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花守人




 祭祀者を失った小さな社。
 本殿といっても大地より僅かに高いばかりの、ほとんどあばら家といった具合の神坐。
 屋根の萱は既に乱れ、壁の漆喰も斑のように剥げ……床板すらも腐った箇所が目立ち始めている。
 ここは国主に反抗した惣村の名残。
 今はもう違う神がこの土地に坐し、新しく植え付けられた民を守っている。
 だからこの社を訪れる人はほとんどない。
 時折話題に上るのは恐ろしい化け物の話と、同じ位に恐ろしい怨霊の話だけ。
 この社はいつも気が狂いそうなほどの静けさの中に在った。
 けれど。
「……ねえ、桐都(きりと)」
 明け方の静寂を破ったのは少女の声。
「何か?」
 本殿の中から外をうかがっていた若い侍が視線を外に向けたまま声だけを返す。
「桐都は戻った方がいいよ」
 淡々とした少女の声に男……桐都允季(のぶすえ)は小さく息を吐き出し、後ろの少女を振り返った。
 目に入るのはもうとっくに慣れた、不思議な色彩の髪と瞳。
 甕覗の小袖の背に広がる、癖のないまっすぐな髪色を表す言葉を彼は知らない。
 ただぼんやりと頭に浮かぶのは赤と白の狭間に咲く花々の色。
 紫紺の空に映える青みがかった夜桜に野山を甘く彩る可憐な薔薇。
 燃え立つ恋の焔のような躑躅や雪に散る血飛沫の桃花。
 少女の髪はそれらの色すべてが様々な濃淡で混じりあった、不思議な色をしている。
「桐都?」
 不思議そうな光を宿す瞳も自分と同じ黒ではない。
 翡翠よりもずっと透きとおった、爽やかな翠。
 雨上がりの新緑のような色。
 花と葉。
 普通の人間では絶対にありえない色彩。
 知らず心和む自分に呆れつつ、桐都は視線を外へと戻してから口を開いた。
「人の心配より御自分の心配をなさりなさい」
 少し前に鶏が鳴いた。
 空もどんどん白み、彼の視界に映る風景も徐々にはっきりしてきている。本殿の中にかけた松明の灯が冴えないものとなりつつあった。
 逃げる者にとって夜明けは地獄のはじまり。
 逃げ慣れている訳ではないが、それでもそれくらいのことは分かる。
「桐都こそ自分の心配をしてよ。……叔父上に捕まっても、多分あたしは殺されない。けど桐都は駄目だ……間違いなく殺される」
 艶をまったく含まない、あどけない声音を愛しいと思う。
 その感情が自分をここまで駆り立てたことを言うつもりはないけれど。
「今ならまだ間に合うよ。叔父上はあたししか逃げてないと思ってる。それにさっきの追手も全部口止めしたでしょ?」
 そこで初めて桐都は切れ長の瞳を見開いた。
「それでさっき……」
 この社殿に逃げ込む前、十数人の追っ手に見つかった。
 桐都は自分たちに向かってきた輩だけを屠ろうとしたが、少女の方は背を向けた連中を追ってまで斬り殺した。
 深追いするな、という自分の声を無視して。
 少女の腕を信じていないわけではなかったが、戦において必ず数は質を凌駕するもの。もっとも、慌てて後を追いかけた自分の目には最後の敵の咽喉笛を斬り裂き、返り血を避けようと後ろに退いた少女の姿が映ったのだが。
