2003/01/19 第3回 Res: もの研究会 「ものとしての装飾」

製作のユートピア、あるいは、ユートピアの製作
une utopie de faire, ou faire une utopie

コメント: 佐藤 啓介

はじめに
1. mimesis (模倣)
2. poiesis (製作)
3. u-topica (ユートピア)

以下は、2003/01/19 第3回Res: もの研究会「ものとしての装飾」において、鶴岡真弓氏がおこなった発表「「装飾/文様」 −その近代研究史における意味づけと「表象」」に触発され、佐藤啓介氏が後日記したコメントです。

■ はじめに

第3回もの研のテーマは「ものとしての装飾」でした。「装飾」がメインテーマとなっていた研究会の発表に対し、「製作」をキーワードとするコメントを付けるのは、ある意味で、逸脱したことかもしれません。

しかし、鶴岡氏の発表の中で私が一番刺激を受けた点 −文字通り、触発された点− は、まさに「装飾を製作するとは、どのような行為なのか」という、その捉え方にありました(言うまでもなく、それ以外にも多々触発されましたが)。そして、その捉え方は、装飾の製作に限定されない、より広い射程を有しているように思われました。そこで、鶴岡氏の発表に対する「誤読」という不遜な危険をあえて恐れず、「製作のユートピア、あるいは、ユートピアの製作」と題して、短文を記させていただくことにしました。

■ 1. mimesis (模倣)

私たちは、日々、様々なものを製作しています。もちろん、その中には、装飾の製作も含まれるでしょう(女性には最も身近な装飾(?)である「メーク」に至るまで)。

さて、その製作行為は、様々な影響が働いた結果です。例えば、製作する人の身体的技能や、製作に使用する道具の物理的機能、製作に用いられる材料の持つ材質的性質など、一次的な「物質」の影響。はたまた、製作の身体的身振りを規制する、文化的-社会的-歴史的 etc. な「規範」の影響。さらには、その規範にも関連しますが、製作者が持つ(世界観にまで連なるであろう)心的な「イメージ」の影響。

さて、そのように「様々な影響の結果」として製作行為を捉えるのは、至って一般的に見られる考え方でしょう。そして、そうした前提に則って、私たち、「モノの解釈者」たちは、「モノからそこに働いた影響」を解釈し、読み取ろうとしています。

とりわけ、最後に挙げた「心的なイメージの影響」を読み取ろうという態度は、私たちが「実際に製作された視覚的イメージ」を扱う際、強固な前提となっているように思われます。いささか単純化すれば、「製作者を取り巻く「世界」について、製作者が持つ「世界観 view」が表現されたものが、視覚的なモノだ」と(世界という語に馴染めなければ、「事物」とか「事柄」とか、あるいは「何か」などに置き換えてもかまいません)。文字通り、「表象 re-presentation」=「二度目に現れること(or 現れるもの)」という語こそが(1)、その前提を否応無しに具現化しています。

■ 2. poiesis (製作)

しかし、鶴岡氏は、そうした(表象論的)製作観の背後に、三つの暗黙の前提を読み取っているように思われます。

  1. 「世界についての世界観があり、その世界観が(どれほど不透明であろうが)実際に表現される」という、表象過程の「一方向性」
  2. 「世界があり、それについての世界観がある」という、「静的な存在の支配」
  3. 「世界としての的表象」という「眼の隠喩」が突出する「心と眼の優位」

他方、鶴岡氏は、これら1〜3の前提には還元されない表象観を提示しています。それは、鶴岡氏が表象の「三項関係」を以下のように「双方向的」に捉えようとしている点に見て取れます(以下、青字による引用は鶴岡氏の発表資料 5. 表象より。強調もそのまま)。上が1〜3の前提に則る図式、下が鶴岡氏が独自に付け加えた図式を示しています。

