2003/01/19 第3回 Res: もの研究会 「ものとしての装飾」

「読み取れない」とはどのようなことか

発表者: 井上 一樹

以下は、第3回研究会での井上氏の研究発表です。発表した内容を、後日、井上氏が加筆・修正の上、文章化してくれました。画像は、当日のレジュメからスキャンしました。

□ 発表者からのお詫びとお断り

前回、発表させていただいたものは私にとっての出発点というべきものであったことを、まずはお断りさせて頂きます。それは、具体的には二つの意味においてです。まず、レジュメの体裁は、もの研究会の主催者でありこのホームページの管理人でもある佐藤啓介さんの体裁をほぼ完全にパクっていることです(このことは一言発表の場で断っておくべきだったこと、ここに佐藤さんにお詫び申し上げます。ごめんなさい。)。ここに私のオリジナルは無く、自分のオリジナルへ向けて、という意味で私の出発点に過ぎません。もう一つは参考文献が一つも無かったことです。今回は私の勉強不足(というより無知)な頭一つで組み立てましたので参考にした文献はありませんでした。つまり、今回は私の頭のみであったという意味で、これは今後思考していくための出発点に過ぎません。以上の二点についてお断りならびにお詫び申し上げます。

なお、本発表の内容は、修士論文において提示した問題の一つでもあります。今回、修士論文執筆中に発表の場を提供していただき、また様々な刺激を与えてくださった中井淳史氏、佐藤啓介氏、鶴岡真弓氏に感謝申し上げます。また、発表時には、その後の質疑応答において、内容があまり伝わらなかったことは、ひとえに私の理解自体が不十分であったことを意味しており、大変申し訳なく思っております。ここでは、改めて自分の論点を明確にすべく若干内容をスリム化していることをお断りしておきます。

それでは、以下に目次と発表要旨を記した後、レジュメ掲載文を口頭調にして記していくことにします。

□ 発表要旨

我々はしばしば「そのモノが何であるのか」という問いに対する答えを拒否される事態に出くわす。私にとって、古墳時代の日本列島を中心にして創り出された一種独特の文様である直弧文もその例外ではなかった。直弧文は、その不可思議な印象も手伝って、先行研究において様々な解釈、分析が行なわれてきた。それらの解釈は主に、この文様が何を意味するのか、という問いに対して向けられてきた。それはすなわち、解読不可能なものを何とか自分たちに読み取りうる意味へと変換していく作業であった。本論では、そうしたモノを読み取るという行為について文様を中心に考え、読み取るという行為のしくみを捉えてみたい。

まず、第1部では、文様を読み取るという行為に注目し、その特質を浮彫りにする。次に、第2部では、モノの存在に注目することで、文様のもつモノとしての性質を探る。そして、第3部では、モノの存在から浮かび上がってきたことを手がかりとしながら、読み取れるための論理を構築していく。

以上の検討を通して、「読み取れない」とはどのようなことか、という問いに答えてみたい。

  • Prologue:リンゴと猫の読みやすさ
  • 序論 本論の出発点
  • 第1部 読み取ることの問題
    • 第1章 「読み取れる」文様と「読み取れない」文様を分けるもの
    • 第2章 「読み取る」という行為の飛躍さ
  • 第2部 裸としての存在
    • 第1章 文様があるということ
    • 第2章 モノとしての存在の飛躍さ
  • 第3部 読み取れるための論理
    • 第1章 捉える
    • 第2章 動かす
  • 結論 「読み取れない」とはどのようなことか
  • Epilogue:リンゴと猫の読みにくさ

Prologue:リンゴと猫の読みやすさ

私の眼の前に三枚の絵が差し出された。一枚目に描かれているものは、一個の赤いリンゴである。二枚目に描かれているものは一匹の猫である。…簡単だ。非常に簡単。それは、何が描かれているかという問いかけに対する私の「読み取る」という行為に比べれば、これらはほとんど私の頭を悩ますものではないからだ。