「まったく……余計なことを」
 守るつもりが逆に守られていた。
 これには苦笑するしかない。
「何よ、その言い方」
 微かに険を帯びた声。
 傍らに置いた刀を取る音に思わず肩を竦めた。
 少女は普通の刀よりも幾分細身の刀を愛用している。
 どうしようもない膂力の差を埋めて余りあるだけの俊敏さが彼女の強み。
 いつも刀を合わせることなく相手を屠っている。
 その様は長刀を扱っているくせに小太刀を扱う草の者のようで。
 『あやかしの女と人間の男の間に生まれる男子は剛の者となる』
 という言い伝えも真実だと納得するしかない。
 女に生まれついてでさえこうなのだから、もしも彼女が男に生まれていたら後々の世にまで伝えられるような武将となっただろう。
「桐都はさ、強いんだ。きっといい侍になれるよ。今は叔父上の下に甘んじていても、いつかはその上にいける。……だから、戻った方がいいよ。あたしはあたしで逃げる。大丈夫、叔父上に『剛の者』を献上したりはしないし、父上を殺された恨みを晴らしに行ったりもしないよ。だって父上が叔父上にとって代わられたのは自業自得か、或いは……あたしのせいだ」
 吐き捨てるような言い方に混じるのは明らかな哀しみ。
「姫様」
 いたたまれずに声を掛ける。
 姫、と呼ぶにはあまりに勇ましい少女だが、主の娘を呼ぶにはこれしかない。
「……あ、ごめん。何か湿っぽくなっちゃったね。でも、まあ……そんなわけだから、桐都は戻っていいよ」
 市井の娘より遥かに荒い物言いを聞けるのは桐都だけの特権。
 表向きは眉をひそめながらも、実はずっと気に入っていた。
 女は花だと言うが……少女の場合、本当に花そのものなのかもしれないが、それでも少女をなぞらえる花は屋敷に咲く牡丹や白菊などではなく、野山を彩る野生の花。
 たとえば少女の名のような。
「……」
 無言のままそっと瞳を細める。
「桐都?」
 まっすぐな翠の瞳。 
「……独りで生きていけますか?」
 あえて問う。
 答えは分かっていたけれど。
「うん、そのつもり」
 少女が頷くと、花の色をした髪がさらさらと音を立てた。
「それなら考えておきます」
 少女はどこでだって生きていけるだろう。
 彼女自身がそれを願うのであれば。
「?」
 意味が分からずに首を傾げる少女。
 と。
 不意にその表情が険しいものとなる。
「……桐都、考えてる暇なんかない」
「はい?」
 一瞬ばかり訝しく思った桐都もすぐに納得する。
 感じるのは音ではなく気配。
 急かすような逸るような、妙な昂揚感と焦りをもたらす戦のかおり。
 ぴりぴりとした殺気が遠くからでも伝わってくるのは、かなりの人数がいるからこそだろう。
「別れよう、桐都」
 返事を待たずに立ち上がり、少女は入り口を見張っていた桐都の脇に立った。
 ふわり、と靡く紅雪の髪が淡い藍色の小袖に美しく映える。
「……あたしは見たいんだ」
 凛然とした光を湛えた翠の瞳を外へと向けて少女は言った。
「何を、ですか?」
「桐都の治める国」
「は?」
 いきなりの話の飛躍に桐都は彼らしからぬ間抜けな声を上げた。
「……姫様、私は国持ちではありませんが」
