2003/10/12 第5回 Res: もの研究会

「起源」の a priori

発表者: 大賀 克彦

■ 1. 認識と分類

我々は、しばしば「Xとは何か」と問い掛ける。このとき、Xには、我々が参加している分野において使用される名前や術語が任意に代入される。このように表現される端的な問いは、あまりに自然で無意識的に思い浮かべられるため、容易には逃れられない。しかし、この形式による問い方は、経験科学としてはあまりに素朴で不明瞭である。

第一に、それは常に対をなすべき、それが問われたコンテクストを明示していない。そのため、可能性があり、同時に「真」でさえあるかもしれない答えの中で、いずれを妥当とみなすべきかに関する指針を欠くのである。しかし、我々が何らかの答えを合理的に選択するには、「因果的な質問の連鎖への後退を、強制によることなく、終結へと到らせる特殊な答えは何かの問いを立てねばならない」(クーン1987, p. 34)。

第二に、その問いが発せられる場において、Xの同質性はしばしば a priori かつ安易に前提される。しかし、多くの場合において、その問いに対してXは同質性を具備してはいない。その場合、合理的な答えを見出せないのも必然的である。すなわち、我々は何らかの問い掛けに先立って、問いの主語となる対象が有意な同質性によるまとまりであるか、問い直さなければならない。

ただし、上記の問題を解決したならば、「Xとは何か」という問いは極めて陳腐なものとなる。その答えは、まさにXを他から区別するところのものだからである。この意味において、認識とは端的に分類することであるといえる。

しかし、分類という営為に関して、我々がどれほど適切な認識を手にしているのかという点には多いに疑問がある。本稿では、我々がいかにして分類を行い、またいかにして分類を行うべきかについて、もう少し適切な見取り図を構成してみたいと思う。特に、分類と一括される営為の中での多様性について注意する。そのため、多様性を際立たせるために有効な概念を配置していく。ただし、いかにして分類を行っていると考えているかについては言及しない。それは、しばしば誤解されているからである。また、いかなる分類を行いたいかについても言及しない。それは、いかにして分類を行い、またいかにして分類を行うべきか、に制約された中での自由であると考えるからである。

■ 2. 「個体」に関する認識

「唯名論」と「実在論」は、分類における根本的な立場の相違の一つである。両者が最も原理的に主張されるならば、その判断に関して、不可知の立場を選択しなければならないものと思われる。対象の実在性を直接知ることができないと同時に、対象の不在性も知ることはできないからである。このとき、議論は解決されることなく、終了する。しかし、事態はそれほど困難なものではない。なぜならば、唯名論といえども、通常「個体」の実在性は認めているからである。すなわち、分類という営為を分析するための、確固とした出発点として「個体」の実在性を位置付けることができる。そこで、我々の認識における「個体」について確認することから、議論を始めていきたい。

我々を取り巻く世界は、無数の個体に満ち溢れている。正確に言えば、我々が、我々を取り巻く世界を認識する際に、最初に行う作業が、無数の個体へと分割しておくことである(1)。今、こうした作業が世界自体の分節構造に起因するものであるか、という問題は留保しておくことができる。また、我々が一人で孤立的に存在する場合にも、そうした分割を行うかという問題も考慮する必要はない。しかし、実際にそうであるように、我々が社会を構成して生存している場合には、名前を与えられることで、ある個体の存在は伝達可能となる。個体に与えられた名前を、特に固有名という。

個体とは、非常に特異な存在である。特に、個体は時間的にも、空間的にも広がりが限定されている。空間的な広がりに関しては、極めて明確である。個体といわれる対象は、いったん認められれば、周囲から明確に区別されている。周囲へと漸移的に移行していくように見える個体など、ありはしない。また、二つに分かれた個体という言い方も奇妙な響きを持っている。時間的な広がりに関しても同様である。いったん個体と認められれば、その出現と消滅を考えることができる。しかも、出現と消滅は、普通一度限りである。すなわち、個体とは端的に一つとみなされるものである。一方で、個体は文字通り無限個の属性を具備している。

個体の特質に関しては、名前や指示についての画期的な見取り図を提示したクリプキの著作、『名指しと必然性』に興味深い議論が見出されるので、一例を次に引用しておこう。

その女性(エリザベス二世:筆者補注)が与えられたとして、彼女の一生で様々なことが変わりえたと想像すること、すなわち彼女が貧民になった、彼女が王家の血筋であることが知られていなかった、等々と想像することはできる。たとえば、特定の時刻までの世界の歴史が与えられており、その時点から歴史は現実の道筋とは大きくたもとを分かつ。これは可能だと思われる。したがって、たとえ彼女がこれらの両親から生まれたとしても、彼女が女王にはならなかった、ということは可能である。たとえ彼女がこれらの両親から生まれたとしても、マーク・トウェインの登場人物のように、彼女は別の少女と入れ替わった、ということは可能である。しかし、それ以上に想像しがたいのは、彼女が別の両親から生まれるということである。何であれ別の起源から生ずるものは、この当の対象ではないように私には思われる。