  • 何らかの事物・事柄の「存在」 → 心的な表象の存在 → 実際の表象
  • 何らかの事物・事柄への認識 ← 心的な表象への接触 ← 実際的な表象の製作

そして、そうした「表象の双方向性」を確認した上で、表象を、次のように定義しています。

そこに実際的に現された表象は「実際の事物」を契機に促された、人間の「認識や意識による志向」をささやかに告げているものに過ぎない。しかしこの「告げている」ことが、わたしたちが「世界」にたいして、ほかでもない、いまここで「志向」しはじめましたということの「兆候」であり、「痕跡」なのである

なるほど、私たちは、既に「存在する」事物を見て、その「見た」ことを「出発点」として、何らかの実際の表象を製作するでしょう。しかし、それは、従来の1〜3の前提に基づいた製作観の下で理解されてはいけません。つまり、事物→認識→製作という「一方向性」、存在する事物と存在する認識という「静的な存在の優位」、見ることで生まれる認識という「心と眼の優位」という三つの前提です。

鶴岡氏の叙述においては、確かに実際の事物は製作の「きっかけ」にはなるものの、あくまで「きっかけ」であることに注意すべきでしょう。むしろ、それをきっかけにして「実際の表象(=モノ)を製作すること」こそが、「心的な表象への[into]接触」を生み、最終的には「実際の事物[=世界]への認識」を生むのです。「まず最初に世界観がありき」ではなく、「最後に(あるいは同時に)世界観がありき」なのです。だからこそ、表象が「「世界」にたいして、ほかでもない、いまここで「志向」しはじめましたということの「兆候」であり、「痕跡」なのである」と定義されているのだと考えられます。

そのように理解するならば、先に私が整理した一般的な製作理解の三つの前提に対応させる形で、鶴岡氏の製作理解を、以下の三つの特徴によって整理することが許されるのではないでしょうか。

  1. 「世界を契機にして促された製作行為が、翻って、世界への認識へ回帰する」という、表象過程の「双方向性」(cf. 一方向性)
  2. 「世界観へと接触し、世界へと認識するようになる」という、「動的な行為の支配」(cf. 静的な存在の支配)
  3. 「製作による世界観への接触」という「身の隠喩」が突出する「身と手の優位」(cf. 眼と心の優位)

いささかコントラストを強調しすぎた観もありますが、私自身は、まさにこうした製作理解にこそ、大きな触発を受けたのです。

■ 3. u-topica (ユートピア)

第3回のもの研での質疑応答では、こうした製作論的な事柄はあまり主題とはならず、むしろ、イメージの意味論の箇所が焦点となっていた記憶があります。しかし、例えば、このような製作論を、その場に多く同席されていた考古学の分野にひきつければ、以下のようなテーゼにまで発展しうるのではないでしょうか。

土器などを製作し、文様を施すこととは、単に世界についての認識を「表現」しているだけではなく(単なる世界観の外化ではなく)、むしろ、世界に触発されたことによって土器を製作し始め、その製作という「身体的動作」の中で世界を「了解していく過程」なのではないか(世界のダイナミックな内化ではないか)。端的に言えば、「製作を通じて世界へと関係付くこと」である(2)

また、このようなテーゼをより一般化し、ある意味で哲学的な水準に高めることが許されるならば、私は、昨年逝去された市川浩氏の概念を転用し(3)、以下のように述べたいと思います。

何かを製作することとは、世界を《見分け》たり《言分け》たりするのとは異なった、世界を《身分け》る一つの出来事である

と。常に「認識論 epistemology」や「意味論 semantics」の地平から足が離れられない私にとって、何よりも触発の源泉となったのは−それは、ともすれば、私の勝手な誤解に基づくものなのかもしれませんが−、まさにこのような「視覚(見分け)や言語・意味(言い分け)とは違った、身体的行為(身分け)による世界了解/非了解」という考え方でした(4)。市川浩氏の考える身分けの基本性質とは「分節化 articulation」という点にありますが、それはまさに、鶴岡氏の文様論の言葉に対応づけるならば、「カオスにオーダーのしるしをつけていく」ことだと言えるでしょう。