「うん、知ってる。けどね、そう思うんだ。……だから別れよう。あたしといたら、ずっと叔父上に追われることになる」
 確かに色々な意味で彼女の叔父は彼女を血眼になって探すだろう。
 ……少女が生きている限り。
「桐都を巻き込むのは嫌なんだ」
 きっぱりと告げる優しい言葉は明らかな拒絶。
 一緒に行こうとも逝こうとも彼女は言わない。
 だから自分で見つけるしかない。
 ……一番少女が生きられる道を。
「分かりました。……ここで別れましょう」
 そう言って桐都は笑んだ。
 安心したように少女も微笑む。
「できるだけ南に向かってください。南ならまだ姫様のお噂も……実継様のお力もそれほど及んでいない筈です」
「そうだね。あたしもそう思う」
 小さく頷いた少女が社殿のがたついた戸を開くと、明け方の月がまだほんのりと白みかけの空に残っていた。
「じゃ、あたしは行くね。桐都も見つからないうちに早く戻って」
 今にも飛び出していこうとする少女の腕を桐都はそっと掴んだ。
「何?」
 振り返る瞳は相変わらず澄みきった翠。
「御髪を……下さいませんか」
 込められたのは女々しい思いか。
 それとも侍として当然の振る舞いか。
 そんなことを考える輩など今この場にはいないけれども。
「髪? いいよ、あげる」
 勿論少女は何にも気付かぬまま、おもむろに白刃を抜いた。そして己の長い髪を無造作に掴み、白い元結で緩く纏めたあたりに鋭い刃を宛がう。
 すぱり。
 乾いた音。
 花を宿す艶やかな髪が肩のあたりでざんばらに広がった。
「はい」
 無造作に差し出された髪の束。 
「……切り過ぎです」
 細い薄紅の糸が返り血に塗れた腕をくすぐる。
「そんなこと言ったって、もう切っちゃったもの。邪魔だったら捨てていいよ」
 煩わしげに前にこぼれる髪をかきあげる。その長さは桐都とほとんど変わらない。
「いらないの?」
 元結のところを掴んで左右に振る。
 ぱらぱらと何本かの毛がほぐれ、下に散った。
「有難く頂戴致します」
 おどけたように膝を折り、おしいただく素振りをする……否、おどけた素振りをした。
「変なの」
 可笑しそうに少女が笑う。
「そうですか?」
 恭しく受け取った類稀なる玉糸を直垂の袂に仕舞い込み、それから桐都は己の髪を結い上げている若竹の組紐を解いた。
「その髪では不便でしょう」
 彼の髪は上に結われたまま。
「誰のせいだと思って……」
「差し上げます」
「でもこれ桐都の手貫緒じゃない」
 少女は桐都が元結の上に重ねてこの組紐を結っている訳を知っていた。
「姫様の方がこれから必要でしょう?」 
 刀が手から離れないように、そして刀を握る手に力がなくなっても刀を取り落とすことがないように。
 それは刀と手を縛り付ける戦場における命綱。
 少女は少し考え込んでいたが、やがてこくりと頷いた。
「……ありがとう、大切にする」
 彼女らしくなく壊れ物を扱うように静かに受け取って。
 蕾が綻ぶような笑みを浮かべる。
「それじゃあね、桐都」
「はい」
 あくまで淡々と。
 またいつでも会える、そんな感じで桐都は少女を見送った。
 自分の思惑を決して少女に気取られぬように。



