2002/06/23 第1回 Res: もの研究会

パンドラの箱の中にあったもの
− もの研究のはじまり −

発表者: 佐藤 啓介

Web版では、当日用いた原稿を、併せて5ページに分けて掲載しております。ただし、一部の注と図版を省略させていただきました。注は、各章(各ページではなく)の末尾にそれぞれ一括して掲載しています。

□ abstract

本発表は、我々がここ100年近くにわたって取り逃がしてきた、素朴な意味での「そこにあるもの」への《無関心な/無差別な in-different 眼差し》奪還することによって、《関心ある眼差し》を特権化してきた思考方法を問い直すことを目指す試論である。そのため、第1部では、認識論的表象主義に基礎を持ち(第1章)、主体-意味-言語の三一構造に極まるような《関心ある眼差し》は、「関心ある何かが見える」ために、最初からそれ以外の「関心ないものは見えない」構造を内包していることを論じる(第2-3章)。第2部では、無関心な/無区別な眼差しが、その起源において端的に示されるように(第4章)、受動的な相の下で発生する。そして、その眼差しが眼差すのは、ものがあるという端的な事実や(第5章)、意味に還元される以前のものの表層であることを解明する(第6章)。最終的に、ものを問う思考の意義が、《自己を排去すること》に帰着することを結論付ける。

■ Prologue: パンドラの箱の中にあったもの

私は、いつもいろんなものに囲まれている。朝、起きれば、いや、起きる前から、既に布団に囲まれ、机や本棚や家具に囲まれ、汚い部屋にちらかる塵や埃に囲まれ、狭苦しい部屋の壁に囲まれ、果てはこの肉体にさえ囲まれている。ものは溢れかえっている。

でも、私は、学問に従事する人間として、いや、学問を始める以前から既に一人の人間として、このものたちにいつも名前を与え、意味を与え、役割を与えている。これはノート。あれは本。それは新聞……同じ紙なのに――紙さえ、もう純粋なものではないけど――、全部違うものとして見ている。本を買ってページを開いたらただの真っ白なノートだったら、多分、私は本屋のお姉さんに文句を言うだろう。もし「同じ紙だからいいじゃん」などと返事をされたら、答える言葉さえ浮かばない。ともあれ、そうやって、あるものを特定のものへと分類しながら私たちは生きている。

それは研究と呼ばれる行為でも同じこと。というか、その名前と意味と役割を与えられたものを区分することで、それぞれの学問に境界線が引かれているといった方が正しいかもしれない。そのせいか、どこの学問でも、その名前と意味と役割の与え方にはそれぞれ決まった作法があるらしい。みんな、自分たちの研究対象を一生懸命「読もう」としている。

でも、私は、ちょっと飽きちゃった。その決まった作法に。さらには、名前や意味や役割を与えること自体に。視力が落ちたせいなのか、そうやって読み続けるのがちょっとしんどい。

そんなとき、ふとした風の噂で「読まなくてもいいもの」があることを知る。早速、私はそれを見に行った。それは、「パンドラの箱」と呼ばれる箱だった。この箱を開けると、私を苦しめてきた悪霊もたくさん詰まっているが、最後に、たった一抹の希望が、そう、読まなくてもいい「純粋もの」が残されているという話だった。私は、勇気を振り絞って、その純粋ものを見るべく、箱を開けた。途端に、「この箱の中身を読むべし」という脅迫じみた声が飛び出してくる。この声に耳を貸したら、箱の中身を純粋に見れなくなってしまう。「社会的に読むべし」「政治的に読むべし」「文化的に読むべし」「歴史的に読むべし」「宗教的に読むべし」「精神分析的に読むべし」「寓意的に読むべし」……そして、私は最後に出てきた「自己の反映として読むべし」という声を払いのけ、全ての声に抵抗した。ついに、「純粋もの」を目にする時がきたのだ。

私は、期待と不安を胸に、箱の中を恐る恐る覗き込んだ……。中には……。中には、何も無かった。そこには、「純粋もの」はおろか、何も、無かった。一切の希望は断たれた。

パンドラの箱の中にあったもの――そこには、何もなかった。

■ Introduction

私たちは、それぞれの研究分野ごとにそれぞれの仕方でものを読もうと、日々努力しているに違いない。あるいは、それぞれの仕方でものを製作している人もいるだろう。それが、皆、各自のなすべきことなのだから。では、あえてこのような研究会を開くことで、何故「別様にものを読む仕方」を考えようとするのだろうか。或いは、私がこだわっているように、何故いちいち「ものを読まない仕方」を考えようとするのだろうか。

先だって中井さんによる趣旨説明があったので、前者の「別様にものを読む仕方」については、ある程度の理解が得られていると思われる。私がこの発表で主として焦点を当てたいのは、後者、「ものを読まない仕方」である。無論、その問題は、前者の問題と全く無関係ではなく、本質的な点で共通性を持つ。こう整理することが許されるならば、もの研究会の根本的な動機の一つは「ものを一つの視点からのみ見る仕方」への懐疑である。さて、一つでないならば、複数かゼロか、そのいずれかである。「別様にものを読む仕方」とは、視点の「複数性」を意味する。そして、「ものを読まない仕方」とは、視点の「ゼロ度」を意味する。その視点の複数性とゼロ度がどう交わり、どう離れるのか、その考察は今後の課題であるとしても、両者には「単一視点性批判」という共通項を持つ。故に、「ものを読まない仕方」に関心のない方にも、それなりに聞いていただける内容になることを祈るばかりである。

本題に戻して、何故私が「ものを読まない仕方」について考えるのか。その理由を、極端にまで誇張して言えば、「近代的知のあり方への反省と批判」ということにまとめられる。もう少し詳しく言えば、我々がここ100年近くにわたって取り逃がしてきた、素朴な意味での「そこにあるもの」への「無関心な/無差別な in-different 眼差し」奪還することによって、「関心ある眼差し」を特権化してきた思考方法を問い直したい、それが私自身の関心である。いいかえれば、「視覚性に徹底してこだわりながら、ものをものとして垣間見ようとする試み」、それが私の探求である。別に、それがもの研全体の関心になる必然性も、そうしたいという欲求もない。そこにあるのは、哲学研究に携わる私自身の、ものへの問いなのである。

以下、発表の手順について説明を。先に私が述べた近代的知が云々といった大風呂敷な話が生まれた背景を説明するために、第1部では、近現代において、「もの」が「関心ある眼差し」にさらされるようになった経緯とはどのようなものか、否、私がここで「関心ある眼差し」と呼ぶものはそもそも何なのか、そうしたことを手短に説明したい。特に、近現代における多くの知のあり方を基礎づけている「認識論」、そして、それを踏まえて発展した「解釈学」という知のあり方を概略することによって、私が「関心ある眼差し」と呼ぶものの内実も理解できると思われる。続いて、その概略を踏まえ、実際に「物質文化研究」と呼ばれる領域において、ものがどのように関心ある眼差しによって研究されてきたか、その実像を眺めてみたい。

続いて、第2部においては、そのような「関心ある眼差し」を離れ、ものをものとして扱い始めた実例を、様々な分野から取り上げてみたい。具体的には、私を虜にした人たちの著作を通じて、「関心ある眼差しからの距離の取り方」を実験的に探ってみることを試みたい。この第2部を経た後、私はパンドラの箱に、そう、先ほどのプロローグで希望を挫かれたパンドラの箱に、再び目を向けてみたい。そう、関心ある眼差しではなく、極力「無関心な/無差別な眼差し」を。

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