以上の議論が意味しているのは、次の2点である。

まず、個体のあり様、すなわち属性は、いずれも別様であり得た以上、せいぜい偶然的な事実でしかない。すなわち、個体はそうした属性の記述へと置き換えることはできない。しかし、唯一の例外は個体の起源である。個体の起源は、別様であった可能性を考えることができない。すなわち、個体と起源との結び付きは必然的である。また、個体とその起源との結び付きの必然性は、哲学的な分析によって a priori に知られるのである。

とはいえ、個体という認識はそれほど確固としたものではない。例えば、今、この文章を入力している筆者の自宅にあるコンピューターは製造番号という固有名を与えられており、1個の個体として扱われている。しかし、本体、ディスプレー、キーボード、マウスなどに分解したとき、それぞれを1個のコンピューターの部分とみなすだけではなく、それぞれ別個の個体とみなす見方も可能である。ネジや銅線やプラスチック板にまで分解しても、事態は同様である。明らかに個体という存在の輪郭は、文脈や社会的習慣や個人的嗜好性さえ関与した決断である。

また、我々よりもはるかに鋭敏な感覚器官を具備している知的生物を想像してみよう。この知的生物の視覚は、大きな分子を直接知覚するほどの解像度を持ち、またスローモーションでコマ送りを見るように微小時間に区切ることも可能であるとする。このとき、筆者、「大賀克彦」という個体は、空気中に浮かんだタンパク質や核酸が、盛んに移動と生成、消滅を繰り返しながら、ぼんやりと集まった空間と見えるであろう。決して、明確な輪郭を持った1個の個体には見えないと思われる。すなわち、個体という認識は、生物学的な制約も受けている。

以上の考察によって、ある対象を個体とみなすスケールが可変的であることを確認できる。そこで、ある対象を個体とみなすスケールを個体性のレベルと呼んでおく。個体性のレベルは、通常、無自覚的な社会的約定として決定されている。

■ 3. 個体から普遍へ

直観的な理解に従えば、分類という認識は、特定の属性群を共有する個体の集合を定義することである。正に唯名論的枠組みによる分類と言い換えてもよい。言うまでもなく、任意に選択された個体群の単なる集合ではない(2)。また、このようにして得られる分類単位は、個体とは際立って異なる特質を持っている。

第一に、すべての個体は、文字通り無限個の属性を具備するので、正に無限通りの分類が可能である。反対にいえば、すべての個体は、同時に無限通りの分類単位に帰属するということである。

第二に、完全に記述の束へと還元可能である。いうまでもなく、帰属を決定する属性群と分類単位とは必要十分の関係にあり、その間に不整合は論理的にあり得ない(3)。帰属を決定する属性群を実際の知覚経験へと還元する方式には裁量の余地が残るとしても、それは技術的に解決可能な問題である。すなわち、適切な記述のみによって、分類単位への帰属を判定できるということである。

第三に、分類単位はそれを構成する個体の単なる総和であるが、文字通り無限個の個体が帰属する。それは、分類単位の外延が、実在する個体のみによっては閉じていないためである。そのため、定義的に露骨に制約を受けない限り、ある分類単位の構成要素の時空的広がりも不確定となる。もし、既知の構成要素の時空的広がりが凝集的であるとしても、今後もそうであることを保障する根拠は存在しない。

第四に、ある分類単位のすべての構成要素は全く等価であり、また互いに有機的な関連性を持たない。

こうした分類によって得られる分類単位は、カテゴリー I と一括する。

■ 4. 個体から個体へ

分類のもう一つの方法は、全く異なる方向から開始される。

先に、個体という存在が、実は相対的な認識であり、その実在性は約定によって保障されているに過ぎない点に触れておいた。とはいえ、個体という存在をすべて解除することを求めるような、極端な懐疑論を提起する意図はない。そうではなく、個体という存在が必ずしも確固とした基盤を持っていないならば、我々が現在構築している経験科学的世界像の中で不都合が生じた個体に関しては、適切なスケールを持った単位へと置換すべきだという、より穏健な主張を考えているのである。

