2002/09/23 第2回 Res: もの研究会

織田信長の漆箱
−モノ・解釈・歴史叙述をめぐる二、三の省察−

発表者: 中井 淳史

以下は、第2回研究会において中井氏が発表された内容の要旨です。ただし、目次は、当日の発表のまま掲載いたしました。文献一覧は文末に掲載しました。

□ 要旨

日本考古学において「歴史時代」とは飛鳥・奈良時代以降をさし、その時代を対象とする考古学は「歴史考古学」と呼ばれてきた。「歴史時代」の歴史へアプローチするうえで、モノが特権視される必然性はない。「史」の字義が端的にしめすように、むしろ歴史叙述の主体となるのは言語史料である。モノを出発点とする考古学研究は、「歴史時代」の歴史へアプローチする局面において重大なアポリアに直面することとなる。モノを「読む」局面において文献史学などの関連諸分野といかに対峙するかという問題だ。本報告ではこうした問題意識にたって、歴史考古学研究におけるモノ・解釈・歴史叙述をめぐる緊張関係について省察を加えてみたいと思う。なお、本報告では解釈・歴史(叙述)という言葉を使用する。対象とするモノがなにかを理解すること、そして複数のモノをつなぎあわせてひとつの物語(narrative)を(究極的に)織りなすこと、考古学の作業と目的をさしあたりこのようにとらえたうえで、前者を解釈、後者を歴史(叙述)と便宜的に区別するものである。

  • Prologue:信玄の慧眼、信長の誠意
  • 1. モノを知る −モノと解釈のはざまで−
    • 1.1. 表象の伝達「不可能性」
    • 1.2. 「モノを知る」ことの二側面−見えないモノを見ようとして 顕微鏡を覗き込んだ−
    • 1.3. モノと解釈のあいだ
  • 2. モノ語る −「歴史叙述市場」(mercato storiografico)における諸分野の交差−
    • 2.1. 歴史考古学の必然?−考古学と文献史学の「競合」−
    • 2.2. 歴史叙述のマスター・コード
    • 2.3. 「歴史叙述市場」における等価交換
  • Epilogue:汝の差異を楽しめ

■ 1

武田信玄の事績を記した『甲陽軍鑑』には、織田信長から贈られた漆箱(小袖を入れる箱として使われていた)をみて、武田信玄が信長の意図を見抜くというエピソードが記されている。いぶかる家臣たちの前で、信玄は漆箱をけずってみせた。信玄は家臣たちに、断面からわかる塗りの丁寧さこそが、信長の誠意のあらわれだといい(当時、信長は信玄息女の輿入れを希望していた)、武田家に対する気持ちが本物だと説いた。信長は漆箱のほかならぬ塗り(何層にも丁寧に塗ること)に武田家を大事に思っているという意志をこめたものの、それは武田家中では信玄以外にはつたわらなかったという話である。モノに何らかの意味をこめることは今も昔もよくあることであり、一方で考古学研究者はこうしたモノにこめられた意味を読みとろうとする。この挿話は、モノに意味をこめる行為がもつふたつの側面をしめしている。すなわち、モノにこめられた意味ないし表象は、ロジェ・シャルティエも指摘するように(Chartier1997)、必ずしも完璧に伝達/共有されないということ、そしてモノにこめられた意味ないし表象を私たちがひとつの実証可能な(あるいは実証すべき)事実として理解するのと同様、それがつたわらなかったこともまたひとつの事実としてクローズアップされるということである。

「モノを知る」ために、考古学は主にふたつの方法をとる。ひとつはモノを徹底的に細かくみてゆく方法、もうひとつはモノとモノの関係性をさぐり、モノをあらゆるモノの体系のなかに位置づけて理解する方法である。両者は正反対ではあるが、より多くのことをモノに語らしめようとする点で共通する。漆箱の場合、前者の方法として塗膜分析(破片の断面を標本化し、顕微鏡観察するもの)が採用されることが多い。しかし、『甲陽軍鑑』のエピソードが語るように、箱をけずるまで信玄以外のだれもその質を見抜けなかったとすれば、「みえないモノをみる」塗膜分析のごとき方法(そして、それにもとづく解釈)は、表象という行為が作用として失敗する可能性を最初から取り逃がしてしまうことになる。このエピソードは、「モノを知る」局面において、私たちが試みる考古学的解釈の妥当性への本質的懐疑をも提起するのである。「みえないモノをみる」ということが、絶対的に正しいのかという懐疑を。