+++++++++++++++++


「さて、と」
 穏やかに少女を見送った後、桐都は再び社殿の中に己の身を潜めた。
「嘘はつかなかったよな」
 素に返った呟き。
 自分はここで別れる、としか言っていない筈だ。
 だから約束は違えていない。
 ……少女の希望は無視することになるが、そのくらいの勝手は許されるだろう。
「よ……っと」
 本殿の端に立て掛けておいた松明を掴み、そのまま床に放る。
 ぱちん、と弾ける火花。
 腐り掛けていた床に火は簡単に燃え移った。
 徐々に広がる緋色の波。
 確か少女の髪に紅蓮華の色はなかった。
「お出でなさったか」
 俄かに騒がしくなる辺りの気配。
 ぱちぱちと火の粉が散る社殿の戸を閉じ、待ち望む誰かがやってくるのを待つ。あまり遅くならないように、けれど早くもならないように願いながら。
「……げ」
 向こうからかなりの数の侍を従えやってきた騎乗の武者をみとめ、桐都は微かに顔をしかめた。相手の方も一瞬目を見張り、それからこちらは勝ち誇ったような笑みをその軽薄な顔に浮かべる。
「これは妙なところでお会いしましたな」
 年の頃は桐都よりも少しばかり上の、辛うじて若武者と言ってもいいであろう容姿。彼は桐都と同じく少女の家に仕える武士であったが、少女の父が実弟に殺されると真っ先にその弟側についた。
 ……もっともその後、殆どの者が主殺しを次の主としたのだが。
「まあ、な」
 舌打ちしたい思いに駆られつつ、何とかそれを封じ込む。
 いつもは取り繕っていた体面も今更ゆえに全て取り払って、桐都は思い切り素に戻っていた。
「姫様が実継(さねつぐ)様の元から逃げたのだが、貴殿は何か知らないか? ……貴殿は姫様のお目付け役だったろう」
 実継は少女の叔父の名。
 彼女の父を殺し、代わりにこの国の主となった男。
 そして彼は言い伝えを信じ……剛の者となる後継ぎを欲した。
 少女にはあやかしである母親の血が多く受け継がれていたから。
 桐都にしてみれば吐き気がするようなおぞましい思惑。
 悲劇などあの明るい少女には一番似合わないと思うのに、何故か彼女の周りにはそんなものばかりが集まってきて、気付けばいつも一番哀しい目に遭っているのは彼女なのだ。
 だから。
「ああ、知ってるよ」
 後ろで燃える火のまわりを気にしながら、桐都は薄く笑った。
「俺が殺したから」
 どうか自由に。
 それが一番の願い。
 ……少女の自由を護るためならどんなことでもしよう。
 たとえそれで少女が哀しむことになっても。
「何?」
 男の顔から余裕が消え、代わりに剣呑な色が宿る。
「殺した……とは?」
 瞬間、ばちん、と社殿の屋根に穴が開いた。
 吹き出る煙。
 実に完璧な時機。
「だからそのまま」
 血に染まった直垂の袂から髪の束を取り出す。
 直垂を汚すどす黒い血はさっき斬り殺した追っ手のもの。だが馬上の男はそうは思わなかったらしい。
「気でも狂ったか?」
 後ろに控えていたかなりの数の郎党が、焼けつつある社殿を取り囲んだ。
 これまでで最高の高揚感。
 最期が見えているからか、それとも単純に命のやり取りを楽しみたいだけなのか、それは桐都自身にも分からなかったが。
「二十対一、か」
 生き残ろうと思わないことがこんなに楽だとは思わなかった。
 本殿に連中を入れるわけにはいかない。
 この社の中には空蝉の女神が坐しているのだから。
 少なくとも火が全体にまわって、誰も入れなくなるまでは持ち堪えなくてはならない。
「何故殺した?」
 理解できない、という風に尋ねる男と同感ながら、彼は微妙に真実に似た答えを選んだ。
「余所の男に盗られるくらいなら、俺が……殺してやろうと思ったんだよ」
 自分なら絶対にそんなことはしない。
 でも恋に狂った男ならそれくらいするのだろう。
 それなら自分は?
「……俺も狂ってるな」
 火炎に捨てるのは自分の命。
 そこに少女の命が重ねられることを願って。
 あの目立つ姫君のことだから、ずっと偽り続けることが出来るとは思わない。けれどいつか花の魂魄のような娘の噂が巷にのぼるまで、この国の連中に少女の死を思わせておければそれで構わない。
「やるよ、姫様の形見だ。お前の新しい主殿に見せてやればいい」
 艶やかな髪の束から数本だけ抜き出して、残りを男の乗る馬の足元に放る。そして手元に残った髪の毛を慣れた仕種で刀の鍔に通し手に掛けた。
 今にも切れそうな、頼りない手貫緒。
 きつく柄を握りしめ、桐都は抜き身の刃のような笑みを浮かべた。


+++++++++++++++++


『桐都は優しいね』
『はい?』
『だってあたしみたいなお化けに付き合ってくれるんだもん』
『お化け……って』
『だって髪はこんな色だし、目は翠だし。皆と違うんだよ』
『確か姫様の御母堂も同じ色合いでしたよ』
『母上も? ……あたし、会ったことないから分からないや』
『そうですね、姫様と違ってとても淑やかな方だったと幼心に覚えております』
『……桐都』
『どうか致しましたか?』
『別に。でも……そっか。母上には父上がいたんだよね。父上、母上が大好きだったから、死んだ母上に似てきたあたしを見ておかしくなっちゃったんだもの。それくらい母上を好きだった、ってことだよね』
『姫様?』
『あたしにも、いつかそんな人ができるよね?』
『……』
『何でそこで黙るのよ』


