拾弐


 水を撒き終えたばかりの庭には、満開の白百合。
 そのなめらかな花弁に宿りし水滴が、陽光を纏ってきらきらと輝いている。
「これ……環月魚(かんげつぎょ)の稚魚だよね」
 珊瑚は手桶と柄杓を下に置くと縁側に腰を下ろし、袂から小さな水晶のかけらを取り出した。
「あの子たち、魂だけでも『月の山』に還るつもりだったんだ……」
 このいびつな石は、昨夜助けた人魚の娘から貰ったもの。陸の石ではない証しに、自ら白く輝くその内側には銀色の細いさかなが泳いでいる。
「でも、わたしの肝を食べさせたら……さすがに死んじゃうだろうな」
 石のかけらを掌にのせ、さわやかに降りそそぐ日輪の光にかざす。
 すると水晶の輝きはとたんに薄れ、白く濁りはじめた。
「それにしても、誰が知っているんだろう……翡翠の魂。もう……5人も土に還したのに」
 伏目がちに呟き、空いている方の手で己の黒髪をそっと掴む。
 そこにはまだ血の匂いが強く残っていて、珊瑚に昨夜の出来事を否応なしに思い起こさせた。




  


「……ば……化けもの……っ」
 派手な縞の着物を着けた男が震える声で叫ぶ。
 海では無論、もはや陸でも聞き慣れた言葉に、珊瑚は意識して無表情を装った。
「わたしをそう呼ぶのなら、わたしから見たあなただって化けものよ。……正直に話してくれたら助けるなんて、そんな生温いことはできないから安心して」
 しゅるしゅる、と板間を蛇のごとくにうごめくは、真珠の色艶をたたえる己の髪。
 はかない灯火の下で、視界の明度が一気に増す。
 瞳の色が本来の深紅に戻ったのだと珊瑚自身が気づく前に、男の表情がさらに歪んだ。
「いやだ……助けてくれ……っ」
 鬼灯さながらに光った双眸に、彼は腰を抜かしたのかもしれない。
 だがそれでもなお珊瑚に背を向け、部屋の中を這って逃げようとする。
 助けてくれ、と死にたくない、を繰り返しながら。
 そこで初めて珊瑚は感情を面にあらわした。
「あなたは同じことを人魚に言われた時、何をしたの?」
 怒りを孕んだ声音で、男のうわ言のような懇願を断つ。
 それを合図に、真珠の蛇と化した長い髪が男の足首に絡みついた。
 そのまま床に引き倒された男が意味をなさない悲鳴を上げる。
「言の葉は要らないわ。……どうせ嘘しか紡がないんだから」
 倒れた男の四肢に絡む、無数の細い蛇。
 真珠のように清らかだったその色が、薄い灯の中で鮮やかな紅へと染まっていく。
 そしてそれとは反対に、もがく男の顔からは次第に血の気が失われていった……。




  


「……あの人も知らなかった」
 脳裏に浮かぶのは、すべての血を失った……干からびた男の残骸。
 珊瑚が辻に戻った時、彼の骸は既に男たちの手によって片付けられたあとだった。
 まさかこんなに早く死体を見つけられるとは思わなかったけれど、人魚商人殺しの疑いが自分に向けられることはそうそう無いだろう、と珊瑚はふんでいる。
 もともと自分の存在は陸の民の知るところではないし、黄昏から夜にかけての刻限に衣被きの辻姫は珍しくない。さらに加えて、ここ……鷹経の母御前のもとに身を寄せているという事実が、どうやら周囲の目から自分を匿ってくれているらしい。
 確かに、狩る者のすぐ傍らに狩られる者がいるとは誰も思わないだろう。
 意図した訳ではないが、結果的に自分は鷹経たちの好意を利用していることになる。
「本当のことを知ったら、鷹経はわたしを退治しようとするんだろうな」
 鷹経が市の安寧のために心を砕いていることは、もちろん珊瑚も知っている。
 だからこそ、彼は自分を庇護しようとしてくれたのだろう。
「でも……仕方ないね」
 自分には人魚商人を殺めなくてはならない理由がある。たとえこの行為が陸における重大な罪であっても、止めるわけにはいかない。
 ……彼らの血潮に刻まれた記憶を読む以外、自分には親友の魂を捜す術がないのだから。
 体躯を網の目のようにめぐる鮮血こそ、珊瑚が唯一あやつることのできる緋色の海なのだ。
「翡翠をつれて帰るって……そう誓ったんだもの。違えるわけにはいかないわ」
 完全に白濁した水晶のかけらを掌の上でころんと転がす。
 陽射しに白く凍てついた石の中、細いさかな――還月魚はどうやら深い眠りについたようだった。




         



