2003/07/19 近江貝塚研・もの研 合同研究会

近畿地方における遠賀川系土器の一側面
−弥生時代前期の流水紋から

発表者: 伊庭 功

【管理人より】
以下は、当日の資料に伊庭氏自身が加筆・修正したものです。

■ 1. はじめに

弥生時代の開始は、韓半島からの水田稲作体系の伝来ばかりでなく、多くの考古資料の突然な転換によって特徴付けられる。遠賀川系土器もそうした遺物のひとつである。弥生土器を年代的に秩序づけることに最初に成功した小林行雄氏は、最初期の遠賀川系土器が北部九州から近畿地方までの一帯で非常によく似ていることを指摘した。これを根拠に、韓半島から伝来した稲作はこの範囲へ短期間のうちに伝播し、それは半島に由来のある人々によって行われた、と推定した。((1)、稲作文化の東方伝播説)

小林氏のあとを受けた佐原真氏は、近畿地方を中心に弥生土器の型式学的説明と編年細分を進めるとともに、土器の施紋手法に関する研究を行った。それらは現在でも有効な基礎研究であるとともに、初学者にとっての研究の模範ともなっている。本発表は弥生時代前期から中期までの土器を再検討しようとするものであるが、佐原氏によるこの部分の型式学的説明は、もっともスムースに土器変遷を説明できた部分であった。((2)、土器の型式学的基礎研究)

1970年代以降、西日本各地で新資料が増加すると、佐原氏による弥生土器に関する観察と型式学的説明に対して、齟齬・矛盾・不整合する事実がいくつか明らかにされた((2)に対する批判)。また、縄文時代と弥生時代の間に、断絶よりも連続性を見出すあるいは評価する見方も強調されるようになった((1)に対する批判)。これらの批判はそれぞれ重要である。だが、(2)に対しては、弥生時代の開始(大きな文化的転換・変容)の実態がどのようであったかという本質的な問題において議論がかみ合っておらず、また(2)に対しても考古資料の記述レベルにおいて、(2)に対する批判と同様な状況にあると考える。

本発表は、(1)および(2)に対して批判的に検討しようとする立場から、東日本の縄文時代末の土器に由来すると考えられてきた弥生時代前期の流水紋を取り上げ、これを起点として佐原氏の弥生時代前期土器の型式学的説明にとって不整合な事実に対して、新たな説明を試みようとするものである。

■ 2. 弥生時代前期土器に対する
佐原氏の型式学的説明とその批判

(1)弥生前期の土器の古・中・新段階区分

「区画紋様から紋様帯への変化」という捉え方(佐原1967)

粘土帯接合面に
由来する段(
第 I 種削り出し
突帯(
貼り付け突帯(
少条沈線( 第 II 種削り出し突帯
少条沈線(
多条沈線( 第 II 種削り出し突帯
多条沈線(
櫛描紋(中期
  • 古〜中段階までの紋様を「区画紋様」、新段階を「帯状の紋様」とする。沈線紋を何条も重ねて施された紋様帯は、手法の省略がはかられ、1回の工程で複数の沈線を施紋できる櫛描紋へと代わられた、と説明された。
  • 紋様が施紋手法と密接に関係しながら展開してゆくことを説明していて強い説得力がある。

(2)佐原編年に対して出された批判

(山崎1980、藤田1982、井藤1983、豆谷1991、田畑1997など)

  • 段は粘土帯接合で生じた段差を利用しているわけではなく、粘土を貼り付けて段差を作っている(山崎)。
  • 削り出し手法による「段」を施した例が古い段階にある(藤田、井藤)。
  • 古段階の沈線と、中段階以降に多条化を志向する沈線とは、施紋手法から見て種類が異なる(藤田、豆谷)。
    • 藤田氏が指摘し、深澤1989が手法上の違いを観察して(下記)、豆谷氏はこの手法の違いを時期差・地域差として具体的に示した。
    • 深澤氏は佐原氏が示した紋様の系統的説明に対する批判として提起したのではないが、遠賀川系土器の分析において重要な指摘である。

「追加型施紋」と「順番型施紋」(深澤1989)

