2005/05/14 第9回 Res: もの研究会

救われない記憶
「暗い記憶」の行き場」

佐藤 啓介

■ もの、場所、記憶 

記録し記憶し保存する」現代、広い範囲でことさらに問題となるのが、「もの・場所・記憶」であろう。そうした問題が生じる背景には、記憶の力が弱体化し、記憶のあり方の構造に質的変化が起こったことが挙げられる。いや、記憶の力、すなわち、記憶を保持してきた伝統的共同体が弱体化したからこそ、「逆に記憶を体現化する。場所やモニュメント、制度やシンボル、作法やアニバーサリー、また著作物などに、記憶は結晶化する。ノラのいう「記憶の場」とはこれであって、過去と連続しているという感情が、これらの場に物質化し逃避するのは、記憶の集団がもはや存在しないためである」(岩本2003, p. 7)

記憶と歴史は、しばしば「意識的・分析的・客観的・集合的な歴史 / 本能的・自然的・主観的・個人的な記憶」といった二分法のもとで単純化されつつも、昨今の歴史学においては、記憶という視点によって、様々な文化的装置(記念碑など)が解読可能になり、祝い、悲しみ、反復的に記念する行為が、いかに過去をめぐる人々の(多様な)アイデンティティを創出し変換してきたのかが、様々に研究されてきた。

■ 記憶、倫理、恨む死者 

しかし、殊に近現代の歴史に関していえば、「過去においてコメモレイションが誰のどのようなアイデンティティを構成してきたのか」のみならず、「現在、そして今後、そのアイデンティティをどのように再構成/解体/多様化させるか」が、倫理という次元と切り結びながら争点となっている。そうした言説においては、「犠牲になった(そして忘却された)他者たち」を記憶することで、ナショナルなアイデンティティを崩していくことが、半ば一種の義務として語られつつある。

しかし、一方において、論者はそうした「記憶の義務」論に対して、一抹の違和感も覚えざるをえない。それは、死者について語り、死者について生者が記憶する義務が説かれる一方で、死者自身の記憶、すなわち死者自身から見た出来事の捉え方が論じられることは少ない、ということである。その結果、「記憶の場」、特に、追悼や慰霊の場は、一種の「生者のアイデンティティ-ポリティクスの係争点」と化してしまっている。端的に言えば、記憶の場に死者自身は登場しないのである。

いや、仮に登場することがあっても、そこに登場する死者は「記憶されることだけを求める」死者であり、そこにおいては「死者の善化」とでも言うべきプロセスが稼動している。だが、果たして死者は、世界を、そして生者を恨んでいないのだろうか? 死者は、記憶されること以上のもっと「暗い何か」を求めていることはないのだろうか?

しかし、仮に死者たちがそのような「暗い何か」を抱いていると仮定するならば、私たちは「恨む死者」「苦しむ死者」「無念を抱く死者」たちの暗い記憶と、どのように付き合うべきなのか? それらを単純に「記憶せよ」というわけにはいかない。何故なら、恨む死者、苦しむ死者は、私たちの生を脅かしかねないからである。

池上良正氏によれば、従来、国内においては、伝統的にそうした暗い記憶に対処するために、二つの宗教的システムが機能してきたと言われる。それは、〈祟り-祀り / 穢れ-祓い〉システムと、〈供養 / 調伏〉システムである。もちろん、近年でもこうしたシステムが機能していないわけではないが、むしろ、昨今ではこうした「繊細な」システムに代わって、ある意味では非常に明快とも言えるショートカットシステムとしての「復讐」(テロリズムなど)が作動しつつある、とは言えないだろうか。そこで、本発表では、1. 復讐というシステムは如何に作動しているのかを理解する、2. 「記憶と/の場」という視点から、「暗い記憶」を考え直す、という二つの主題を論じたい。

■ 復讐はよくない? 

もちろん、復讐という主題を掲げるや否や、すかさず「復讐はいけない」という声が上がるだろう。しかし、あえてこう切り返そう。「何故、復讐はいけないのか?」と。これに対して、様々な理由が挙げられよう。もっともよく耳にする言葉「復讐は何も生まないから」。しかし、それでは何も生まないことをしてはいけないのだろうか。また、「法で禁じられている」とも言われよう。しかし、それならば法の下にいることを拒絶し、その承認と引き換えでなされる復讐ならよいのだろうか。M. ミノウは、「復讐は被った被害に対して過剰な反応であり、さらなる復讐の連鎖、憎悪の連鎖を生むから」復讐は禁じられるべきだと言う。しかし、その理由でも、まだ二種類の反論ができてしまう。第一に、「過剰でない復讐ならばよいのか」。第二に、よりおぞましい反論、「復讐の連鎖が起きないよう、相手を殲滅する復讐も存在しうる」。