が、三枚目の絵は、私を、私の「読み取る」という行為を、一切拒絶した。そこには、なにやら不可思議なものが描かれていた。私はホトホト困惑した。まったく読み取れなかった。私は自分の「読み取る」という行為が、あっけなく失敗に終ることがあることをここに経験した。

では、リンゴや猫を読み取ることがなぜ簡単なのか。リンゴや猫は、まさに我々の生活において、外在する対象として存在し関わっている。私は、それらの先験的知識として、それが身の周りで如何なるものとして位置付けられているのか、といったことに対する非常に具体的かつ豊富な情報を持っている。しかし、三枚目の絵に対して私はそのようなものを持っていなかった。

私はしかし、この「読み取る」という行為を三枚目の絵に対してなお働きかけた。すると、それが、おそらく「何らかの文様である」ということが言えそうな気がしてきた。そして、それは直線や弧線という線の融合したものとして構成されているものであるということも分かってきた。さらに、それは「直弧文」と呼ぶにふさわしい一つの特徴をもつものとして位置付けることもできた。…その絵が徐々に読み取られていくことで、私はそこに描かれているものが何なのかについての答えに到達するのではないかと期待した。

が、私の期待はまたも裏切られた。もはや、それ以上に読み取れるものがあっても、それが何であるのかの答えを求めることが無謀な試みであることを私は直観していた。リンゴや猫に見たものとは何か本質的に異なるものがあるのではないかと思わずにはいられない。同じ「読み取る」という行為であるにもかかわらず、三枚目の絵にスッポリと抜け落ちているものがあるのではないか…。いや、我々の「読み取る」という行為のなかにスッポリと抜け落ちているものがあるのではないか。

リンゴや猫は、私との関わりにおいて、もはや単なる「リンゴ」、単なる「猫」でもない。私はそれらに「おいしい」とか「かわいい」とか「ニャーゴ」とかいった修飾語を付けてそれらをより具体的かつ豊富な情報のなかに位置付けている。さらに言えば、そうして位置付けることが可能なのだ。私はそのような豊富な情報のなかに三枚目の絵もまた位置付けられると期待していたし、そう信じていた。そうして「読み取る」という行為をしていたのである。しかし、リンゴや猫に対する修飾語が私との関わりにおいて付加された属性ゆえに目に見えないものである以上、三枚目の絵からは決して「読み取れない」ものであった。たとえ如何なる角度から眺めようとも。

私は、絶望的なまでに一切が闇のなかに包まれていることを自覚した。と同時に、リンゴや猫が如何に読み取りやすいものであるかということもまた自覚した。

■ 序論 本論の出発点

古墳時代の日本列島を中心にみられる直弧文は、私の研究対象の一つです。まずは、直弧文の一般的説明として『岩波日本史辞典』から、その説明をみてみましょう。

直弧文直弧文:直線や弧線で重なりあう帯を表現した古墳時代独特の文様。貝輪、刀装具、靫などの器物のほか、埴輪、石棺、石障など埋葬に関わる備品や施設に施されることが多く、辟邪などの呪術的な役割を果した文様と考えられる。刀装具や石棺・石障の直弧文はX字形の軸線のまわりに帯がめぐるという構図上の法則が認められるが、埴輪や鏡などでは簡便化したものが多い。弥生後期から終末期にはこれらに先行する図文があり、それらも含めて直弧文という場合がある。(永原慶監修『岩波日本史辞典』、岩波書店、1999年より)

以上のような説明が書かれてあります。この直弧文なる文様は、主に考古学の分野で研究されており、私も考古学に身を置いて研究しています。ここでは、以上の説明で直弧文の基本を押さえておくことにしましょう。