歴史考古学にかぎらず、日本考古学では「モノをして語らしめる」ことが学の要諦であった。「モノをして語らしめる」といっても、語る主体は私たちである以上、対象となるべき「モノ」に熟知していなければはじまらない。より多くのことを「モノに語らしめる」には、そのモノについてより多くのことを知らねばならない。したがって、「モノをして語らしめる」考古学は、必然的に「究極までモノを知ろうとする意志」を内包する。「みえないモノをみる」ことは、この枠組みに照らしあわせるならば無条件に正しいのだ。そもそも、このような問いかけが成立する余地がないということだ。

私たちの多くは、考古学を広義の歴史学とみなしている。史実(=考古資料)は通時的、共時的観点から整理され、物語(narrative)として織りなされなければならない。「モノ」があることを語るだけでは不十分であり、よって「モノ」に対して何らかの意味づけ(解釈)をあたえなければならない。「モノ」を知るということは、「モノ」を意味づける(解釈する)ことなのだ。これなくしては、(歴史学としての)考古学は成立しない。しかし、さきに確認したように、私たちが解釈として付与する意味の「歴史性」はあらゆる場合において保障されるとはかぎらない。私たちがより多くのことを「知る」ために試みる考古学的方法は、かならずしもあらゆる局面において有効ではないのである。かくして、試みる方法論を一端「括弧に入れる」必要が提起される。これは方法論や思考の枠組みに対する「反省」をせまるものであるが、容易なことではない。考古学研究者として考古学という枠組みを内部から反省することももちろん重要であるが、私は同時に(すくなくとも歴史考古学においては)、外部との交流から反省しなおす余地があると考える。ここで、他分野との関わりという問題がクローズアップされてくるのである。なお、他分野といってもさまざまであるが、以下では歴史(中世)考古学の発展の経緯をふまえて、とくに文献史学を想定して議論をすすめる。

■ 2

他分野とのかかわりという局面において、とるべき道はふたつしかない。積極的に吸収し、考古学研究の成果を文献史学によって構築された枠組みへリンクさせるか、そういった試みに対して距離をおくかのどちらかである。後者は、前者のような姿勢への批判的意味あいもあるが、とはいえ文献史学において積み重ねられた知識から完全に離れたところで研究が成立するわけではない。モノの「解説学」として歴史性の追及をいっさい放棄しないかぎり、考古学以外の学問分野の影響をいっさい排除することは不可能であり、歴史叙述へとふみこむかぎり、異分野との接触は避けられない。そこで問題となるのは、こうした接触の場、「歴史叙述市場」(mercato storiografico)において(Ginzburg and Poni 1991)、いかに行動すべきかである。歴史(中世)考古学をふりかえってみると、文献史学の側で史料をもとに紡ぎだされた言説をひとつのマスター・コード(複数の資料を解釈するうえで準拠する枠組み)として考古資料を解釈しようとする姿勢がしばしばみられた。しかし、こうした態度は大きな問題をかかえているように思われる。マスター・コードをとりかえることによって、同じ資料から異なる物語ができてしまい、議論の焦点が考古資料そのものにではなく、マスター・コードの優劣に収斂してしまうからだ。そして、それが文献史学の成果から持ち込まれたものだとすれば、文献史学の枠組みに考古資料を予定調和的に位置づけてしまうことになる。つまり、この種の議論は、コンテクスト先行型の議論であり、考古資料がそのコンテクストに異議申し立てをするかもしれないという可能性があらかじめおきざりにされてしまっているのである。その点において、考古学という学問的枠組み、あるいは学際性という観点からも大きな危険性をはらんでいる。文献史学によって構築された言説を無条件に考古資料の解釈のマスター・コードとしてしまう点で、文献史学の優位性を(むしろ無意識的に)認めてしまうことになるからである。「歴史叙述市場」において、文献史学の成果と考古学の成果は一見等価であるようにみえて、じつは等価では「交換」されていないのである。

中世考古学という学問分野は境界横断的だ。「不等価な」影響関係を完全に排除するといっても、文献史学などの成果は解釈のあらゆる段階で意識的・無意識的を問わず入りこんでおり、現実的には錯綜している。たとえそうだとしても、すくなくとも必要なのは、こうした学問をめぐる構造にまず意識的になることではないだろうか。考古資料に立脚するという立場にあって、まずよりどころとしなければならないのは、本来の学際性のもつ協業、つまり開かれた平等性であるだろう。そこで必要となるのは、予定調和的な立場ではない。個々の学問がつくりあげてきた方法論をふまえつつも、そのちがいや緊張関係をむしろ先鋭化させることだ。学際性の基本であるはずの協業を前提にすれば、予定調和的である必要はなく、むしろ安直な予定調和化こそ拒否しなければならない。