「追加型施紋」
土器の表面をヘラ磨きで調整してから細く浅い沈線を施紋。
「順番型施紋」
土器の表面を平滑にナデてから深く太い沈線を施し、その後に表面調整であるヘラ磨きを施す。
  • 「当初追加型施紋であったが、地域が東に移り、時期が下るにつれて、順番型施紋に移り変わる傾向がある。」
  • 近畿地方の前期新段階の沈線はほとんどすべて、順番型施紋と見てよい(発表者)。
  • 貼り付け突帯は前期中段階に出現する。
    • 突帯紋土器(西日本の縄文晩期後半)との系統的関係を推測する立場。
    • この事実は、施紋位置から削り出し突帯と貼り付け突帯との間に推定されてきた系統的関係を否定し、施紋手法の違う相似的属性と考えられることを示していることが重要。
  • 削り出し段、削り出し突帯が新しい段階に残ること。
  • 小津浜遺跡で発見された、新段階の頸部逆段の存在(伊庭2002)
    • 通常の頸部段は下側が低くなるが、小津浜遺跡では上側が低くなる段が見つかった。逆段の由来を古段階の段に求めるとすると説明が難しくなる。

(3)佐原批判のまとめ

  • 3段階区分の各指標(段、削り出し突帯、多条沈線・貼り付け突帯)を厳密に適用することが難しくなった。このことは佐原氏の型式学的説明が的確でなかったことを示す。
  • したがって、弥生時代前期の土器の紋様は、必ずしも佐原氏が説明したように、一系統の展開の中から創出されたものとは限らないこととなる。
  • にもかかわらず、佐原氏が例示した土器は、佐原氏の説明したとおりの順序で展開することを誰もが追認する。「区画紋様から文様帯」という紋様の拡幅化に関しては、現在も有効。このことは、佐原氏の編年的順序が的確であったことを示す。

〈本章の結論〉

弥生前期の土器の展開は「区画紋様から文様帯」という抽象性の高い次元で有効であり、この展開は近畿地方から中部瀬戸内地方までの弥生前期土器が固有に持っている性質であったと考えられる。しかし、「区画紋様」や「文様帯」を構成する各紋様の由来(系譜)は、弥生前期土器固有の展開の中にないものが含まれている可能性がある。

では、弥生前期土器内部に系譜を求められない紋様要素は、どこに由来を求めることができるだろうか?その手がかりを流水紋に求めたい。

■ 3. 小津浜・中島遺跡の流水紋、
および烏丸崎遺跡下層の浮線紋土器

(1)流水紋とは(佐原1983)

  • 主に近畿地方の弥生時代中期前半の土器に、櫛描紋で施されたものが多く見られる。同地域の弥生時代前期の土器にヘラ描き沈線で施されたものも少量ある。小津浜遺跡の前期流水紋は、一遺跡の出土量としてはかなり多いといえる。
  • 弥生時代前期の流水紋は、大洞A'式(東北地方縄文晩期末の型式)の変形工字紋との関連が推定されてきたが(江坂1957、今里1959)、佐原1983は「着実にその系譜をたどる研究は完成していない」とする。
  • 深澤1989は、近畿〜東海地方の縄文晩期の陽刻流水紋(工字紋)を含めて流水紋を検討し、陽刻表現(主に縄文晩期の流水紋−工字紋)と陰刻表現(弥生前期のヘラ描き沈線)の流水紋はすべて順番施紋だが、両者ではモチーフを完成させるまでの施紋工程が異なると指摘した。

(2)小津浜遺跡と中島遺跡の流水紋

  • 弥生前期(第 I 様式)新段階の流水紋
    • ヘラ描き沈線、ヘラ磨きの施されるものはすべて順番型施紋。小津浜遺跡だけで16点。
  • 小津浜遺跡の段、削り出し突帯の施紋手法を見ると、まず太く深い沈線を施し、その上部か下部(または両方)を削り込み、最後に削り出した段と、そこから連続する無紋部全体にヘラ磨きを加えている(順番型施紋)。
  • 弥生中期前葉(第 II 様式)の流水紋
    • 櫛描き流水紋
  • 弥生中期中葉(第 III 様式)の流水紋
    • 擬流水紋が多い。貝田町式も流水紋に含めたい。
  • 守山市中島遺跡の陽刻流水紋
    • 隅丸長方形帯
    • 深澤1989が竹野例1点のみとした陽刻流水紋と同趣である。
    • 中島例は希少な陽刻流水紋資料を加えることになった。