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 楽しい、と思うことは間違えているのだろうか。
 やはり悲壮感などを漂わせてみせた方がいいのだろうか。
 けれど、実際にどうしようもなく楽しいのだから仕方がない。
 もう既に何人を殺しただろうか。
 刀には人の脂が巻き、なかなか斬れなくなってきた。殆ど殴るか突くかしか出来ない。
「どうした? 貴殿は馬から下りてこないのか?」
 大童のように乱れた黒髪を揺らし、騎乗の男に声を掛ける。大業物の太刀で貫いたのはおそらく自分よりも若い侍。深々と腹を貫いた刃を、骸の肉が締まる前に足を掛けて引き抜く。どろり、と内腑に塗れた鈍い色の血が半瞬遅れて溢れ出した。
 二十対一は流石に無理がある。
 斬りかかってくる太刀筋を読めないわけではないのだが、生憎腕は二本しかなく刀も大小一本ずつしかない。気付けばいたるところに浅い刀傷を負っていた。もっとも戦闘の緊張と興奮から全然痛みを感じないが。
 これで向こうに弓があったら最悪だったと桐都はのんびりと思う。
「そちらこそその社から下りてきたらどうか? そろそろ燃え落ちるぞ」
 騎乗から投げかけられる声は上擦っていた。
「それを待っているんだよ」
 あえて社殿の戸口から動かないのは背を守るためと、火が完全にまわりきるのを確認するため。
 最期は決めてあるから。
 ……どこまでが芝居でどこまでが本音なんだか、彼自身にもよく分からなかったけれど。
 ごお、と火勢が強まり、飛び散る火花に朱が増す。
 背が焼けるように熱くなった。
 間隙に後ろを振り返ると、すぐそこにまで炎の波は押し寄せている。
 戸口にも炎は燃え移り、もう少ししたら誰も入れなくなるだろう。
 頃合かと小さく呟き、桐都は炎に嘗め尽くされようとしている社殿の戸に手を掛けた。べろり、と手の皮が剥け、炎のような肉が露になる。戸をあけた瞬間、物凄い勢いの熱風が吹き出した。ちりちりと髪の先が焦げ、嗅ぎ慣れた戦の匂いがする。
 桐都は一度息を整えると、紅蓮華の床にその身を投じた。


 その刹那。朽ちかけた社全体に火がまわりきった。


「あち……」
 視界全てが鮮やかな炎の色に染まる。
 血を吸った直垂に火が燃え移り、じわりと皮膚を焦がしていく。息も出来ないような熱風が渦を巻き、命ある限りは欠かせない呼吸の度に肺を焼いた。
 一足早く体験する地獄の業火。
 仏に祈るよりも先に彼は願った。
 溶けた手の皮にぴったりと張り付いた花色の手貫緒。
 自分と誰かの血で深紅に染まりきった細い糸。
 殆ど感覚のなくなった腕を苦労して持ち上げ、乾ききった唇にあてる。


「薔薇(そうび)様……どうか、御自由に」


 ふわりと舞う紅雪の乱舞。
 瞼の裏に浮かんだ光景に桐都はふと笑みをこぼした。


+++++++++++++++++


「桐都?」
 名を呼ばれた気がして、薔薇は走るのを止めた。
 後ろを振り返っても誰もいない。
 桐都も、追手も。
 どうやら追手に会うこともなく国を抜けられそうだった。
「桐都、ちゃんと戻れたかな……」
 煩わしく広がる不思議な色味の髪を無造作に束ね、桐都に貰った若竹の組紐で結い上げる。薄紅を基調とした、様々な濃淡の髪にその紐はしっくりと馴染んだ。
 まるで昔からそこにあるのが当然とでもいうように。
「……考えてみれば、桐都があたしを名前で呼んだことなんて一回もなかったんだよね」
 透きとおるような、つよい光を放つ翠の瞳で美しく晴れわたる青い空を見上げる。
「ま、それはあたしも同じか」
 小さく肩を竦め、結局薔薇は何かを振り切るように再び走り出した。


                                                    




ここまで読んでくださいましてありがとうございました。
この話は『珊瑚姫』と世界設定が同じです。
あやかしの血をひく人間は、
武に長けた者になるという話を何かで読みました。
「それならもし、あやかしの血をひいて
生まれた子どもが女の子だったら……?」
こう思ったところからこの話はできました。
相変わらず好き勝手な話になってしまいましたけれど。
結構前に書いたのですが、
雛祭っぽい気がしたのでUPしてみることに。
2002.3.2