もちろん、冒頭で述べたとおり、製作行為には、物質的影響・身体的影響・規範的影響など、様々な影響が及んでいます。その点を考慮するならば、製作が純粋な「身分けによる世界了解」である瞬間など、おそらくは存在しないでしょう。のみならず、そもそも、そのような「身分けによる世界了解」という出来事が発生すること自体について、より厳密に、そして、より粘り強く、その可能性の条件を思惟する必要があるでしょう。その意味で、「製作による世界への認識」という考え方は、依然、製作にとって、どこにもない場所(ひょっとすれば、ありえない場所)にとどまっているかもしれません(5)。その意味で、それはまだ、製作のユートピアです。

しかし、その思惟が完遂した暁には、製作行為は、「それによって世界への認識が生まれる出来事」としての地位を獲得することになります。「既に在る世界についての認識」によって始まるモノの製作ではなく、モノの製作によって始まる「まだなかった(=知らなかった)世界についての認識」。約言すれば、「『モノ』の製作による『いまだない世界』の製作」(6)、まさにその行為を「ユートピアの製作」と名指すことで、「触発」(誤読?)の産物たるこの小論を閉じることにします。

une utopie de faire, ou faire une utopie ... ?

  1. "representation" を「二度目に現れること/もの」という形で理解し、その問題性を突いた思想家として、ミシェル・アンリの名前を挙げておきます。Michel Henry, "La méthode phénoménologique" Phénoménologie matérielle, PUF, 1990, esp. pp. 126-127. 「二度目に現れること/もの」の背後で、「一度目に現れること/もの」は無限に逃れ去ってしまう、そこにこそ、アンリは表象には還元し得ないもの(アンリはそれを「生 Vie」と呼びますが)を思惟する必要を見て取っています。
  2. 無論、こうしたテーゼを前にして、考古学に携わる人々は、様々な異議を提起されることでしょう。併せて、方法論的疑問として、「仮にそうだとしても、では、それをモノから読み取れるのか?」という問いを発する人もおられるでしょう。その問いは、至って正当なものです。が、ここでは、そうした「方法論的問題」は差し当たって度外視し、すなわち、その正当化の手続きの提示や、況や、すぐにでも転用可能な方法論の提示を行なうことを目指すのではなく、その手前において、「モノを巡る思惟」の次元を拓こうという意図の下、論述をおこなっている点、ご了承ください。
  3. 「〈身分け〉は、身が主題的、または非主題的に世界を身で分節化するとともに、身が世界を介して潜在的に分節化することを意味する」(市川浩, 『身体論集成』, 岩波現代文庫, 2002, p. 58)。市川氏の場合、「身-世界間の相互性」という論点も見逃せません。
  4. こうした触発を受ける素地は、【letters】もの研往復書簡: いば−さとう編において交わされた、いば氏との10通にわたる書簡に、既に存在していたと言えます。いば氏が繰り返し、かつ、慎重に提起された「認識に先立ち、認識を可能にさせる根源的な身体的経験」の重要性とその豊穣性という論点は、明らかに、ここで私が議論を組み立てる際の参照項となっています。
  5. ユートピア(utopia)とは、もともと、ギリシャ語の "u-" (否定を意味する語)+ "topos" (場所)、すなわち「何処にもない場所」を意味する語。
  6. 「世界製作 world-making」という表現を用いる際、私が念頭に置いているのは、哲学者のネルソン・グッドマンです。Nelson Goodman, Ways of Worldmaking, Hackett Publishing Co., 1978. ただし、グッドマンの言う「世界製作」と、ここで用いているそれとは、大きく内実が異なりますが(グッドマンにおいては、まさに「心と眼の優位」が露骨なまでに顕著です)。

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