(3)烏丸崎遺跡下層の浮線紋土器

  • 浮線紋土器(縄文晩期〜弥生前期中段階)は、中部地方で大洞A式の影響下で独自の施紋手法とモチーフを発達させた。滋賀県下では、散発的ながら出土例が着実に増加している(中村1991、國分1998)。大洞A'式の変形工字紋との関連が推測されてきた流水紋は、距離のより近い浮線紋土器の工字紋との関連を考えるべきである。
  • 浮線紋の施紋工程は、土器の表面に沈線を施したあと、必要な部分を削り込み、最後に突部分を丸く仕上げつつヘラ磨きを加える(石川1985)。
  • 烏丸崎遺跡下層から出土した弥生前期中段階の土器は、県下で最も古い一群を含みつつ、比較的短期間にまとまる。そこから、浮線作出のための削り込みとヘラ磨きが不十分で、多くの部分が沈線を施しただけで終わっている浮線紋土器が見つかった。その沈線は、前期弥生土器の順番型施紋の太く深い沈線とほとんど変わらない。

〈本項の結論〉

  • 烏丸崎遺跡下層出土の浮線紋土器の観察結果を是とすると、土器の形態、紋様のモチーフは大きく異なるものの、浮線紋土器と、弥生前期土器の削り出し段、削り出し突帯、順番型施紋の沈線などとは、同じ工程を経て施紋されていることがわかる。
  • すなわち、両紋様は、土器の表面を平滑に整え、その「白いカンバス」に付加した「追加型施紋」とは異なって、沈線と削り込みの二工程で陽刻したあと表面全体とともに紋様を整える、施紋工程が土器製作工程中に組み込まれた施紋手法といえるこのような施紋工程を「浮線手法」と呼ぶことにする。
  • 陽刻流水紋が見つかった中島遺跡、新段階の削り出し突帯およびヘラ描き流水紋が見つかった小津浜遺跡は、烏丸崎遺跡に近在し、かつ直属する時期の遺跡である。ここに至って、これまで推測されていながら確定されなかった工字紋と弥生前期の流水紋との、施紋手法と分布から見て、明確な接点があることを見い出せた。

このように考えると、順番型施紋のヘラ描き沈線紋帯とは、浮線直線紋を重ねた紋様帯の凹部をわれわれが紋様と捉えてしまっている呼び名であることになる(凸部と凹部の捉え方の逆転)。これまで凹部を紋様と捉えてきたヘラ描き流水紋のモチーフについて、このように捉えることによってモチーフのバラエティと型式学的連続性に不都合を生じさせないかどうかは、未検討である。

■ 4. 近江周辺の弥生土器の施紋順序と
「削り出し段・突帯」「ヘラ磨き」の意味

  • 前章の作業仮設を念頭において、近江周辺の前期から中期前半の弥生土器を施紋と調整の順序に注意して見直すと、これまで説明することが難しかったさまざまな事例を、浮線手法と見ることによって説明することができるようになる。
    • 小津浜遺跡の逆段
      • 頸部段において下部を削り込むことは遠賀川系土器独特の慣習であるから、中部地方により近い滋賀では、段施紋が浮線手法の本来に立ち返って、遠賀川系の慣習を逸脱することができたと考えられるかもしれない。
    • 朝日式広口壷の頸部紋様帯を画す段
      • これまであまり注目されてこなかったが、紋様帯を削り出して画する発想は、浮線手法と同じ。朝日式の場合にも、小津浜遺跡と同様の逆段が見られるが、このことも上記と同様に説明できる可能性がある。
    • 貝田町式細頚壷の紋様の施紋順序
      • 複帯構成の櫛描紋帯を太い沈線で区画し、無紋帯をヘラ磨きする順序が浮線手法と同じ。ただし、削り込みが省略される。このように考えることで、櫛描紋帯に重ねられる縦位の直線紋、波状紋、弧状紋、短線紋などは、擬流水紋の扇形紋と同様、流水紋の反転部表現の名残と捉えられる。
    • 和泉地方の太細併用沈線、およびヘラ櫛併用紋様。
      • やはり紋様帯を太い沈線で区画する、あるいはさらに太い沈線で無紋部の凹部を表現する点で、浮線手法と似た発想が感じられる。
    • 河内・大和地方の櫛描紋間の暗紋状ヘラ磨き。
      • 上記の太い沈線がヘラ磨きに置き換えられたと考えれば、和泉地方と同様のことが考えられる可能性がある。
    • 以上の、これまで由来が不明だった紋様・調整は、浮線手法における沈線施紋後の凹部削り込み・ヘラ磨きが痕跡器官的に残存したものと見ることで、説明することができる。
  • この結論は、佐原氏が一系統で説明してきた近畿地方の弥生前期から中期前半の土器の重要な部分に、北部九州に成立した遠賀川系土器とは異る、中部地方の浮線紋土器の要素が混在していることを意味している。
  • しかし、西日本の広い範囲に見られる段、削り出し突帯、順番型施紋の沈線が、西日本の東端に位置する遺跡で推定したのと同様、すべて浮線紋に由来を求められるかどうか。この点が、発表者が示した仮説の当否を決する重要な課題の一つである。

