「ごめんなさい、少し冷めちゃったわね」
 青い畳の上、端座した膝のすぐ前に置かれた青磁の器。
 玉器の色にも似たその色は、親友の瞳や鱗を思い起こさせる優しいひすい。
 珊瑚は畳の上に着いた両の掌を僅かに前にすべらせ、湯気が微かに立ちのぼる器の中をそっと覗きこんだ。
「……あ」
 中に満ちていたのは薄紅に透きとおる液体。
 甘い香りがほのかに漂うその表面に、同じ色の五弁の花が三つばかり浮かんでいる。
「可愛いでしょう? 雪野桜の花びらは五枚なのが有名なの。同じ雪野でも少し西へ行けば、八重のものもあるのだけれど」
 青磁の器を両手で包むようにしていた狭霧が口を開く。
 やや色味の薄い、おだやかな双眸を細めながら。
「さくら……」
 自分の涙よりもはるかに淡い珊瑚珠。
 そんな色の小さな貝殻を五つ集めると、この可憐な花になるかもしれない。
 蝶貝で拵えた宝箱の中身を思い出し、珊瑚はそんなことを考えた。
「美味しいから飲んでごらんなさいな」
 狭霧に言われ、そろそろと器に手を伸ばす。冷たいはずの青磁の肌は、注がれた湯の熱さをやわらかく伝えてきた。
「……ん」
 最初は一口。
 それもほんの少し……味すら分からぬ程度の。
 ゆえに熱さだけが舌先を僅かに濡らす。
 だから改めてもう一口、今度はこくりと飲み干して。
 珊瑚は円らな瞳をさらに丸くした。
「おいしい……」
 口の中どころか、咽喉をすべって心にまで満ちたのは色そのままの味。
 琥珀の飴を口に含んだよりも、ずっとはかない甘さだった。
「でしょう? こんなに美味しいのに、鷹経は味がしないと言うの。母親のわたくしが言うのも変だけれど、あの子ったら本当に大雑把にできているのよね。それに……千鶴はお酒が好きだから、甘いものはあまり取らないし。だから一緒にこれを飲める相手ができて嬉しいわ」
 嬉しそうに微笑む狭霧。
 けれど。
 珊瑚はその言葉に思わず器を置いた。
 「鷹経」  と。
 紅をひいた唇の紡ぐ名が、何処までも優しく響いたから。
「……狭霧、さま。あの……わたし」
 なぜかふたつの力が逆さまに作用して、その声音はひどく頼りなく風に攫われた。
 白花の清廉な香りをはこぶ、夏のはじめの爽やかな風に。
「わたし?」
 かき消える言葉の絲を掴まえるように、狭霧が珊瑚の言葉を繰り返す。
 珊瑚は一度大きく頷き、再び口を開いた。
「わたし、辻に……立っていたから、その……」
 追い出してもらいたい、と思う気持ちと。
 その反対の気持ち。
 もつれるはずのないふたつの心が珊瑚の中で幾重にも絡みあった。
「……」
 自分がするべきことは分かりきっている。
 しかもそれは自分が一番望んでいること。 
 ……なのに。
 ここにいたい、と。
 余計な思いが言葉を奪う。
「そういえば千鶴がそんなことを怒っていたわね。あの子も潔癖だから」
 黙っていた狭霧が思い出したようにそう呟いた。
 珊瑚に向けていた視線を庭に揺れる白い花へとすべらせて。
「でもね。わたくしこそ遊び女……氏も素性も全然分からない、ただの白拍子だったの。だから分かります。あなたがどんな育てられ方をしてきたのかくらいは。……少なくとも、わたくしとは違う育てられ方をしているはず。そうでしょう?」
 ゆるり、と珊瑚ですら息を呑むほどの艶やかな笑みを浮かべる。
「それに……千鶴が言うように、もしあなたが何か魂胆を持って鷹経を惑わしたのだとしても、わたくしは何も言いたくないわ」
「え……?」
 狭霧の言うことにならきっと鷹経も従うはず。
 ならば、狭霧に自分を追い出すよう鷹経に言って貰えばいい……。
 自分のそんな思惑を掬いあげたかのような狭霧の言葉。
 珊瑚自身、口にすることができなかったというのに。
「だって、あの子が望んでしたことですもの。……わたくしね、とんでもない親馬鹿なの。あの子が望むこと、全てかなえてあげたいと思うのよ」
