為です。すなわち、複数の分野の知識を、調和(整合)的に理解する(少なくとも、その範囲で理解される)ということです。ここで重要視されるのは調和ですが、私には予定調和的なまなざしが、問題・意識を顕在化させるうえで絶対かつ至高の武器か、うたがわしく思っています。むしろ、らんまるさんが前回の討論[=第1回研究会での質疑応答]で提起された、こどものような「無垢の目」こそ、注目されるべきではないかと思えるのです。「馬鹿にはみえない」ということばで合理化して理解しようとした大人たちのあいだで、「王様は裸だ」といいはなったこどものように。最低限の知識は必要であったとしても、無意識的に自明化されてしまう枠組みを明るみにひきだすのは、この「無垢の目」ではないかと思うのです。もちろん、自分たちの専門分野に関しては、自明のものとして受け入れられてしまったものがあり、それを自分自身の力で発見し、反省してゆくことは簡単なことではありません。しかし、他分野については、制度化された学問として教育されていない分、まだ「無垢に」みることのできる余地がのこっているのではないでしょうか。異分野の人があつまって議論するなかで、他分野の人間から、「無垢の目」による意見が提出され、それが自分自身の学問を「反省する」(佐藤氏流にいえば)手がかりが得られれば、というのが今回の研究会[=Res: もの研究会]をたちあげたねらいだったのです。

 さて、以上は一般論めいた話ですが、もういちどらんまるさんがふれられた、考古学(厳密には先史考古学ですが、歴史考古学ももちろん含めていいように思います)と自然科学系との協業に話をもどします。私が念頭にあるのは理化学的な分析ですが、この協業は上記の議論だけにとどまらず、3(と4)の論点にも関わってくるように思います。というのは、それぞれの思惑はいろいろあるでしょうが、考古学という立場にかぎっていえば、私には「モノをして語らしめる」ことへの意志という、一見逆説的な欲求が根底にあるように思われるからです。ということで、2の論点から出発しましたが、3(と4)の論点も含めて、私の考えを申し述べます。

なお、3へのコメントで、らんまるさんが最初に述べられたご提言には、私も同感です。土器・石器・鉄器といった材質的区分は、いってみればプリニウス以来のもので、これも自明化された視点かと思います。それを相対化する点でも、らんまるさんのご提言は重要だと思います。ただ、これまでの論旨とずれてきますので、今回はこれでご容赦ください。

 はじめに誤解のないようにいっておきますと、科学分析をとりいれようとするあらゆる試みが無意味だと主張する意図は毛頭ありませんし、そうした検討をつみかさねておられる方々の努力を、否定したり貶めたりするつもりもありません。異分野の接触によって、おたがいに啓発されるところは多いですし、独善に陥らないためにも、このような場は不可欠だからです(独善がいかに恐ろしいかは、かのねつ造事件をみても明らかです)。とはいっても、協業による成果を追うばかりではなく、協業することの意味それ自体について、たちどまって考えてみる余地はじゅうぶんあるように思います。私は理化学的な分析能力をまったく持ち合わせておりませんので具体的な議論はできかねます(むしろ、そういった立場だからこそ、協業の意味を考えてみてもいいのではないかと思っています)。ひとくちに分析といってもいろいろありますが、3の論点とのかかわりから、ここでは年代鑑定(年輪年代法や放射性炭素年代測定法などといった)ではなく、たとえば構造分析のような、「(肉眼では)みえないものをみる」分析に的を絞ってみます。じつはこの問題に関しては、次回の研究会[=第2回研究会]で発表してみたいと考えております。といっても、今のところ準備ができていません。荒削りな話ですが、ご批判いただければ幸いです。

 研究会でも話をしましたが、考古学では「モノをして語らしめる」ことが理想とされてきました。モノに即した研究を、という話ですが、この「理想」論は、いかにしてより多くのことをモノからひきだすか、という欲求へとつながります。私がやっていることもその点で変わりはないのですが、とにかくこういった欲求の系譜に、理化学的分析も位置づけられるように思います。あらゆる機器をつかって、考古学者の目ではみえないミクロのレベルの情報を明らかにしよう、そうすれば、今までわからなかったことがわかるにちがいない、そういう欲求です。
 これはいわば、研究の原点であって、何ら批判すべきものではありません。これを批判することはむしろ、研究行為の否定を意味します。しかし、「意味・意義」を明らかにする、あるいはかくされた「歴史性」を明らかにするということを目標にすえた局面(これは歴史学としての考古学研究の一般的な場面といいかえられるでしょう)においては、はたしてどこまで有効でしょうか。「みえないものをみる」ことが、はたして万能なのでしょうか。
 「もの」には「意味・意義」がかならずあって、「歴史性」を内包している。ただし、その「歴史性」ははじめからすべて明らかというわけではなくて、かくれている部分もある――こうした考え方はおそらく、「モノをして語らしめる」意志をそのままおしひろげれば得られる考えと思われます。いわば、日本考古学では無条件に受け入れられてきた考え方ではないでしょうか。私はこの点について再考する価値があると思います。

 といいつつ、考えがいまだ練られてはいないのですが、端的にいってしまえば、「歴史性」は今まで素朴に考えられてきたほど、自明なものではないのではと思います。しかも、「歴史性」をよみとろうとする私たちの観点が、当時の人びとの観点と合致している保証はないわけで(モノのみかたや名付けの問題を想起すれば、あるいはわかりやすいかもしれません)、まずはその乖離から注意深くみなおさなければなりません。ですから、ミクロのレベルで明らかになったことが、「歴史性」を語る材料として即座にやくだつとみなすのではなく、何に対してやくだつのかを吟味してみる必要が生じます。理化学的な観点から「真実」だとしても、歴史的に意味のある「真実」だとはかぎりません。乱暴にいってしまえば、顕微鏡でみないとわからないことに対して、当時の人びとが、はたして何らかの「意味・意義」をあたえていたのか、ということです。「モノをして語らしめる」といっても、語らしめる主体が私たちである以上、「何を」語らしめるかが必然的に問題となってきます。したがって、ある情報が「何を」語れるのか、このことについて私たちは意識的であるべきだと思うのです。従来とは思考を逆転させることが必要で、まずこういったことを考えたうえで、明らかにすべき情報を選ぶべきなのです。ミクロな分析であるから価値があるといっても、それはあらゆるケースにおいていえるわけではないのではないでしょうか。

 「もの」は「歴史性」を内包しているのか / しうるのか――らんまるさんがつきつけられた問いは、正直いって、非常にむずかしい問題です。私もはっきりした答えをもちあわせおりません。ですから、正面からお答えすることはできませんが、ただ上のような欲求と、「意味・意義」「歴史性」とのあいだの緊張関係をさぐることが、この問いへアプローチする手がかりになるのではないかと考えていることを、補足しておきたく思います。このあたり、もう少し掘り下げて考えることができればと思っています。

 おそろしく長文になってしまいました。しかも、さいごのほうは少し息切れして、はしょった感があります。むしろ各論点ごとに限定していったほうがいいかもしれませんね。ともあれ、一方的な議論ですので、ご反論もあるかと思います。ご意見どうぞお聞かせください。

 このところの暑さで、ひまわりもぐったりです。ご自愛ください。

2002. 7. 30 中井

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