■ 5. 土器変化の記述についての新たな開拓領域として
(結論にかえて)

  • 佐原氏が提示した弥生時代前期〜中期前半の土器紋様の系統的な説明に対し、後続研究者はいくつかの批判を行った。しかし、大勢として、佐原氏が示した土器の時期的順序に改良を加える必要がなかったため、彼らの批判は重要であったが論点が焦点を結ばなかった。発表者は、烏丸崎遺跡下層と小津浜遺跡の土器観察をきっかけに、中部地方に由来する浮線手法に基づいて説明することにより、これらの批判によって示された事実を組み込んだ系統的説明ができると考えた。そればかりか、これまで説明することのできなかった要素も説明できる可能性があることを示した。
  • しかし、西日本の広い範囲に分布する削り出し段、削り出し突帯、順番型施紋の沈線のすべてを中部地方の浮線紋から説明しなければならなくなった。この点は大きな課題である。
  • 最後に本発表の最も重要な論点として、異型式間の相互影響をいかに記述できるか、という課題があることに注意を喚起したい。本発表では、外見が全く異なる浮線紋土器と遠賀川系土器との間に、系統的に関係する部分があることを記述しようと試みた。その検討作業はまだ不十分である。
  • 従来、近在の(時には遠方の)土器の影響を推定したケースでは、相互の部分的類似点から見通しとして推測することが多かった。それらが他人の空似でなく、系統的な関連のもとにあると確定するには、どのような説明が必要か。定方向的で不可逆な性質を持つ時間的側面の変化とは違い、不定方向的で可逆的(相互的)な性質を持つ地域的側面の変化は、複雑かつ多様でありうる。この変化はどのように記述されるべきか。今回の発表はそのささやかなケーススタディとしておきたい。

参考文献

  • 石川日出志 1985「中部地方以西の縄文時代晩期浮線文土器」『信濃』37-4
  • 井藤暁子 1983「近畿」『弥生土器』 I (ニュー・サイエンス社、初出は『考古学ジャーナル』112)
  • 伊庭功 2002「弥生時代前期から中期前半の土器」『小津浜遺跡』滋賀県教委、(財)滋賀県文化財保護協会
  • 今里幾次 1959「播磨弥生式土器の流水紋について」『兵庫考古』3
  • 江坂輝弥 1957『考古学ノート』2 先史時代(II)
  • 國分政子 1998「赤野井湾遺跡出土の有紋浅鉢について」『赤野井湾遺跡』滋賀県教委、(財)滋賀県文化財保護協会
  • 佐原真 1967「山城における弥生式文化の成立」『史林』50-5
  • 佐原真 1983「流水紋」『日本の紋様 水』光琳社
  • 田畑直彦 1997「畿内第 I 様式古・中段階の再検討」『立命館大学考古学論集』 I
  • 中村健二 1991「近畿ブロック」『東日本における稲作の受容』
  • 深澤芳樹 1989「木葉紋と流水紋」『考古学研究』36-3
  • 藤田憲司 1982「中部瀬戸内の前期弥生土器の様相」『倉敷考古館研究集報』17
  • 豆谷和之 1991「前期弥生土器考」『唐古―藤田三郎さん・中岡紅さん結婚記念―』
  • 山崎純男 1980「弥生文化成立期における土器の編年的研究」『鏡山猛先生古稀記念古文化論叢』

■ 発表後記

今回の発表は、いまだ思いつきの域を出ていません。しかし、このことを発想してからおよそ3年。何人かの方に小出しにしながら、この考えをどう思うか聞いてみたことはあっても、まとまった意見として発表を試みたのは初めてです。遠賀川系土器に東日本の要素を見出す試みは、他にも何人かの方がトライされていますが、それらに比べて私の発表がどれだけ踏み込めているか。発表を終えてからふりかえると、なんとも心もとないです。

思いついたときにはかなり興奮しましたが、さて、それを的確に記述し結論できるまでにはまだ少し時間がかかるな、というのが素直な感想です。資料の収集と検討が不十分であることはもちろん、このような現象をどう料理すべきかという最も重要な点について、考えが練れていません。理詰めで考えることも、もちろん重要(不可欠)です。しかし、迷ったときには「もの」にあたろうというのが、私にとってもっともうまくすすむ方法。

いつ完成することになるかわかりませんが、今回の発表はそのことを再認識させてくれました。

参加者の皆さん、ご静聴、多謝!

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