2003/10/12 第5回 Res: もの研究会

三中信宏氏への反論

コメント: 大賀 克彦

以下は、第5回研究会「もの認識」での大賀氏の発表「起源のa prioriに対して寄せられた三中氏のコメントに対して、大賀氏が再コメントしたものです。ところどころにある節のタイトルは、webサイト管理人が補足したものです。

はじめに

Res:もの研究会での発表要旨「起源のa prioriに対して、系統学者の三中氏より厳しい御批判をいただいた。筆者は、生物分類学における論争に触発されて、分類に関わる認識についての考察を始め、中でも系統学の基本的な主張を合理的なものとして受け入れているつもりであったため、三中氏が私の理解に対して強い違和感を覚えられたことが、正直少し驚きであった。そこで、説明を補足するとともに、こうした見解の相違の原因について、あらためて考えてみたいと思う。

個体の存在論について

三中氏から受けた最大の批判は、私が、「個体」の実在性を前提とするように議論をすすめた点にあったと思われる。これは、部分的には、「個体」に関する存在論と認識論についての理解を、充分に説明できていなかったためであると考える。

ただし、先立って二つの疑問がある。第一は、これまでの長い哲学の歴史の中で、「個体」の実在性までを疑うような徹底した懐疑論が、どれほど表立って主張されてきたか、という点にある。もちろん、フレーゲやラッセルに代表される名前の記述説が、結果的にそうした徹底した懐疑論と親和的であることは否定できないとしても、それは本意ではないと思われる。私がクリプキに依拠しながら議論をすすめたのは、指示の因果説が、そうした極端な懐疑論への明示的な反対であったからである。もちろん、クリプキが、「アリストテレス」のような固有名と「金」のような自然種名を明確に区別することなく、固定指示子と一括したことが混乱の原因であることを見逃すことはできないが(クリプキの議論におけるこの部分への留保は、発表時には簡単に触れておいた)。

第二の疑問は、三中氏自身が、文字通り「個体」の実在性を前提としない立場を採られているのか、という点にある。例えば、「個体」の実在性を前提としない系統学の記述がどのようなものになるのか、私には想像し難い。

私自身は、現在関わっている考古学の中での具体的な記述を、対象が「個体」として実在しているかのように行っている。ただし、それは現在採用しているスタイルとして、である。別様なスタイルは、途方もなく困難であるが、確かに存在するように思われる。

また、三中氏が「個体」の実在性を前提とする認識をすべて本質主義と結び付けられる点にも疑問を持っている。むしろ、名前の記述説こそが類型学的本質主義の「個体」への拡張であり、クリプキの指示の因果説は、本質主義にコミットすることなく、「個体」の実在性を防護する試みである点と評価することができるからである。この点が受け入れられれば、こうした個体実在論は、本質主義とはむしろ相反するものである。

このように、いわば個体実在論を本質主義から分離するならば、我々の生得的な認知構造を端的に本質主義ということはできない。我々の認知構造はむしろ個体実在論によって特徴付けられるものであり、本質主義的な類型化自体は、個体実在論による必然的な帰結である過大な情報を圧縮するための、重要ではあるが二次的な手段であるとみなされるからである。

個体の認識論について

続いて、「個体」の認識論について。私は、個々の具体的な「個体」については、a prioriであるとは主張しなかったつもりである。また、「個体」の境界が時空的に融けていく可能性についても充分に注意しておいた。むしろ、境界が明確ではないとしても、ある時空的範囲に何物かが濃集しているという経験が存在し、しかも、それが単なる偶然ではなく、何らかの因果連鎖の結果であると判断する場合に、その対象を「個体」とみなすのである(ここで、「個体」でさえない「それ」を指し示す適当な言葉が見当たらないことは、御容赦いただきたい)。すなわち、その対象を「個体」とみなした時点で、境界の不明瞭さよりも、不明瞭な境界の存在を重視するという判断をしているのである。

また、「個体」の起源についても、同様な区別が必要である。本質主義から切り離された個体実在論の立場において、クリプキに依拠して、すべての「個体」はそれぞれ必然的に起源を持つということ、また、すべての「個体」が起源を持つということをa prioriに知り得ることを主張した。しかし、経験科学的営みの中で、個々の「個体」の起源をa prioriなまま放置してもよいと主張したわけではない。むしろ、個々の「個体」に関して、起源となる部分の特定や記述は重要な課題であると考えている。ただ、真剣な探求にも関わらず、ある「個体」の起源に関して充分に満足できる成果を得ていない場合でさえ、その対象が「個体」とみなされる限り、起源を持つというだけのことである。