もちろん、私は何も「復讐せよ」と言いたいわけではない。私が言いたいのは、「復讐はよくない」を無根拠に振りかざしている限り、私たち自身が被害者の側に置かれた際、いつ復讐する側に転じてもおかしくない、ということである。復讐が禁じられるべき理由を、復讐という行為に寄り沿い、その内部から明らかにしない限り、私たちは復讐から手を切ることができないのではなかろうか。

この復讐という主題を考える上で基本的な図式を提供したのが、H. アーレントである。人間が他の人間に関わる以上、その活動は、悪しき結果を生む可能性から、そして、その結果を被った側に復讐が生まれる可能性から免れることができない。アーレントはこうした復讐の過程を、物理的な力の作用−反作用になぞらえ、「活動の自然過程」として描き出す。この自然過程を止める手段は二つあるといわれている。その一つは、「赦す」ことである。ここでの赦しとは、復讐の連鎖を止めるためになされる、全く予期できず新しく始まる活動である。もう一つの手段は、「罰する」ことである。こうしてアーレントは、赦しの対極だと思われがちな罰を赦しの代替物と規定し、復讐に対立する二種類の活動として、赦しと罰を並置した。

しかし、リクールが指摘するように、罰と復讐は「対立」をなすだけではなく、同時に「起源を共有している」。何故なら、罰にせよ復讐にせよ、その起源にあるのは「こんなの不公平だ!」という叫びだからである。現代においては、司法制度という媒介を経ることで、被害者と加害者の間に「正しい距離」を挿入し、復讐が罰へと昇華するよう慎重な手続きが踏まれている。そこに慎重な手続きが必要とされるのは、両者が「不正への叫び」という起源を共にしているからなのだ。

■ 復讐と記憶

だが、ここで考えねばならないのは、その不正への叫びが「残り続け」「聞き遂げられる」のは何故か、ということである。とりわけ、「ある人Aが別のある人Bによって何かをなされ、それに対してさらに別の人Cが復讐を行なう」という、復讐の「誰」が交錯する場合、その問いは一層複雑になる(ここでは、そうした復讐の「誰」が交錯する条件を、「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」が存在するときだと定義しておく)。

さて、こうした第三者による復讐は、どのようになされるのか。その最も根本的な理由は、罪を犯した者への「憎悪」に他なるまい。だがさらに、その憎悪を可能にさせ、また憎悪を持続させているものが何なのかを見定める必要がある。ここでは、いささか図式的ながら、第三者による復讐を可能にさせている三つの前提を提示したい。

第一は、被った受苦は、相手にも同等のものが要求されねばならないという前提(同等性要求)。

第二は、「自分は、犠牲者の正しい記憶を引き継いでいる」と任じているという前提(正当性要求)。ただし、ここでいう正しい記憶とは、犠牲者が頭の中に抱いていた中身と合致するという意味での正しさとして理解する必要はない。それはむしろ、犠牲者に対する、そして過去そのものに対する「忠実さ」という意味での正しさである。

第三は、「犠牲者に代わって、自分が復讐を行なう立場にいる」という前提、つまり、犠牲者の代理を務めることができるという自己認識(代理性要求)。

以上三つの前提のうち、第一のものは「罰」の前提としても機能しており、後者二つの前提、つまり「記憶」に関わる二つの要求が復讐を特徴付けるものである。アーレント同様、復讐はまるで作用−反作用の法則のもと、自然な行為だと考えられがちである。しかし、その稚拙な算術が成立してしまうのは、「自分が、犠牲者の正しい記憶を引き継いでいると任じることができる」と要求する復讐者の前提を受け入れているからなのである。だが、この前提は無条件に受け入れられるものなのだろうか。

とはいえ、正当性要求は、それが放棄されるや否や、過去の出来事の「忘却」という事態につながる。だが、「あった」ことを「なかった」ことにすることはできない。その結果、正当性要求の放棄は、犠牲者の記憶を引き継いだ者を、精神分析で言われるような「反復強迫」へと追い込みかねない。そのため、正当性要求の放棄とは、実際に復讐の火種を残したままにしておくことにつながりかねない。

他方で、代理性要求を放棄するや否や、今度はまたも私たちはアポリアに追いやられる。「犠牲者に代わって」記憶を引き継ぐことを諦めるならば、果たして、誰が記憶を引き継ぐのだろうか。私は、復讐の犠牲者のことを「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」と定義したが、この人の記憶は、果たして誰に、いや、どこに、何に受け渡されればよいのだろうか。

■ 復讐するは誰にあり?