次に、本論において直弧文を考えていく上での出発点として何が我々に与えられているのか、ということを示しておきましょう。それは二つあります。一つは、ただ(作られた)文様だけがのこされた、ということです。つまり、我々が目にすることができるのは作られた文様のみであり、それを作った人(製作者)やその用途ないし意味を知っている人(情報提供者)もいない(死んでいる)のです。そして、もう一つは、ただ「読み取る」という行為だけがのこされた、ということです。つまり本論では、我々の「読み取る」という行為に焦点があてられているため、文様と対峙したときの我々の「読み取る」という行為を出発点に据えようということです。したがって、文様と、それを「読み取る」という行為以外に出発点として与えられているものは無いというところから、文様を読み取るということはどのようなことなのか、について考えていきたいと思います。ちなみに、文様を「読み取る」とは、文様を解読ないし解釈することと同義で使用していますので、あまりそれらの言葉の違いには言及しておりません。

それでは、第1部に入っていくことにしましょう。

■ 第1部 読み取ることの問題
〜〜 「読み取れる」文様と「読み取れない」文様を分けるもの 〜〜

第1部では読み取ることの問題について考えてみます。ここではまず、読み取れる文様と読み取れない文様について、両者を区別する基準について考えてみたいと思います。まず読み取れる文様として一例あげます。それはマリエラ・モスラー氏の「月」というタイトルの作品です。この作品の下には以下のような解説が付いていました。少し長いですが、以下に引用しておきましょう。

マニエラ・モスラー "月"今回の作品は毛髪をつかった装飾文様で、いくつかの意味がこめられている。まず時間である。例えば砂の作品では文様を制作するのにたいへんな時間がかかるが、完成した作品には制作に要した時間がこめられているというわけである。毛髪で文様を制作することは実際長い時間がかかるが、それはレース編みをする女性の時間を連想させる。第2に女性の商品化である。使われているのはアジア人女性の毛髪だがアジア女性の毛髪はヘアピースなどに使われるために西欧が輸入している。黒い髪の毛は染められ西欧女性の頭につけられる。毛髪には成長するまでの時間がこめられていて記憶を象徴すると同時に、生命力や性を象徴する。そのような個人的なものがいとも簡単に売られてしまうことは、西欧のアジア女性の侵害ではないだろうか。第3に装飾の復権である。20世紀のはじめに近代主義が唱えられた際に装飾は余計なものとして排除されてしまった。その典型がバウハウスであり、シンプルな建築、デザインがモダンとされるようになった。装飾は女性的であると断罪するものさえいた。しかし装飾には長い歴史がある。装飾は個人や特定の共同体に属するのではなく共同体や国境を超えて世界中に拡散していった。装飾にはサインはないが強靭な生命力をもった真にユニバーサルな存在である。(fujikawa gallery/next "EMPATHY: Art, Gender and Politics" 2002年より)

以上のような説明が書かれており、これによって、この文様が持つ意味を我々は把握することができます。

なお、ここで一つ「読み取る」という行為を、その視覚性によって二つに整理しておきたいと思います。つまり、視覚的解釈と非視覚的解釈に分類します。視覚的解釈とは、外形や構造など直接文様を見て分かることです。例えば、直弧文は直線と弧線によって構成されているとか、浮彫り表現であるとか、幅は○○pであるとかいった類です。一方、非視覚的解釈とは文様それ自体からは読み取ることができないものです。例えば、直弧文は呪術的な意味をもつとか、権力の象徴としての意味をもつとかの類です。別言すれば、視覚的解釈は文様の内側に依存し、非視覚的解釈は文様の外側に依存する解釈であると言っていいでしょう。そして、ここでは非視覚的解釈に焦点を合わせています。