また、このとき、「個体」と「系統」は充分に対比可能と考える。ただし、「個体」と「系統」の対比への三中氏の批判は、氏の論考に見出される、系統に関する実際的な議論を、系統の時空的切片へと収斂させようとする主張とも関わると思われる。しかし、この主張が三中氏の中でどれほど徹底されたものか、という点に関してさえ、判断に苦慮している。また、現状では、私自身は「個体」や「系統」における時空的広がりについては、直接的な証拠を欠いているとしても、積極的に認める方に傾いている。

「日常的個体」と「経験科学的個体」の区別については、次のような比喩で表現することができる。すなわち、個体実在論を本質主義に対置し、その適用範囲を制約した上で、それぞれの管轄の境界を再考するということである。ただし、個体実在論が獲得した新たな領域には、「個体」的ではあるが、我々の直観は「個体」とみなさないような対象が含まれ、それらを区別するため、しかし適当な名前が見当たらないために、暫定的に「経験科学的個体」と呼んでおいたのである。

分類について

また、分類とは、「個体」を出発点とした認識であり、次のようなコースが存在すると考える。

  1. 日常的認識
    1. 「個体」(「日常的個体」)→「集合」(カテゴリー0)
  2. 経験科学的認識
    1. 「個体」(「日常的個体」=「経験科学的個体」)→「集合」(カテゴリー I )
    2. 「個体」(「日常的個体」≠「経験科学的個体」)→「個体」(カテゴリー II )・・・(→「集合」(カテゴリー I ))

このとき、ii が典型的な本質主義的類型化としての分類である。一方、iii の過程の前半は、正確には分類というべきものではなく、個体性のレベルの変更=擬似分類と表現しておいた。このカテゴリー II に帰属する「個体」も分類することができるが、もちろん、常にそうする必要はない。この点を iii の後半に示しておく。

ここでの議論はとりわけ誤解を受けたようなので、細かな点にも触れておく。まず、カテゴリー II に帰属する分類単位はすべて「経験科学的個体」とみなされるが、逆は成立しない。また、カテゴリー0に帰属するある分類単位Aとカテゴリー I に帰属するある分類単位Xが、外延的に一致する場合はあると思われるが、それはカテゴリー0とカテゴリー I の区別には関わらない。natural kindはあまりコミットしたくない概念であるが、少なくともそれが明示可能な本質的定義を持つ分類単位であるならば、カテゴリー0ではなく、カテゴリー I に帰属する。

認識とその制約性について

もう一つ、三中氏と見解を異にするのは、生得的な認知構造に関する理解である。もちろん、私も、生得的な認知構造が生物としての制約を強く負っていることをよろこんで認める。しかし、その制約は、我々が使用する最も主要なコミュニケーション手段、すなわち言語によって、さらに防護されている点を強調したい。もし、我々の言語が、全く別様であるか、別様に変えることができるならば、本質主義や個体実在論さえ必然的ではないように思われる。これほど非現実的な状況は考慮する必要がないとしても、言語に若干の適切な工夫を行うことができれば、本質主義の相対化もはるかに容易になるだろう。三中氏がいう、「リクツではわかっていても、ホンネではそうしたくないという感覚」も、そうした結果をうまく表現する手段を欠いているために生じるのではないか。

考古学的分類について

最後に、私自身が関与する分野における対象の特性に依存した思考的スタイルの相違が、かなり重要ではないかと考えるようになったので、少し補足しておきたい。

一つの例を挙げよう。上野動物園のヒグマ(もし、いなかったらごめんなさい)と玄関の木彫りの熊を、生物学的に比較するということは端的にナンセンスである。この点には同意が得られると思う。しかし、それは期待したほど似ていないからではないと思われる。お望みとあれば、もっとよく似たレプリカでも用意することはできるが、それでも上記のナンセンスさは解消されない。問題は、比較という作業が有意であるための、対象の範囲に合致していないからである。生物学においては、その対象が地球上の生物全体という、比較的明確な範囲を持っているように思われる。それは、地球上の生物全体が一つの系統にまとめられるからであろう。

しかし、考古学の対象は、全く異なる条件を具備している。いわば、系統的に全く不連続な小さな断片が無数に散らばっているのである。そのため、有意な比較を行うには、対象を系統的な不連続点に従って分割しておかなければならない。こうした作業が充分ではないために、現在もナンセンスな疑似問題が盛んに議論されている。対象を、系統的に不連続な断片へと分割するという作業は広い意味での分類であり(正確にいえば擬似分類であるが)、この点で分類思考とは、より分かち難く結び付いている。

もう一点は、考古資料の発見される状況に関わる。考古資料は、異なる時間的切片に帰属する個体が、しばしば混在して埋没する。そのため、現在という有力な時間的切片を手にしている生物学とは異なり、同じ時間的切片に帰属するという認識よりも、同じ系統に帰属する認識の方が、信頼性が高いという事態がしばしば生じる。このことが、私が「経験科学的個体」の認定を重視した理由である。

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