2003/05/10 第4回 Res: もの研究会

転用の可能性の条件
コメントは流転する(2)

コメント: 佐藤 啓介

以下は、2003/05/10 第4回Res: もの研究会「転用−ものは流転する」に対する中井淳史氏のコメント、さらにそれへの中谷礼仁氏のリコメントに対し、佐藤啓介氏が寄せたコメントです。

■ はしがき

ものが流転するならコメントが流転しても文句は言われまい、ということで、中井さん、中谷さんのコメントに続けて、ちょっと気軽な短文を記させていただきます。

ただし、私の短文は第4回研究会「転用」への直接的なコメントというよりは、お二人のコメントに触発されて浮かんだ派生的な文章です(もちろん、第4回研究会での議論を踏まえたものであることは言うまでもありませんが)。この触発の仕方は、朽木さんが研究会の中で分類された「流用」の諸相概念を拝借すれば、「転用」や「折衷」よりは「新型式の生成」に近いかもしれません。なので、別に中井さんや中谷さんだけに向けて書いているわけでもありません。むしろ、他の人へのキラーパスです。

中井さん・中谷さん(特に、中井さんによる朽木さんへのコメント箇所)で焦点となっていたのは、「本来性 authenticity」あるいは「本来的な用法」という概念でした。私もまた、ここから話を始めることにいたしまします。いささか哲学者カントの用語(アプリオリ、アポステリオリ、可能性の条件 etc.)が乱舞し、また、どこかしら形而上学的な匂いがしてしまいますが、そうした箇所は読み飛ばしてしまっても一向に構いません。

■ 転用のアプリオリ

まず何より、本来性という概念は、「本来的ではないもの」を同時に念頭におくことで(こういってよければ仮想敵国を立てることで)のみ、成立する概念であること。それは留意しておくべきだと思います。右が同時に左を前提し、左が右を前提するのと同様に。

「本来的/非本来的」とは、そのいずれかが先立つわけではなく、それらは同時に立てられる概念です。裏返して言えば、「非本来的なもの」なき「本来的なもの」は、わざわざ本来的という必要がないんです。そう考えると、「本来性」という価値は、「非本来的なもの」が認識しうる状態になって初めて付与されうる「事後的な」価値であることが理解されます。

従って、私たちが「その用途は本来的だ/非本来的だ」と言う場合、その両者を分ける「 / 」こそが、実は現象としてはまず先立っている。それは否定しようがないです。ここでいう「 / 」とは、さしあたり「何かと何かの違いを生む作用」(ここでは、ある用途と別の用途の違い)とでも定義しておきましょうか。

では、「 / 」はどこで生まれるのでしょうか?それは、私たちの「創造的発明」の能力に還元されるのでしょうか? 例えば、「この道具はあぁも使えるな」と発明する能力。

もちろん、そのような能力が発露して「 / 」が生成される場合もあるでしょう。しかし、多くの場合、そのような形での「 / の生成」は、実際には、それほど「発明的」ではないのが実情だと思います。何故なら、「この道具はあぁも使えるな」という言葉には、既に「あぁも」という用法が既知のものとして「知られてしまっている」からです。そうした発明は、根源的な意味での「 / の生成」とは呼べないように思えます。

確かに、例えば雨を避けるために使う傘を、杖の代わりに使った場合、「傘」という棒状の物体に限って言えば、「雨を避ける用途 / 杖の代わりの用途」という「 / 」が生成したかのようぬ思えます。ですが、右側は実は既に「杖」として知られてしまっていた用途である以上、とっくに「 / 」は生まれていたともいえるし、逆に、まだ「 / 」は生まれていないとも言えます。

「まだ『 / 』は生まれていない」という言い方は、全く新しい「 / 」が生成することによって未知の用法が生まれたわけではない、ということです。二つの用途は、もう既に知られていたのですから

他方、「とっくに『 / 』が生まれていた」という言い方は、先に私が述べたとおり、「本来的/非本来的」に先だって「 / 」があるということです。朽木さんの流用の四類型のうち、「転用」や「折衷」は、こうした場合に発生するのだと思います。既知の「 / 」が転用や折衷を可能にさせるという意味で、「 / 」は転用のアプリオリ(=転用に先立ち、かつ、転用を可能にさせる条件)です。

■ 転用のアポステリオリ

私は、中谷さんの「オリジナル」に関するコメントを、そのような問題に関係したものだと理解しました。引用しますと、以下のような箇所です。

> これはオリジナルをいかにそのままにしておきつつ、非オリジナル化するかという問題を解くことによって解決できます。
> その方法は、オリジナル(その物が作られた時)でさえも、何かの二次的用法にすぎないことをはっきりさせることです。...... 新しい空間を作っても、そこに用いられた、柱とか梁とか屋根とかという考えは、すでにはるか昔に作られているものなのですから。こう考えてみると、オリジナルですら、すでに考えられていた何らかのもののリファインということになります。それらは「課題」を通じてつながってしまっている。

とりわけ最後の箇所に、「『この道具はあぁも使えるな』という言葉には、既に『あぁも』という用法が既知のものとして『知られてしまっている』」という私の言葉を読み込んでも、あながち曲解ではないかと思います。