実際に懐疑が提起されるのは、個体の持つ「1個の」という属性である。先に、思考実験によって示したように、個体は「1個の」という本質的属性を具備しているわけではない。我々が1個の個体と考えている対象といえども、複数の個体とみなすような見方が存在する。反対に、我々が複数の個体と考える対象を、1個の個体とみなすような見方も存在する。

我々が社会的なコミュニケーションにおいてこれまで無意識的に導入していた個体を「日常的個体」とすれば、経験科学的世界像に適合するように意図的に導入された個体は、「経験科学的個体」ということができる。経験科学的個体は、日常的個体に一致する場合と、個体性のレベルの変更によって一致しない場合がある。後者の場合、経験科学的個体は、日常的個体を複数個に分割したものと、複数個の日常的個体を加算したものが存在する。論理的には、分割と加算の二つの操作を複合させた場合も想定されるが、そうした事例を見出すことは困難である。

例えば、生物学における個々の「種」が、経験科学的個体のよい実例となる。筆者、大賀克彦は固有名を持つ日常的個体であるが、経験科学の中で個体として記述されることはほとんどなく(4)、むしろ、筆者と「変化を伴った由来」によって有機的に結び付いた個体群から構成される homo sapiens という経験科学的個体の一部分とみなされる。しかし、経験科学における他の分野、例えば化学では、筆者という一つの個体も複数の分子という経験科学的個体、それは固有名を付与されることがほとんどないけれども、へと分割される。また、日本国という単位は、日常的個体である一方で、歴史学におけるように、経験科学的個体でもある。

問題は、上記のように日常的個体と経験科学的個体の概念的区分を行えば、個体性のレベルの変更によって、複数の個体からなる一つの個体という状態が出現する点にある。このとき、厳密には錯覚であるが、見掛け上、ある種の分類を行ったようにみえるからである。実際、「生物分類学」のように、我々が通常、分類と表現する認識の中でも、その徹底した方法として、上記のような擬似分類が重要な役割を果たしている。そこで、カテゴリー I に対比するために、このようにして得られる分類単位をカテゴリー II としておく。

カテゴリー II に帰属する分類単位は、非日常的な意図で導入された個体といってよいものであるから、先に、個体において確認しておいた性格は、すべて妥当する。それは、起源と終末、そして時空的広がりの明確な境界を持つ。また、ある一つの個体に関する本質的な(5)記述が困難であると同様に、ある一つの分類単位に対する本質的な記述というものは考え難い。

また、一つの分類単位が複数の個体から構成されるとしても、それは有限個に留まる。構成要素となる個体は、その分類単位の不可欠な部分とみなされる。しかし、すべての構成要素間の共通性が保障されているわけではない。そこで、そうした見方を正当化するような、個体間には何らかの有機的な結び付きが想定される。ある分類単位への帰属の可否が、特定の属性の具備によって判断されているとしても、構成要素間の時空的近接性(6)とそうした近接性を生じた原因の存在へのコミットが必要なのである。

ただし、カテゴリー II の分類単位に固有の困難も存在する。問題が日常的個体であるならば、本質的な記述が不可能であるとしても、起源の特定や例示という手段によって、認識を共有することができる。しかし、複数の個体から構成される分類単位の場合には、多くの個体から起源を特定することは困難であるし、そもそも既知の個体の中に起源が含まれている保障はない。また、全体の例示という手段も二重の意味(7)で不可能である。

そのため、カテゴリー II に帰属する分類単位の定義は、一つの範例の決定と、その「範例と同種の個体群」という形式で行わざるを得ない。その上で、より多くの構成要素間に共通する属性の記述などを補足することとなる。既知の個体が部分的であるために、偶然的にすべての構成要素間に共通する属性を発見できる場合があるとしても、今後、追加される個体がその属性を共有しているという保障は存在しない。また、範例に指定された個体を除けば、分類単位への帰属の判定自体が興味深い検討課題となる(8)

■ 5. 存在と認識の間

前節までに、我々が行う分類における二つの方向について概観してきた。もし、我々の営為が時制を持たないならば、上述の見取り図は充分に目的に適ったものであると思う。しかし、ある対象が分類され、定まった位置を与えられるまでには、無視できない時間的なヒアタスが存在している。

もし、我々の知覚の対象となる個体がわずかであれば、すべてに固有名を与えることができる。その場合には、そもそも分類という営為自体が不可欠ではないし、分類を行うとしても、結果は固有名のみを使用して伝達することができる。しかし、残念ながら、我々が対峙し、認識を試みる世界には無数の個体が無秩序に満ち溢れている。それは、我々という様々な制約を負った知性に、固有名のみからなる世界像の構築を断念させるに充分である。そのため、無数の個体を分類することで、操作可能な程度に情報を圧縮しなければならない。認識には、分類が不可欠なのである。