 空になった青磁の器を弄びながら狭霧が続ける。
「それとも。あなたはあの子のこと……顔も見たくないほど嫌いなのかしら?」
 何処か真摯な響きを孕むその口調に、珊瑚は慌てて首を横に振った。
 もともと嘘を吐けない性質ゆえに。
 そして。
 狭霧の哀しげな顔を見たくないゆえに。
「そう……それなら何も問題はないわね」
 こちらを向いた狭霧が満足そうに微笑む。
「……」
 珊瑚は心の中で溜息をついた。
 問題は自分の方にこそ在る。
 それもかなり深刻な問題が。
 だが結局、珊瑚は何も言えなかった。
 ……己が陸に上がった目的を忘れたわけではなかったけれど。




         



 縁側に腰掛けると、まとまって咲く百合の花がちょうど視界に入る。
 籬(まがき)に三方を囲まれた井戸のほとりを神々しく飾る、白く……清らかな星の花。
 変わり笛のようなそのかたちに鷹経は思わず微笑んだ。
「? どうしました?」
 立って報告を続けていた千尋が言葉を切り、怪訝そうに鷹経の顔を覗き込む。高くなった陽射しが彼の結い上げた髪を茶金に輝かせた。
「いや、何でもない。それで……干物が何だって?」
 その眩しさに瞳を細め、それから取り繕うように小さくかぶりを振る。まったく別のことを考えていたとはとても言えない。内容が内容だけに、互いが鬼籍に入ってからも揶揄の物種にされてしまいそうだった。
「その様子だと、全然私の話を聞いていませんでしたね?」
 呆れたような千尋の眼差し。
「……悪い」
 鷹経は素直に謝り、至極まじめな顔で幼馴染の鳶色の双眸を見上げた。
「もう一回最初から頼む」
「……」
 脱力したように肩を落とす千尋。
 だが気を取り直したのか、すぐにその背を伸ばした。
「ですから。本当に干からびた死体が見つかったんです」
「昨日の?」
「はい」
 ふたりが昨日、たまたま市で耳にした噂。
 それは躰から血をすべて抜き取られ、干物のように朽ちた死体をよく見かけるというもの。もとより市はその性質上死体の多いところだが、干からびた死体となるとさすがに尋常ではない。これがただの噂なら、そのうちただの笑い話に転じることもあるだろう。しかし、実物が見つかったとなると話は別だった。
「誰かが触れたら、ものの見事に砕け散りました。干物としては失敗作ですね」
「お前も見たのか?」
「ええ、青楼の帰りに。着けていた衣の柄から見て、そう古い死体ではない筈です」
「目立つ傷は?」
「いいえ、ありませんでした。小さな切り傷くらいならあったかもしれませんが、それくらいで血は抜き取れないでしょう。第一、着物に染みひとつ付いていませんでしたし」
 鷹経の問いをある程度予想していたのだろう。考える素振りも思い出す仕種も見せず、淡々と言葉を紡ぐ。
「……そうか」
 鷹経は己の顎に指を絡めた。
 普通に放置した死体が干からびるまでにはかなり時間が掛かる。しかも浜風が吹くとはいえ、湿気の多い月橋の風土で自然に人間の干物が作られることは不可能に近い。
「何だか……面倒な感じがするな」
 ぽつりと呟く鷹経。
「そうですねえ」
 千尋は端正な顔に悪戯っぽい微笑を貼りつけた。
「見た感じでは、あの血の抜き方は相当の手練ですね」
「?」
「仮に自分が人ひとり分の血を得るとしたら、人間を三人くらい用意します。そして逆さに吊して……ここを切り落とす」
 避けずとも痛くない手刀が鷹経の頸動脈の辺りにぽん、と落ちる。
「そうやって集めてやっとひとり分、といったところじゃないですか?」
 呑気な千尋の口調と、それにそぐわない内容の物騒さに鷹経は眉をひそめた。
「殺し手はお前か?」
「残念ながら、干物には首が付いていましたよ」
「……」
「でも……殺しでしょうね」
「だろうな」
「どうします? 永全様に報告しますか?」
 千尋の声の調子が一段下がる。