そう考えていくと、こうした(見かけ上の)オリジナルの場合、中谷さんが言われるとおり、本来的/非本来的という腑分けから逸脱し、その腑分けそのものがどうでもよくなってくることになるでしょう。何故なら、その場合、根源的な意味での「 / の生成」は起こってないのですから。つまり、「 / 」はとっくに生まれてしまっていたのですから。

その意味で、「二次的用法に過ぎないオリジナル」という状況を転用のアポステリオリ(=アプリオリでないこと)とでも呼んでもよいのかもしれません。私たちがおこなう転用(と呼ばれるもの)の大半は、恐らくこのアポステリオリな転用、つまり、既知の用途によって可能となる転用に属しているのでしょう。

こうした立場を極端にまで突き詰めた場合、「一切の転用は、(もちろん、物質的な用材性を満たした上で)既知の慣習によって可能になっている」という立場に行きつくのでしょう。これをコンヴェンショナリズム conventionalism とでも呼んでおきましょう。もちろん、「既知の慣習」には、「知らず知らずのうちに従っている慣習」も含めての話です(その意味では、「既知の」というよりは「既存の」ですね)。

■ 非人間的、あまりに非人間的

しかし、コンヴェンショナリズムには一つの盲点もあります。それは、一切のオリジナルを排撃してしまうことによって、コンヴェンションそのものの起源が説明できなくなってしまうということです。言いかえれば、転用のアプリオリである「 / の生成」の現場に立ち会えなくなってしまうのです。「 / 」はどこかで根源的な意味で生成したはずなのに、です。

なるほど、私は「転用のアプリオリたる「 / 」は、大抵の場合、既に生まれてしまっている」と述べました。他方で、根源的な意味では「 / 」はまだ生まれていない、とも述べました。が、「生まれない」とは言っていません。

では、その生成の現場をどのように考えるべきか。私はその現場をかねがね「Original Origin」と呼んでいるのですが、Original Origin を考えるのは難問です。「 / の生成」を捉えるためには、「 / 」によって区分される二つの異なる用途を知らなければいけません。例えば「さすための傘 / つくための傘」といった具合に。ですが、その時点に立ってしまうや否や、「 / 」そのものが生まれる現場は既に過ぎ去ってしまっているわけですから。

結局、「 / の生成」はどのように起こるのでしょう? もちろん、純粋に「創造的発明」の能力が発露されて、全く新しい用途が発案されることもあるでしょう(形而上学的に言えば、「自由の発露」)。ですが、私が思うに、実際には「ふと気がつけば、新しい用途を発案してしまっていたことに、後から気がつく」というのが実情であるように思えます。自由が発露してしまったことに後から気がつく、それが「 / の生成」の現場を捉える一つの在り様だと私は思っています(そして、だからこそ「 / 」を転用のアプリオリと呼んだのです)。

端的に言えば、転用の可能性の条件である「 / 」は、「気がついたら別様にも使えてしまっている」という形で、完了形によってのみその生成が捉えられるものだ、と思っています。

それは、ある意味で、人間からイニシアティヴを剥奪することにもつながります。確かに、別の用途を考案したのは人間なのでしょうが、考案した時点ではまだ意識の上にさえのぼってきておらず、気がついたら使ってしまっている。その意味で、イニシアティヴはむしろ「もの」の側にあると言っても過言ではないかもしれません。

そのように考えるならば、

> 登尾[=登尾 聡氏]に聞いた話によると、二次会の後で「もっと人間のプロセスを大事にしろ」という暖かい反応があったらしいのですが、その返答にもなっているかもしれません。

私はその場にいなかったので、「人間のプロセス」の内実を具体的に窺い知ることはできませんが、私は「もの」を研究する際には、むしろ「人間のプロセスからイニシアティヴを剥奪すること」こそが求めらる局面が存在するのではないかと思っています。それは、「人間のプロセスの自然化」とでも言うべき方向性です(自然化という語がしっくりこなければ、「ゼロ度」と言い換えてもよいのですが)。

「もの」を「客-体(ob-ject)」として、つまり、人間という主体(subject)によって対象化された「モノ」として扱うのではなく、むしろ、厳密な意味で、ものを主語(subject)に据えねばならないような局面。私は、中谷さんの「弱い技術」論や「都市連鎖」論などの中にも、そうした局面が現れているように思えました。何故なら、そこは、人間がモノを操るのではなく、意識もせずにモノにあわせて人間が働く(ないし働かされる)ような場なのですから。ましてや、都市のような巨大なもの(文字通り、「手に負えない」もの、「手に余る」もの)ならなおさらです。

うーむ、何だかいつも自分が言っていることを、一つ覚えのように繰り返しただけの気がします。なので「新鮮味がないよ」と思われた方がおられましたら、ごめんなさい。また、「人間のプロセスの自然化って、それはあなたが(語の文字通りの意味で)人間嫌いなだけじゃないの」とも怒られそうですね。

以上、私の関心に引き寄せる形で、コメント、というか、雑文を記させていただきました。あまりに私の関心に引き寄せすぎ、朽木さんの四類型を「転用」すれば、「文化的交雑性(ハイブリッド)」に欠ける気もします。さらにここからコメントが流転いたしますように。

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