しかし、ここで再び我々の知性の制約のために、すべての個体を網羅するような認識の枠組みを一挙に用意することは困難である。我々にとって可能な最善の方法は、せいぜい操作可能な程度のスケールで、解決が容易と思われる部分集合を抽出し、そこから徐々に秩序を構築していくことである。反対にいえば、存在が知覚されてから、経験科学的認識の枠組みに組み込まれるまでには、時間的なヒアタスが存在するということである。すなわち、このヒアタスにおいて、その個体の存在を認識しているということを、いかにすれば伝達可能かという問題が生じる。

また、ある一群の個体を取り上げ、正に分類を行っているという場面を考えることができる。このとき、無限に近い個体の中から、どのような方法で問題とすべき一群の個体を選択するか、は未解決の問題である。また、取り上げた個体がすべて固有名を持っているわけではないから、行った分類結果を伝達する手段が必要となるのである。

以上の要請に応えるには、経験科学的認識に組み込まれた確固とした分類に先行して、何らかの分類と命名が行われていることが望ましい。そうした分類、命名は完全に操作的な必要性に起因するものであり、正に確固とした分類に置換される機会を待っているのであるから、仮分類としての身分が期待される。そのため、分類の基準や分類単位への帰属の判断に多少の不明瞭性などが残るとしても、充分に役割を果たすことができる。むしろ、仮分類を明確化するという作業は、方法と目的の混同である。こうした、仮分類によるやや外延の不明瞭な分類単位を、カテゴリー 0 と一括しておく。

カテゴリー 0 に帰属する分類単位としては、我々の使用する日常言語が示す分節構造が第一の候補となる。日常言語に由来する数々の名前によって表現される集合は、必ずしも常に外延が明確というわけではないし、帰属を判定する基準を明示できるというわけでもない。また、経験的科学的認識における世界像を構成する単位と一致するというわけでもない。しかし、その使用に困難が生じるほどの不都合は存在しない。すなわち、カテゴリー 0 としての要件を充分に満たしている。また、新たに意識されるようになった個体に関しても、漠然とした類似にしたがって直観的に分類しても、同様な生物的及び文化的制約を受けた研究者間のコミュニケーションに不都合は生じないと思われる。

■ 6. 収束

我々という、生物学的にも歴史的に制約を負った知性が行う分類においては、個体という認識が起点となる。個体は、我々の構築する世界像において、unique な役割を果たす。特定の記述の束へと還元することはできないが、その起源によって特定され、時間的にも空間的にも広がりの境界を持つ。一方で、その実在性に関する懐疑からは、暗黙的な規約によって強く守られている。そして、分類とは複数の個体からなる有意な集合を設定することである。

分類には、大別して二つの方向がある。一方は、無限個の個体を構成要素とする分類単位を設定するもので、そうした分類単位はカテゴリー I と一括した。カテゴリー I に帰属する分類単位は、特定の属性群の具備によって定義されるが、時空的ひろがりは根本的に未決定である。他方は、複数であるが有限個の個体を構成要素とする分類単位を認識するもので、そうした分類単位はカテゴリー II と一括した。カテゴリー II に帰属する分類単位は、特定の属性群の具備を契機に認識されるとしても、さらに余分に存在論へとコミットしたものである。すなわち、分類単位の構成要素間の有機的な結び付きの存在である。そのため、時空的ひろがりが閉じたものとなることが演繹される。

以上のような分類に関する見取り図は、指示の理論や生物分類学における有力な見解の間の驚くべき同型性に触発された、筆者の分類観をスケッチしたものである。もちろん、分類という我々にとって極めて根源的な営為が容易に記述し得るとは思えないが、分類の方法さえも基層的とはいえパラダイム、もちろんこれ自体も一つの個体である、であるならば、適切な記述を繰り返すことでしか理解を共有する手段はない。

ところで、日常的個体を単位として正に分類を行うにせよ、擬似分類に置換するにせよ、個体を出発点とする現在の我々の認識において、個体は端的に起源である。すなわち、起源は a priori であるということができる。ただし、素朴な意味での a priori ではなく、規約としての a priori である。このように、自らの認識上の前提を確認した今、「起源は a priori である」というテーゼは必然的でも、a priori でもない。起源の a priori を前提としない世界制作の異なるバージョンは、現在のところ想像することさえ容易ではないが、確かに可能である。

