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読書会第II期
美術史-人類学-考古学 横断読書会

もの研関係者の一部の有志が集まって、小規模な人数での読書会をおこないました。テキストは以下の通りです。

Text: James Elkins, "On the Impossibility of Close Reading", Our Beautiful, Dry, and Distant Texts: Art Histoty as Writing, The Pennsylvania State U. P., 1997

この論文は、ずばり、美術史-考古学-人類学の境界線上にある遺物(旧石器時代の、線の刻み込まれた骨製・象牙製遺物、例えば下図)をテストケースとして取り上げ、「非言語的資料の精読」とは何なのかを徹底的に問うたテキストです。具体的に取り上げられるのは、Alexander Marshack, The Roots of Civilization (1972) というテキストの中で論じられている、「月カレンダー説 lunar calendar」です(月の周期的変化が起こるたびに、刻み目を入れて数えていたという説)。

Lunar Calender Artifacts
(画像引用) John Kellermeier, How Menstraution Created Mathematics より

□ これまでの記録

テキスト選定会  2003. 1. 22(水) 19:00 - 20:30
第1回  2003. 1. 29(水)  19:00 - 21:30
第2回  2003. 2. 5(水)  19:00 - 21:30
第3回  2003. 2. 12(水)  19:00 - 21:00
第4回  2003. 2. 19(水)  19:00 - 21:00
第5回  2003. 2. 26(水)  19:00 - 22:00
第6回  2003. 3. 12(水)  19:00 - 22:00
第7回  2003. 3. 26(水)  19:00 - 21:30
第8回  2003. 4. 2(水)  19:00 - 21:00
第9回  2003. 4. 9(水)  19:00 - 21:00
第10回  2003. 4. 23(水)  19:00 - 21:30
第11回  2003. 4. 30(水)  19:00 - 22:00
第12回  2003. 5. 14(水)  19:00 - 21:30
第13回  2003. 5. 21(水)  19:00 - 22:00
第14回  2003. 5. 28(水)  19:00 - 22:00 (読了)

□ 論文の狙い

なお、参考までに、この論文の狙いが述べられている箇所を、いくつか訳出しておきます。
...... 人文諸学問においては、一般的に、その主題が何であろうとも、精読は望ましきものとみなされている。第3章[「精読の不可能性 On the Impossibility of Close Reading」のこと]は、アレクサンダー・マーシャックの新石器時代の遺物についての解釈−これは恐らく、これまでなされてきた最も緻密な精読のうちの一つである−を取り上げる。そして、徹底的で綿密で完璧で手を加える余地さえない精密さという概念そのものが、如何にその読者へと跳ね返ってきてしまい、如何に読むこと自体についての問いを発生させるか、ということを第3章は示すだろう。精読 close reading という概念全体に懐疑を投げかけることを経て、その[精読という]概念そのものの分析的不可能性に関するいくつかの観察によって、私はこの論文を締めくくろう close。(Preface, p. xiv)
視覚的イメージの精読は、美術史・美術批評では不変の理想である。その理想は、実質上、疑問視されたこともないし、また、一般的に言っても、どんな領域であれ、どんな目的であれ、どんな理論的影響下であれ、とにかくよい理念のようである。17-18世紀の古物蒐集と目利きの登場によって美術史が始まった地点において、精読の系譜もまた始まり、そして、19世紀のモレッリ式を経て支配的になり、20世紀になって様式分析・フォルマリズム・イコノグラフィーへと分岐し増殖していった。...... (p. 61)
...... ここで私は、精読についての批判を開始したい ...... 。最終的に、私はこう論じるつもりである。精読など、実際には存在しない、と。厳密な意味での精読など、不可能なのだ。というのも、どんな読みにしたって、その内部にはよりルーズな説明と、さらにより精緻な読みという押しつけられた期待とが反響しあっているからである。たとえ精読がよりルーズな読みとより精緻な読みとに結びついているとしても、精読が存在する、などと私は言わんとしたいのではない。私が言いたいのは、精読なるものが存在しない、ということなのだ。つまり、精読などこれまで一度たりともなされたことなどなかった、ということなのだ。何故なら、私たちが精読という語によって理解してきたものとは、一つの期待、喚起され暗示される何ものかに過ぎないからである。それはいわば、別の種類の読みを召喚したり抑圧することによってよみ捉えられる亡霊なのだ。幾多のテクストの中で精読だと思われてきたものは ...... 自己矛盾の上、そして、[読む]対象との親密な関係という拭い去れない望みの上に立てられた、不完全な意識の一契機なのである。(p. 62)

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