では、個人研究のレヴェルにおいてはどうあるべきなのだろうか。多かれ少なかれ他分野に精通するということは、複数の学問分野を整合的、調和的に理解することにほかならない。モノを語るという局面において、モノそのものを語ることと、複数のモノをひとまとまりとして語ることには当然ながら差がある。歴史叙述という観点からすれば、後者のほうがより抽象度(あるいは可塑性というべきか)が高い。考古資料と文献史学による言説が同じ俎上にあった場合、そしてより多くのことを語らせたいという欲求に私たちが立脚しているとき、後者へと引きずられ、それをマスター・コードとして考古資料=モノを包括的に語ろうとするのは、ある意味で理の当然なのだ。とするならば、必要となってくるのは考古資料と文献史学による言説といったレヴェルでの対比参照ではなしに、それぞれの史料レヴェルでの共存をはかることが重要である。つまり、ある歴史的な言説をつくりあげていくための材料、すなわち史料として、文献史料も考古資料も等価としてあつかうのである。第三者によってつくられた言説を引き合いにだすのではなく、文献史料のレヴェルから検討をはじめてある程度の見通しを得る一方で、考古資料からの検討から得られた見通しを同じ俎上にのせ、両者を徹底的に比較してゆく方法である。これが現状のところ、平等性を保持しつつ、境界を横断してゆくための最善の方法ではないかと思われる。

ただし、この方法はそれぞれの史料を熟知することが前提となるが、文献史学にせよ考古学にせよ、それぞれの学問の蓄積は多大である以上、あらゆる局面において有効であるとは思えない。実践としては、いくつかの問題に限定せざるを得ないだろう(中井2000・2001)。

■ 3

文献史学、考古学、美術史学……過去のモノないし事柄を明らかにすることを目標とかかげる学問分野はさまざまである。しかし、これら諸体系はほとんどの場合、人為的につくられたものである。一方で、私たちの目の前にあるのは、何らかの問題である。それは本来、人為的につくられた「垣根」とは無縁に存在するはずだ。

あるひとつの専門分野を選択した以上、それが制度として存在するために、私たちはその学問固有の方法や知覚にとらわれてしまう。これを脱せよというのは物言いとしては簡単であるが、実践としては難しい。だから、私たちは、それぞれが立脚する学問の矛盾対立が明らかになるようにあたらなければならない。予定調和的なまなざしではなく、それぞれの差異に目を向ける必要がある。それぞれがお互いにちがうということ、あるひとつの問題を解決するという意味では逆説的かもしれないが、その<差異>を自覚することこそが、問題を解決する鍵となるように思えるのである。

■ 参考・引用文献

  • 齋藤 晃 2002 「歴史の木理に抗して」(『民博通信』97、国立民族学博物館)
  • 中井淳史 2000 「武家儀礼と土師器」(『史林』83-3、史学研究会)
  • 中井淳史 2001 「16世紀地域社会における献盃儀礼−『長楽寺永禄日記』・『色部氏年中行事』を中心に−」(大阪外国語大学留学生日本語教育センター『日本語・日本文化』第27号)
  • 林みどり 2002 「テクストの空白を読む」(『民博通信』97、国立民族学博物館)
  • 福島克彦 1997 「城郭研究と考古学のあいだ」(帝京大学山梨文化財研究所編『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』第8集)
  • 藤原良章 1988 「中世の食器・考−<かわらけ>ノート−」(『列島の文化史』5、日本エディタースクール出版部)
  • 馬淵和雄 1997 「得宗・大仏・都市−鎌倉大仏造立と都市経営−」(帝京大学山梨文化財研究所編『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』第8集)
  • 馬淵和雄 1999 『鎌倉大仏の中世史』、新人物往来社
  • Chartier, R. 1997 "The Powers and Limits of Representation" in On the Edge of the Cliff; History, Language, and Practices, Johns Hopkins U. P.
  • Ginzburg, C. and Poni, C. 1991 "The Name and the Game: Unequal Exchange and the Historiographic Marketplace"(trans. by Branch, E.) in Microhistory & the Lost Peoples of Europe (ed. by Muir, E. and Ruggiero, G.), Johns Hopkins U. P.
  • 『甲陽軍鑑』(中)、戦国史料叢書4、人物往来社、東京、1965

△ page top