2004/06/05 第7回 Res: もの研究会

宇治幻想博物館
中世びとの想像世界におけるコレクション

発表者: 中井 淳史

Prologue: <宝蔵伝説>と宇治

院政期から鎌倉期にかけて、人々の間ではある伝説がささやかれていた。この世のありとあらゆる珍品奇宝が、宇治の宝蔵、すなわち平等院宝蔵に秘蔵されてゆくストーリーだ。この<宝蔵伝説>は、説話のなかでしばしばとりあげられる。説話とは伝承などをもとにつくられた物語のことだから、その情景は必ずしも真実とはかぎらない。そこに描かれたモノは、非実在のモノも含まれることもあり得る。実際、以下でとりあげるモノのなかには、「あるはずのない」モノも多く含まれる。

現世のさまざまな珍宝奇宝が宇治宝蔵に収束されることとは、まさにコレクションにほかならないが、典型的なコレクションの意味とは毛色が異なっていることにすぐに気がつくだろう。ひとつは、宇治宝蔵の「コレクション」には明確な主体がなかったことだ。平等院は藤原氏の寺院であるわけだから、コレクションの主体は摂関家歴代といえなくもないが、検討する言説のなかでは明確な主体者が語られることはほとんどない。宇治宝蔵のコレクションとはむしろ、中世びとの共同幻想によって生み出された「主体なきコレクション」なのだ。そしてもうひとつは、必ずしも宇治宝蔵という場がモノの終着点ではなかったこと。場合によっては、モノは宇治宝蔵を通過していったり、あるいは出たり入ったりすることによって価値を身にまとうことがあった。このような点を念頭におきつつ、「宇治幻想博物館」に入館してみよう。

1. 宇治幻想博物館

平等院の成立と経蔵 平等院は永承7(1052)年、藤原頼通によって建立された寺院である。伝説の舞台となる宝蔵の建立年代は明らかではない。康平6(1063)年の年紀をもつ「宇治宝蔵袈裟記」を信頼すれば、頼通在世中の建立と考えられる。文字通り、寺院の運営に必要な経典や什物をおさめていた倉庫のことで、経蔵ともよばれた(以下では宝蔵に統一)。

この宝蔵が倉庫という役割を超え、重要な意味を持つ契機となったのは、頼通によって延久元(1068)年5月におこなわれた一切経会であったと考えられる。宝蔵の前に舞台をしつらえ、開扉する行事だ。以後これは毎年3月3日におこなわれ、宝蔵はその中心的施設となった。

宝蔵は通常、この一切経会の時だけ開扉されるが、貴人の来訪に際し臨時で開扉されることもあった。天皇家の行幸や摂関家一門の来訪の際である。のちに藤原忠実の時代になると、氏長者となった者が代始にあたって平等院を訪れ、宝蔵をあらためる「宇治入り」がおこなわれるようになった。いわば、氏長者の「即位式」ともいうべき儀礼だ。このとき立ち会いが許されたのは、氏長者の家司や平等院の経蔵司・三綱・長吏をはじめとした関係者にほぼかぎられていた。宝蔵は摂関家の権威や富貴の象徴として厳重に管理されるとともに、摂関家とその周辺の人々以外には秘匿されていたのであった。

宇治幻想博物館所蔵品目録 <宝蔵伝説>はこれまで、歴史学というよりも国文学の分野において注目されていたテーマであった。というのも、<宝蔵伝説>群のひとつに、幻の『源氏物語』雲隠6帖が宇治宝蔵に収められたとする言説があったからだ。周知の通り、『源氏物語』は54帖で構成されているが、本来は主人公光源氏の死を描いた部分があり、そこを読んだ人々が悲嘆にくれて出家してしまうので、この宇治宝蔵に収めたという。

現代の国文学では、これは文字通り伝説として否定されているが、田中貴子氏は一連の伝承を博捜して、<王権>のシンボルとしての宝蔵という役割を素描した。氏の成果に導かれつつ、この宇治宝蔵=宇治幻想博物館の所蔵品を概観してみると、さまざまなモノがあらわれる。先にふれた『源氏物語』の雲隠六帖や山上憶良の自選歌集という『類聚歌林』のような幻の典籍。そして、歴代摂関家が奉納した手跡、摂関家累代の家宝と目される楽器群といった本来の宇治宝蔵の役割とも関わるモノ。さらには、往生した恵心僧都源信の遺体のそばにあらわれた青蓮花とか、宮中にあらわれた玉藻前とよばれる狐の死骸、源頼光が退治した大江山の酒呑童子の首までがおさめられていた。