だが、犠牲者の名のもとに復讐を行なうこと、つまり代理性要求を掲げて復讐する行為は、むしろ、正当性要求を根底において否定する行為でもある。犠牲者という「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」とは、同時にあらゆる「主権性」をも奪われた者であるはずだ。その座に、その記憶を引き継ぎ、それを救済することができると任じるもの――たとえ神であれ――が登場するのは、その奪われた者の立場を占有し、自らが主権性を有すると任じることではないのだろうか。それは記憶の引き継ぎではなく、むしろ、最も決定的にして最終的な形態を纏った記憶の忘却に他ならないのではないだろうか。

要するに、犠牲者がもはやなしえなくなった復讐をその犠牲者の名の下になすことは、その犠牲者の立場を密かに占有することなのである。結果、犠牲者の名の下になされる復讐は、復讐する能力さえ奪われた犠牲者に最後に残されている立場さえをも占有し、犠牲者を「なかった」ものにする最後の一閃を打ち込む行為、本質的に犠牲者への忠実さを裏切る行為に他ならない。

■ 眠らない記憶の場 

しかし、第三者による復讐が原理的に成立しないからといって、復讐の念に駆られたその人には、一体何ができるのか。行き場のない暗い記憶を忘却するのでもなく、誰かが代わりに引き継ぐのでもなく、一体、どうしたらよいのか。

ここで思い出されるのが、アーレントも言及し、近年、宗教哲学をはじめ方々で主題とされている「赦し」という、キリスト教的光彩を強く帯びた概念であろう。ただし、これまで復讐について考えてきたことを、赦しにも当てはめて考えねばなるまい。犠牲者以外の第三者によって赦しがなされる場合、それは犠牲者が失った赦す能力を占有することと同義であり、それは記憶の引き継ぎの名を騙った記憶の抹消の最終宣告となってしまう。厳密な意味で赦しうるのは、まさにその赦す能力を奪われた犠牲者当人なのである。「赦しとは、不可能なことをすることによってのみ可能となりうるのだ」(Derrida2001, p. 108)

それでは、第三者にできることは何なのか。それは、その第三者が赦すことではなく、「犠牲者の記憶」への忠実さ(=正当性要求)を保持しつつ、その記憶を占有の形態のもとで引き継ぐのではなく、現在へとそのまま「目覚めさせておく」ことではないだろうか。すなわち、復讐する可能性も赦す可能性も奪われた犠牲者に、その可能性を返してやることである。

だが、記憶を目覚めさせておくとは如何にしてか? かつてなら、降霊術などがその役を引きうけていたのだろうが、現在、そうした文化的構想力は失われて久しい。また、これまで宗教が発明してきた暗い記憶との付き合い方の二システムにさえ、そうした「暗い記憶を目覚めさせておく」営みは収まりきらないように思われる。

ここにおいてこそ、「記憶の場」の概念が、根本的に再考されねばならない。現在、追悼・慰霊の場は、「生者のアイデンティティ・ポリティクス」の空間として作用している。つまり、死者たちの記憶の場を、生者が占有しているのである。そこに作用しているのは、復讐における「記憶の占有」と全く同様の「場の占有」ではないだろうか。つまり、「代理性要求」が機能しているのである。

それでは、その場を死者たちにまるごと返してやればよいかといえば、それはそれで、苦しむ死者たちの暗い記憶を忘却の風雨に晒すことになってしまうだろう。例えば、都市の一部を埋葬空間として隔絶し、通常は生きる者が立ち入ることのない「死者の空間」を堅牢に築くことで、「私たち生きている者は、関係ありませんから」という顔をしているかの如く。いや、より厳密に言うならば、二つの空間とを分離させることで、苦しむ死者の暗い記憶は向こうの空間に追いやり、生者に扱うことの可能な死者の観念だけをこちら側に抽出しているのである 。私たちは、こうした空間の分離において、暗い記憶に関する正当性要求を喪失する。

私たちが再考せねばならないのは、こうした「場」の観念、「場の占有」の観念である。「同じ場所を同じ時間に二人以上の人間が占めることはできない」、私たちはそうした当然の見解に基づき、死者の空間と生者の空間を分離させて考えている。しかし、美術史家の田中純氏は、縄文環状集落に関する認知考古学的な知見を素材としつつ、「生者と死者による二重の占有に耐えうる空間」の存在可能性を示唆している(田中; 2004)。これを現代においても考えることは不可能なのだろうか。私たちがそこを占めながらも死者の記憶が目覚めたままでいる空間を思い描くことはできないのだろうか。たとえば、追悼施設を、死者の安らかな眠りを祈る場ではなく、死者が目覚めている場として捉え直すことで。あるいは、都市を、生者が活動しつつ、死者もまた偏在する場として捉え直すことで。少なくとも、私たちは「記憶の場」を一つの手がかりとしながら、代理でも忘却でもない仕方で、救われぬままの暗い記憶と付き合う新しい形を模索すべきであろう。