さてさて、話が少し遠回りしましたが、マリエラ・モスラー氏の「月」という作品は、上記のように読み取れる文様の一例なわけです。が、ここで一つ注意すべき点があります。それは、「読み取れる文様」とは、文様それ自体から読み取ったものではない、ということです。つまり、「月」が読み取れたのは先験的知識を獲得できるものだからであり(この場合は解説のおかげです)、それが無ければ「月」もまた読み取ることはできないのです。読み取るために必要な先験的知識は、文様それ自体からは獲得し得ないものである以上、読み取れる文様は読み取れることに対する文様の非主体性を示しているということができると思います(なお、私の言う先験的知識とは、あらかじめ経験的に知っていることがらを指します。その中身は、具体的な固有名詞からはじまり、感情やアナロジーで結び付けられるものから、あの丸いかたちの赤いもの、といった抽象度の高いものまで広く捉えています。また、ここで言う非主体性とは、主体とされているあるモノが、他のものとの関係において、自発的な決定をすることができない、いわば受け身の方向にある状態ないし状況を指します)。

改めて整理しましょう。先験的知識を持っていれば、「読み取れない」文様は「読み取れる」文様になります。このことは、直弧文でさえも、先行研究や先ほど記したような辞書からの先験的知識を得て、「読み取れる」文様となることを示しています。しかし、それら「読み取れる」文様は、文様それ自体から読み取れるものではない、ということです。つまり、「読み取れる」ための素地は文様の外側に依存しているのです。

では、文様それ自体とは一体何なのでしょうか。読み取るという行為を発信する我々に対して、文様それ自体は如何に捉えられるのでしょうか。

■ 第2部 裸としての存在
〜〜 文様があるということ 〜〜

第2部では、文様それ自体に焦点を合わせ、文様のもつ性質について考えてみます。さて、文様とは我々に対峙するものとして存在していることは大前提ですが、そもそも文様がある(存在している)ということをどのように捉えたらよいのでしょうか。果たして文様はモノなのでしょうか。文様を我々が認識するときには、その文様を見たり触れたりします。そうして、そこに文様がある(存在する)と捉えることができます。しかし、文様はそれのみで我々の目に触れることはできても、文様それのみで我々に対峙するものとして存在することはできません。つまり、文様はそれを施す対象に付与されるものであり、施す対象の存在が不可欠なのです。別言すれば、我々の目の前に存在する文様は、施すもの(文様)と施されるもの(施文対象)が重なり合った状況それのみということができるでしょう。なお、文様と施文対象の関わり方にはいくつか違いがみられます。例えば、直弧文のように施文対象(刀剣装具、石室内、埴輪など)が独立して存在する場合や、マリエラ・モスラーの毛髪による装飾文様のように施文対象(毛髪)とともに創出される場合などがあります。ともあれ、文様と施文対象の重なり合った状況においてのみ文様は存在を確保し得ることを押さえておきましょう。そして、このことは文様の存立基盤において、文様以外の、文様の影とでも言うべき存在としての、施文対象がその文様をモノたらしめるもう一つのモノとして存在していたことを示しているということができると思います。また、文様はその存在においてもまた施文対象を必要とするがゆえに非主体性を抱え込んだものである、ということもできましょう。

以上のように、文様それ自体の性質について考えてみたわけですが、このことが第1部で問題とされた我々の「読み取る」という行為といかにコラボレイトできるのでしょうか。文様の外側に依存している非視覚的解釈を、文様それ自体の性質を手がかりとしながら、文様それ自体(内側)から非視覚的解釈(「読み取れる」文様)を導き出す道があるならば、それはどのように考えられるのでしょうか。第3部では、出発点として与えられた僅かな素材から、どのような読み取れる論理を作ることができるのかを考えてみます。

■ 第3部 読み取れるための論理
〜〜 捉えて、動かす ...... 〜〜

第2部で示したように、文様と施文対象の重なり合った状況それのみとは、文様の存在としてのあり方を示しています。さらに言えば、文様と施文対象は相互に補完し合う関係、すなわち相補的関係性として視覚的にその存在を保証するものということができます。しかしながら、相補的関係性として捉えたものは、文様それ自体ではないことに留意しましょう。なぜなら、ここでは相補的関係を捉えたのであり、文様それ自体はその意味において必要条件ではあるが充分条件ではないからです。