「価値形成」の諸相 平等院の宝蔵は実在する建築物であるけれども、中世びとの想像世界にあっては、単なる寺院の倉庫という役割を越え、ありとあらゆる珍品奇宝を蔵する特別な宝蔵であった。数々のめずらしいモノがこめられるという風聞が平等院の宝蔵の価値を高め、またそれが収蔵されたモノの価値を高め、宝蔵伝説が再生産されてゆく―このらせんにもにた構造が、<宝蔵伝説>における価値形成の背景といえる。<宝蔵伝説>にみえる収蔵品は、価値形成という観点からみれば、いくつかのカテゴリにわけられる。ひとつは、モノそのものが特別に価値をもっていた事例だ。『源氏物語』雲隠六帖や摂関家の手跡はその好例である。もうひとつは、モノが転変するなかで価値を得た事例。三井寺の秘仏とされた千手観音像などである。これらはそれ自体がある一定の価値を有していたが、伝説的な宇治の宝蔵におさまったことによって、さらなる特殊性や神秘性を獲得している。いわば、モノとそのモノがおかれた場所の相乗効果によって、価値が形成されるのである。第三は、モノがその所有者を変えてゆくことで価値を増やす事例で、楽器に顕著である。琵琶や横笛といった一般名詞だけでなく、ある特定の名が与えられることが価値を増す第一歩であるが、それはさらに名だたる楽人の手を経た事実を積み重ねること、つまり名人の手を通過することによって、さらに名声を高めてゆく。あの伝説的な雅楽の名手・博雅三位が愛用したぐらいだから、「葉二」の笛はならびなき名品といったように。名人が使用したという事実ないし伝承こそが、楽器の価値の源泉となり、その積み重ねが価値を高めるのである。モノとそれをあつかうヒトとのあいだで、価値が形成されていくのだ。

モノがうみだす<磁場>:宇治宝蔵の<価値> こうしたモノたちの住処である宇治宝蔵はまた、モノをおさめたという事実そのものによってあらたな価値を発する。冒頭にも述べたように、宇治宝蔵はもともと、平等院に附属する経蔵であった。重要な経典をはじめ、さまざまな什物がおさめられたはずであるが、平等院が藤原摂関家のためにつくられた寺院であり、「宇治入り」という儀式が摂関家の関係者しか集めなかった自己完結的なセレモニーであったことを思い起こせば、平等院宝蔵の価値や意義というのはそもそも、摂関家人々の専有物にすぎなかったはずだ。

では、摂関家のみに通ずる価値が、いかに中世びと(貴族層というほうが厳密だろう)に共有されていったのだろうか。この問いに答えることは困難であるが、貴族の世から武家の世へという転変は重要な要素である。慈円が『愚管抄』のなかで半ば諦観的に書いたように、道理にもとづく社会の変化は押しとどめようのないものであった。こうした社会の変革期において、前時代の事物がノスタルジックな色彩を帯びて語られることは想像に難くない。摂関家の宝物をおさめた実在の蔵は、非実在のモノまでをのみこみながら、やがてこの世のありとあらゆる真・善・美をおさめた幻想の「博物館」へと変化していったのだ。

2. 宇治から鳥羽へ、そして蓮華王院へ

三つの宝蔵−平等院・勝光明院・蓮華王院− 移りゆく世のなかで、ややもすれば波間に飲み込まれてしまいそうなモノたちを何とかしてのこしたいというのが貴族たちの願望であったとしても、ではなぜ平等院の宝蔵でなければならなかったのか。

この問題を考える手がかりとなるのが、古典文学のなかであらわれるもう二つの宝蔵だ。鳥羽勝光明院宝蔵と蓮華王院宝蔵である。鳥羽勝光明院とは、保延2(1136)年に鳥羽院によって建立された寺院。現在は廃寺となって遺構はのこっていない。蓮華王院は後白河院によって長寛2(1164)年につくられた寺院で、三十三間堂といったほうが通りがよい。これらはいずれも、藤原摂関家と対照的に力をのばしてきた天皇家(院)の人々が建立した寺院だ。しかしながら、勝光明院は鳥羽法皇のたっての希望で平等院阿弥陀堂を模してつくられたという顛末(『長秋記』)からもわかるように、これらの寺院には平等院の影響が色濃く影を落としていたことは注目される。