「いくら何でも殺害人ではないでしょうが……困りましたね」
 吐息とともに小さく洩らす千尋に、鷹経もその瞳だけで同意を示す。
 ふたりの前に引き出された童子には、身元を明かすどころか口をひらく気配すらまったく無かった。
 ここは辻のやや外れたところに設えられた籠舎。
 市で強盗や殺害などの罪を犯した犯科人を、その沙汰が下るまで込めておく場所なのだが……。
「もう一度確認するが……昨晩、人魚商人を殺したのはお前じゃないんだな」
 鷹経のこんな問いにも、童子はただこくり、と頷くだけ。
 殴られた痕が青紫の痣と残った口元をきつく結んだまま、その澄みわたる双眸をまっすぐに鷹経へと向けるだけだった。
「そうか……」
 なおも無言を貫く童子に頷き、改めて視線を合わせる。
「それならお前の罪科は人魚の盗取だけだ。すぐに検断方から正式な沙汰が下るだろうが、どのみち人魚を盗めば何人たりとも斬罪は免れられない。要はお前みたいな子どもでも首を刎ねられる、ということだ」
 童子の幼い瞳に映る己の姿は、きっと冷酷無比の悪鬼そのものなのだろう……。
 漠然とそんなことを思いながら、それでも鷹経は淡々と言葉を紡いだ。
 本来、月橋国では成人前の童子の罪を軽減することにしている。あくまで慣習に基づくものではあったが、犯科の内容によっては咎めがまったく無いことさえあった。
 そして人魚泥棒に関しても、少し前までは同様のことが行われていたのである。
 しかし一昨年、この不文律を逆手に取った人魚の盗取が組織だって行われたため、人魚商人の側から沙汰に対する不満の声が出た。このことは流通を管理する領主側にとっても大きな問題であったから、すぐに人魚商人の訴えは取りあげられ、嫡子の永鷹が中心となって作成した『鮫人扱式条』が国主である永全の名で明文化されたのである。これには人魚の売買についての主な規定とともに、関連する罪科の処罰規定もおさめられ、人魚泥棒に対してはこれまでの慣習法を覆し、すべて死罪とする旨が書かれていた。
 よって式条の発布以後は、いかなる人物がいかなる理由でもって人魚の盗取を行ったとしても、例外無く斬罪に処されることとなったのである。
 だが、月橋国の識字率はそれ程高くない。
 商売に携わることもある磯辺の者はそうでもないが、山寄りに住んで田畑を耕す者の中には国字すら読めない者もいる。それゆえ、全文が大陸伝来の文字で書かれた『鮫人扱式条』の浸透には、かなりの地域差が生じていた。
「……お前はそれを知らされないまま、誰かに盗みを頼まれたんじゃないのか?」
 大人でも未だ知らずにいる者が多いのだから、十にも満たない子どもが新しい式条を知らなくても当然である。
 そこで鷹経は、童子の後ろに糸を引く者がいるのではないかと読んだのだが。
「……」
 童子は細い首を左右に振って、鷹経の言葉を否定した。
「犯人を庇っているのでしょうか……?」
 鷹経の脇でぽつり、と千尋が呟く。
 すると童子は前よりもずっと激しく首を横に振り。
「……違うよ。自分でやったんだ。母ちゃんは何もしてない……っ」
 と、初めて大きな声を上げた。
「母ちゃん?」
 童子の幼い声が呼ぶに相応しい母の呼称。
 口にするには低くなりすぎた声音で、鷹経がそれを繰り返す。
「だって母ちゃんの病気……全然良くならないから。父ちゃんも同じ病気で死んじゃったし……。『にんぎょの肉なら治せるのに』ってみんな言うから……だから……」
 堰を切ったようにあふれ出る言葉と、幼い涙。
「にんぎょを食べさせれば、母ちゃんの病気も治ると思ったんだ……」
 手首を荒縄で縛められているために頬を伝う涙を拭うこともできず、童子が俄かに紅くなった瞳を鷹経へと向ける。
「母ちゃんは何も悪くないよ。だから母ちゃんはころさないで……っ」
 母ちゃん『は』、と彼は言った。……母ちゃん『を』、では無く。
「……」
 鷹経は深く息を吐き出すと、板間に座らされていた童子の前に膝を折った。
 そしてそのまま、真っ赤に腫らした目元に残る大粒の涙を直垂の袖で拭ってやる。
「お前……ちゃんと分かっていてやったんだな?」
 盗みが見つかれば、自分が死ぬことになることを。
「……うん」
 小さく鼻を啜り、こくん、と頷く童子。その痩せた肩に鷹経は手を置いた。
「お前の母親は大丈夫だ。月橋では縁坐を採らないことにしている。罰せられるのは犯科人だけだ。人魚の盗取でもこれは変わらない。……首を刎ねられるのは、お前だけだよ」
 式条にある通りのことを告げると、初めて彼の面に年相応のあどけない笑みが浮かぶ。
 その嬉しそうな……心底安心したような微笑みに、鷹経は思わず彼の肩を抱き寄せた。
「ごめんな……何もしてやれなくて」
 こんな謝罪に何の意味があるのだろう。
 童子は母親の病を治せないまま幼い命を絶たれ、そしてその母親は、何より大切なものを喪うことになるのに。
 誰よりもまず鷹経自身が、己の不甲斐なさを責めずにはいられなかったけれど。
「でももし俺がお前の家族だったら、きっとお前のことを一番の誇りに思うよ……」
 掠れる声でそう続けながら、鷹経は無骨な掌で童子の頭を何度も撫ぜてやった。