 見上げると、先ほどとはうって変わって真剣な表情をした千尋と目が合った。
「そうだな……」
 考えをまとめるために、しばしの間だけ瞼を伏せる。
 月橋国は小国だが、人魚という特別な産出品のおかげで経済は潤い、他国の商人も頻繁に出入りしている。したがって大市では商人同士の諍いといった小事が当たり前になっているし、先日の海寇のような大事も多々起こるのだ。
 そのため月橋の侍には小事に対処する当番制の巡見と、大事の際の兵役が義務付けられている。そしてその纏め役を担う鷹経は、月橋の民や市を訪れる商人達に『市の守護神』という通り名を付けられていた。
「でも……結局、まだ何も分かっていないんだよな」
「……確かにそうですね」
「とりあえず、巡見を強化することで様子を見るか。あと……できれば死体の出どころを確認したいな。父上達に報告するのは、もう少し調べてからでも遅くないだろ」
「分かりました」
 静かに頷く千尋。
 それから彼は、ところで、と声の調子を元に戻した。
「鷹経様、辻姫をお拾いになられたそうですね」
 揶揄を孕む、楽しげな口調に。
「は?」
 珊瑚の話を千尋にした覚えはない。
 からかわれると知っていてわざわざ告げる程、鷹経も愚かではないのだから。
「……それ、誰に聞いた?」
「姉上です。きちんと見張っていないからだと、さっき散々絞られましたよ」
「あ」
 千尋の姉……千鶴は屋敷内のほとんどを取り仕切っている。屋敷の主たる狭霧の彼女への信頼はかなり厚いし、鷹経自身、大体のところでは彼女の振る舞いに信を置いていた。
 もっとも、彼女の口煩いところには少しばかり辟易しているのだが。
「自分に隠し事はできませんって。姉上がここのことで知らないことは何もありませんからね。……あの人は心配性ですから、鷹経様に悪い虫がつかないか不安なのでしょう。でも……本当に大丈夫なんですか? 実は人妻で、あとから亭主が乗り込んでくるとか、そんな落ちはないんでしょうね? 間男を妻との房事の最中に殺害しても、それは罪科にならないんですよ。まさか鷹経様はご存知だと思いますけど」 
 心配しているのか、それともけなしているのか定かではない千尋の台詞。
 これを聞いて鷹経は、千尋がまだ珊瑚の姿を目にしていないと確信した。
 もしほんの束の間でも彼女の姿を見ていたら、もう少し別の言い様がある筈だ、と。
 だから。
「絶対にそれはない。人妻なんてありえないね」
 千尋の整った顔を見上げ、きっぱりとそう断言する。
「え?」
 千尋は一瞬、虚をつかれたような顔をしたが、不意に小さく吹き出した。
「そういえばそうですよね……鷹経様はむしろ……」
「何だよ?」
「いえ……何でもありません」
 それでもなお千尋は可笑しそうに笑みを堪える。
「何でもないって顔じゃないだろ」
 とても何でもないようには見えない。
 明らかに馬鹿にされているような気がする。
 だが何故馬鹿にされているのかも分からず、鷹経はひとり首を捻った。
 と。
 堪えきれなくなったのか、千尋が遂にくすくすと笑みをこぼす。
「何が……」
 可笑しいのかと鷹経が問い詰める前に。
 千尋は男にしては華奢なつくりの人差し指を立て、鷹経の鼻先に突きつけた。
「鷹経様。野暮を言うようですが、幼い迷い子はちゃんと母親のもとに返してあげるんですよ?」
 続くのは、実に楽しげなからかいの言葉。
「な……っ」
 さすがに鷹経は返答に詰まり、その面を一気に赤く染めた。




         



 周囲に人の姿がないことを確かめて、珊瑚は屋敷の搦め手から外へと出た。
 紫紺に染まりゆく空を見上げ、日が果てたことを確認する。
 生まれたばかりの月の加護は僅かでしかないが、それでも皆無ではない。
「……失敗、しないようにしなくちゃ」
 指先には昼間に拵えた小さな切り傷。
 まだ微かに痛むその傷口を唇にあて、珊瑚は何かに誓うようにそう呟いた。