勝光明院宝蔵の収蔵品をみてゆくと、弘法大師にまつわる密教関係品がめだつ。弘法大師の自画像(御影像)や八幡大菩薩像をはじめ、自筆の典籍が多い。寺地を定めるために唐から投げたという伝説の飛行三鈷や、得た者は諸願が成就するという如意宝珠までおさめられている。これらは真言密教の創始者にまつわるモノで、高野山にとってもっとも重要な宝物であるはずにもかかわらず、勝光明院に一時おさめられた点は興味深い。

一方、蓮華王院を建立した後白河院は無頼の今様好きで知られるが、それを反映してか宝蔵の収蔵品には楽器・楽譜関係の品々がめだつ。このうち、「催馬楽譜」という楽譜は、『郢曲抄』によれば世情不安による散逸をおそれておさめられたという。徹底的に秘匿する点で共通するとはいっても、その理屈は宇治宝蔵におさめるそれとはまったく異なっている。

これらの所蔵品は建立者の性格を反映してか、宇治宝蔵と比べれば偏りがみられるように思われる。おそらく宇治宝蔵とちがって実在の宝物が大半だったのであろう。三つの宝蔵を比較したとき、宇治宝蔵の特異性はきわだっている。勝光明院や蓮華王院の宝蔵とは異なり、鬼の首から非実在の典籍、秘仏に至るまで、幅広いモノがおさめられていたからだ。11世紀から12世紀にかけてつくられた平等院・勝光明院・蓮華王院は、いずれも時の権力者が築いたという意味で国家的事業ともいえるが、それに付随してつくられた宝蔵にまつわる伝説は決定的な差異を有していたのである。

規範としての平等院、または<ヘテロトピア>としての平等院 <宝蔵伝説>とは別に12世紀以降みられる「頼通時代の理想化」の動きは、宇治宝蔵の特殊性を考えるうえで注目される。この時期に編まれた『中外抄』や『富家語』といった有職故実にまつわる書籍は、いずれも規範として頼通時代を理想化していた。以後の規範となったのは、ほかならぬ頼通の時代の故事であったのだ。そしてその頼通は、死後も平等院を守護していると考えられるようになる。頼通は理想化された存在となり、時間を超えて平等院宝蔵=この世の真・善・美の守護者になったというイメージがたちあらわれるのである。宇治宝蔵の神秘性を考えるとき、こうした頼通自身の神秘化と切り離せない。

また、平等院は12世紀に全国へと広がる浄土信仰のなかで、一貫して規範とみなされてきた経緯も注目してよい。平等院阿弥陀堂やその庭園は、各地の寺院で模倣された。極楽浄土のミーメーシスとしてつくられた平等院は、それゆえにこの世の異他なる場所<ヘテロトピア>として考えられていたのである。

以上をふまえ、<宝蔵伝説>の生成について「歴史学的」な説明を与えるとするならば、つぎのようになる。すなわち、頼通の治世や寺院様式としての平等院を理想化する動きに連動して、かくのごとき伝説もまた生まれ出たと。末法思想の流布を背景とした浄土信仰の高まり、そして武家の世への転換という動きのなかで、頼通時代の政治や文化を範とする考えが醸成され、そのなかで散逸された珍品奇宝もまた、理想化された場所である宇治宝蔵へと吸引されていったのではあるまいか。

Epilogue: <宝蔵伝説>の終焉

現実世界の平等院は、鎌倉時代には衰微していった。藤原定家は鳳凰堂の荒廃を嘆いているし(『明月記』寛喜3(1231)年)、建武3(1336)年には南北朝動乱の兵火によって、阿弥陀堂以外の諸堂が焼亡した。現実世界の寺院の衰退は、物語世界にも大きな影響を与えたようだ。これまでみてきた<宝蔵伝説>は、室町時代に入ると急激にその数を減ずるのである。庶民的な性格のつよい室町時代の説話をみてゆくと、宝蔵は完全に物語の結末を示す定型句としてしか機能していないようにみえる。表現的には最後にとってつけたように記されるのみであって、もはや生きた表現にはなっていないのだ。

<宝蔵伝説>の終焉は、真・善・美を是とする貴族文化と新興の庶民文化との相互交流・対立といった構図の一端をあらわしている。価値観の変化のなかで、宇治宝蔵は歴史の波間へと消えていったのだ。

附記

<宝蔵伝説>の意味の考察や、平等院宝蔵におさめられた品物の考証として、田中貴子氏(「宇治の宝蔵−中世における宝蔵の意味−」『伝承文学研究』36、伝承文学研究会、1989)、福山敏男氏(『日本建築史研究 続編』、墨水書房、1971)などの成果がある。本報告に際して大いに参考にさせていただいたことを附記しておきたい。

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