さて、以上のように相補的関係性として文様それ自体(内側)から非視覚的解釈(「読み取れる」文様)へ至るいわば道標を示したわけですが、これだけではあまりに静的であり、これ以上の読み取れる道を切り開くには不十分です。そこで、少しでも先の道標を確保すべく、ここでは二つのことを提案したいと思います。まず、一つは相補的関係性を施文行為として捉えるということです。相補的関係性の相補的の中身とは、改めて言うまでもなく文様と施文対象であります。この両者が相補的となったのは、まさしく文様を施文対象に施した人の行為の結果であるということができます。つまり、ここで捉えた相補的関係性とは、施文行為にかかわるものとして、その行為を反映するものとして捉えることができると考えられるわけです。したがって、もはや消えてしまった亡き施文行為者の存在を反映したものとして相補的関係性を捉えることができるのです。これが道標の一つです。

もう一つは、考古学的作業としての時間づくりです。いくつもある直弧文資料は、互いの時間的前後関係をいまだ位置付けられていません。それが過去のモノであることは大前提としても、出発点としては時間的位置付けさえも持っておらず、時間づくりという作業は、個々の資料を動かしていくための道標とすることができるといっていいでしょう。この中ではじめて、文様と施文対象の関係が時間軸のなかでどのような状況を示すのかということが明らかになっていく、ということができます。

以上、詳しい説明は触れませんでしたが、読み取るという我々の動的行為に共鳴すべく、文様をいかに動的なものとして読み取っていくかという、その足がかりを述べさせていただきました。

〜〜結論はエピローグに代えさせていただきます。〜〜

Epilogue:リンゴと猫の読みにくさ

「読み取れない」ということに、その暗闇へ投げ出される恐怖から逃れようと、今まで何とか必死で読み取ろうと半ば反射的に反応していた私に、その素直さが孕む陥穽を突きつけた三枚目の絵…。

しかし、他方において、リンゴや猫が読み取れるものであることが、それによって一切の暗闇から解き放たれているものとして安住の地を得たということではないこともまた確かだった。なぜなら、何が読み取れ、何が読み取れないのか、ということの問題は読み取られる側に潜在的に含まれているものではないからだ。私が解釈を施すまでは、すなわち「読み取る」という行為をするまでは、読み取られる側はまだ何の問題も持っていないのだ。というより、それはまだ「読み取られる側」ですらない。

とすれば、「読み取れない」ということが示唆する問題は、「読み取られる側」には無さそうだ。もし「読み取られる側」に問題を孕むとすれば、我々の「読み取る」という行為に先立ってそれらは解釈されていなければならないからだ。私は「読み取る側」に目を向けた。もう少し言えば、読み取る側の読み取り方にもう少し意識的であろうとした。そう、あの絶望的に一切が闇に包まれてしまうことから回避するために。

しかし、私は同時に「読み取られる側」が「読み取られる側」として成立する前提としての存在にも目を向けた。そして、読み取られる側は、存立基盤として必要ではあるが、それだけでは充分ではないことに気づいた。ここに私は、如何に読み取れないのかを示すことによって、三枚目の絵が如何に読み取れるのかという余地もまた確保しうることを示した。もとより、それは文様それ自体を読み取ろうとすることではなかった。このことは、三枚目の絵のみならず、一枚目の絵や二枚目の絵、すなわちリンゴや猫ですら不安定なものとして扱われる余地が提供されることを教えてくれた。

最後に、私のなかに確かな実感としてあることを記してひとまず休むことにしよう。

「読み取れない」とは、読み取り方を自覚させ、かつ「読み取れる」ことへの批判を含むものであり、読み取った後の位置付けまでもが変更されうる余地を含む一つの知覚である。

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