《付記》

「「起源」の a priori」は、第5回Res:もの研究会において配布した資料の一部である。もし、本稿が、読者の思考になにがしかの働きかけができたならば、当サイトのアドレスにおいて言及して頂ければ幸いである。また、研究会当日の討議に基づいて、弁明や反論が必要と感じた点について若干の補足を行っておく。

まず、筆者にとって、認識論的な議論を行うことの第一の理由は、我々の認識行為の前提を自覚することで、逃れ難い制約を確認しておくことである。もちろん、特定の前提の組み合わせが唯一のものでも、充分に正当化されたものでもないことは明らかであるし、根本的に異なった見方の探求は意義深いものである。討議において注意されなかったのは遺憾であるが、筆者も文末においてそうした可能性を示唆したつもりである。ただし、そうした根本的な見方の転換する困難の途方もなさについて、楽観的になれないだけである。

討議においては、まず認識論や方法論というものの普遍性が、重要な論点となった。しかし、現実は多様であるという点を根拠として、一般論的に特定の認識論の射程を制限するという立場には賛同しない。そうした後退は、容易に想起されるように、悪性の無限後退に陥る。すなわち、我々は、特定の認識論の一般的な適用可能性を期待しておくべきであり、現実との不整合が許容不可能なレベルに達した場合にのみ、それ以上の拡張を断念すべきなのである。それゆえ、「起源」の a priori というテーゼも、それが許容不可能なほど現実と衝突するということが示されるまで、普遍的な適用可能性を持つものと期待しておいてよいと考える。また、実際の経験科学の営みにおいて、様々な分野で互いにほとんど無関係に、「起源」を重視した「分類」へと収斂してきたということは、「「起源」の a priori」の一般的な適用可能性を示すものである。ちなみに、様々な分野における「起源」による分類の中で、クリプキによる指示の理論は、唯一、基本的に日常的個体のみを想定したものである。この点で、指示の理論と、例えば生物学における系統分類等とは、認識論として基本形と応用形の関係にあり、筆者が一見唐突にクリプキから議論を開始したことも故無きことではない。

また、筆者の認識論が、経験科学的認識のみを対象としたものである、という指摘を受けた。この点に関しては、充分に自覚していなかったが、認めざるを得ない。ただし、経験科学的認識以外の認識が、認識論として語られるような、確固としていて価値の比較の対象となるものであるか、という問題は、現在の筆者には明らかではない。また、おそらく同じ理由によって、我々の世界認識に出現するような分類単位をわずか三つのみを挙げた点にも、より多くの種類があるだろうと批判された。もちろん、筆者も充分な考察を尽くしたわけではなく、そうした可能性をあらかじめ否定する意図はない。しかし、本稿で区分したほど根本的に異なった種類の分類単位が、我々の世界認識において何らかの役割を果たしているならば、そうした実例を示す義務は筆者の側にはないと考えている。

最後に、用語の問題に関しても指摘を受けた。「日常的個体」と「経験科学的個体」という用語は、単なる用語の問題という点で本質的な論点ではないが、確かに望ましいものとは考えていない。もし、適当な用語があれば交換したいと思う。

  1. これはやや不正確な言い方であり、実際には世界の多くの部分は手付かずで放置されているとみなすべきである。しかし、必要となれば、そうした部分に関して何ら理解していなくとも、ある方式において個体への分割は可能であると期待することができる。
  2. みにくいアヒルの仔の定理の世界では、任意に選択された個体の単なる集合間にも何らかの共通属性が存在するが、それは我々が価値を認めるような共通性ではない。
  3. あるn個の属性群に対して、n個の属性すべてを具備する個体の集合と、n個の属性のいくつかを具備する個体の集合の、二つの場合を考えることができる。しかし、後者の定義自体が外延の不確定性を導くわけではない。
  4. ある対象に関する記述が些末な事柄にみえるということは、その対象が経験科学的個体とはみなされていないという事態の直接的な帰結である。
  5. ここでは、単に「重要な」という以上に重い意味に理解されなければならない。
  6. ただし、「近接性」はやや広い意味で理解されなければならない。
  7. いうまでもなく、すべての個体が既知ではないという困難と、すべての個体を同時に例示するというような作業の物理的な困難である。
  8. カテゴリー I に帰属する分類単位に関しては、特定の個体の帰属判定は、興味深い問題とはならない。それは、定義の明瞭性、もしくは判定を行った研究者の技量に対する懐疑を喚起するのみである。

文献

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