ただし、目覚めたままの記憶が、必ずしも加害者を赦すとは限らない。赦すのと等しく、復讐する能力も返還されるからである。そして、死者たちは、加害者を、生者を、世界を恨んだままなのかもしれないのだ。「目覚めたままの犠牲者」が赦しと復讐のいずれを選ぶのか、私はその問いを開いたままにせねばなるまい。ただ言えることは、私たちは、単に彼ら彼女らを記憶するのではなく、彼ら彼女ら自身の暗い記憶によって記憶され、それに晒されている存在なのだ、ということである。

■ あらゆるものに恨まれる生者

ところで、恨みを抱いて死んでいったのは、人間だけだろうか。動物たち、植物たち、そして事物たちは、私たちに恨みを抱いていないのだろうか。

世界は、そして記憶は、生者の占有物ではないし、死者をも含めた人間の占有物でさえない。世界は世界自身が、そこにいる人間に対して無関心/無区別に世界の記憶を持つ。世界についての人間の記憶だけが記憶だけではない。世界が私たちに無関心であるにも関わらず、その記憶と場/記憶の場を占有し代理しようとする私たちは、世界の記憶の略取を働いているのではないだろうか。そうであるとするならば、「世界はその暗い記憶の中で無念を抱き、私たちを恨んでいるかもしれない」ということを記憶する義務は、果たして存在しえないのだろうか。

もっとも、事物は我々人間に対してのみならず、事物自身に対しても無関心/無区別なのかもしれないが。

□ 文献一覧

  1. 池上良正, 『死者の救済史――供養と憑依の宗教学』, 角川選書, 2003.
  2. 岩崎稔, 「歴史学にとっての記憶と忘却の問題系」『現代歴史学の成果と課題1980-2000年I 歴史学における方法的転回』(歴史学研究会 編), 2002.
  3. 岩本通弥, 「方法としての記憶――民俗学におけるその位相と可能性」『現代民俗学の地平3 記憶』(岩本通弥 編), 朝倉書店, 2003.
  4. 小関隆, 「コメモレイションの文化史のために」『記憶のかたち――コメモレイションの文化史』(阿部安成ほか 編), 柏書房, 1999.
  5. 川村邦光, 「はじめに――「戦死者のゆくえ」に向けて」『戦死者のゆくえ――語りと表象から』(川村邦光 編), 青弓社, 2003.
  6. 佐藤啓介, 「不可能な赦しの可能性――現代宗教哲学の観点から」『宗教と倫理』第4号, 宗教倫理学会, 2004.
  7. 末木文美士, 「《暴力――破壊と秩序》序論」『岩波講座 宗教8 暴力――破壊と秩序』, 岩波書店, 2004.
  8. 田中純, 「心の考古学へ向けて――都市的無意識のトポロジー」『10+1』No. 35, INAX出版, 2004.
  9. Hanna Arendt, Human Condition (orig. 1958), The Univ. of Chicago Press, 1998.
  10. Jacques Derrida, "Le siècle et pardon" Foi et Savoir, Seuil, 2001.
  11. Sigmund Freud, "Erinnern, Wiederholen und Durcharbeiten" (orig. 1914) Studienausgabe Erganzungsband: Schriften zur Behandlungstechnik, Fischer, 1994.
  12. Vladimir Jankélévitch, Traités des vertus III: L'innocence et la mechanceté, Flammarion, 1986.
  13. John Milbank, Being Reconciled: Ontology & Pardon, Routledge, 2003.
  14. Martha Minow, Between Vengeance & Forgiveness: Facing History after Genocide & Mass Violence, Beacon Press, 1998.
  15. Paul Ricoeur, "Tolérance, intolérance, intolérable" Lectures 1: Autour du politique, Seuil, 1991.
  16. ――, "Sanction, réhabilitation, pardon" Le juste 1, Esprit, 1995.
  17. ――, "La marque du passé" Revue de métaphysique et de morale 105, 1998.
  18. ――, La mémoir, l'histoire, l'oubli, Seuil, 2000.
  19. ――, "Justice et vengeance" Le juste 2, Esprit, 2001.

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