2003/05/10 第4回 Res: もの研究会

中井コメントに答えて
コメントは流転する(1)

コメント: 中谷 礼仁

以下は、第4回Res: もの研究会「転用−ものは流転する」への中井淳史氏のコメント「もの研究によせる練習曲(エチュード)三題」に対して、発表者のお一人 中谷礼仁氏より寄せられたリコメントです。[ ]箇所は、編集側による補足箇所です。

[中井さんのコメントに対し]せっかくですから、何かかいてみたいと思います。

まず引用

> モノを道具として使うという意味で、その主体はつねにヒトではあるが、ヒトがつねに自由にコンテクストを付与できるわけではない。モノに導き出されるコンテクストを受け入れなければならない局面があるのだ。「弱い技術」論(そして、その発展形である several-ness <いくつか性>論)は、モノが主導的にコンテクストを決定し得る場へ道筋を開く可能性を提示してくれるのである。
> 転用論のなかでふれた、「本来的」・「規範的」-「逸脱的」という構図をここであらためて想起してみたい。「本来的」か「逸脱的」かは、モノがどのように使われるかというコンテクスト、つまりヒトの側から決定される。極端にいえば、ここにあるのはヒトの側からみた転用可能性のみである。しかし、「弱い技術」論ないし several-ness <いくつか性>論的な観点を採り入れることによって、モノの側に内在する転用可能性を視野に入れる余地がうみだされる。このような考え方は、ある局面においては、「本来的」・「規範的」-「逸脱的」の構図が必然的に抱える(文化的)傾斜性を脱することもできるように思われる。

オリジナル−二次的用法という腑分けをいかに逸脱するかは、当方の研究にとっての大きな要です。これはオリジナルをいかにそのままにしておきつつ、非オリジナル化するかという問題を解くことによって解決できます。前回のシンポ[=東京文化財研究所「うごくモノ」, 2002]でも、冗談めかしてちらっと触れたつもりだったのですが、もう一回強調しておこうとおもいます。

その方法は、オリジナル(その物が作られた時)でさえも、何かの二次的用法にすぎないことをはっきりさせることです。これは建築でかんがえてみれば、結構当たり前のことです。つまり新しい空間を作っても、そこに用いられた、柱とか梁とか屋根とかという考えは、すでにはるか昔に作られているものなのですから。

こう考えてみると、オリジナルですら、すでに考えられていた何らかのもののリファインということになります。それらは「課題」を通じてつながってしまっている。これに気づいたのが、G. Kubler でした。「時のかたち」[=Georges Kubler, The Shape of Time: Remarks on the History of Things, Yale U. P., 1962]という本はそういうふうに有史からの事物を眺めると、人間社会はどのようにできているかを極めて魅力的に描いたものです。

しかしまたまたここから「課題」がでてきます。この課題は、登尾[発表者のお一人、登尾聡氏]に聞いた話によると、二次会の後で「もっと人間のプロセスを大事にしろ」という暖かい反応があったらしいのですが、その返答にもなっているかもしれません。

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