珊瑚姫




 不意に砕け散った翡翠の珠。
 海の宮に生きる異形の少女は愕然として己の手首に目を落とした。
「何で……今になって……」
 折れそうなくらい華奢なそこに残っているのは翡翠珠を貫いていた銀鎖のみ。やわらかな緑色をした石の欠片は既に周囲を染める海の色に紛れ、見えなくなっていた。
「まさか……今まで生きていたの?」
 自分の呟きに深紅の瞳を見開き、薄紅の唇を噛みしめる。
 開かれたままの大きな瞳からこぼれる透明な雫。
 それは頬をすべる過程で徐々に色づき、終には少女の瞳と同じ色をした珊瑚珠へと転じた。
「末姫様」
 しわがれた老女の声。
 聞きなれたその声に少女がゆっくりと後ろを振り返る。
「海松(みる)……」
 老女も少女と同じく二手二足の人の姿をしてはいない。
 ただ少女の下半身はきよらな白銀に輝く蛇身だったが、老女のそれは緑青のような色をした魚のものだった。
「またこのような所においでになって……。ここは忌むべき場所にございます。……我らなら代わりもおりますが、末姫様は竜王様の血を引くお方。陸のものにその存在が知れればただでは済みませぬ」
 責めるような口調で言葉を紡ぐ老女。
 鱗と似たような色合いの、緑の髪を持つこの老女は少女の乳母だった。
 陸の人間の感覚で言えば七十程度の年齢。
 けれどその実年齢は四百をゆうに超えている。
 少女達のような海のものは、陸の人間に比べてその身に流れる時間が遥かに緩やかなのだ。
「心配してくれてありがとう」
 少女は目許を細い指で拭った。
 真球になり損ねた、ひしゃげた珊瑚が海底に沈んでいく。
 僅かにとどく日輪の光を吸い込みながら。
 老女が天空よりのその輝きをいまいましげに見上げるのを少女は見つめた。
「でもね、海松」
 ぽつり、と老女の名を呼ぶ。
「……わたしよりも海松の方がただでは済まないわ。だって人魚の血肉は陸のものにとって最高の薬だもの」
 己の蛇身を覆う真珠の鱗を逆に撫で上げて。
 微かに差し込む光を受け、それは虹の色に美しく輝いた。
「末姫様……そのようにこの姥をお気遣い下さるならば、早う竜の宮にお戻りなさいませ。かのような場所に居られてはいつ陸の船が現われるか……」
 竜宮の主が張り巡らせた結界の中で、唯一日光の差し込むこの場所。
 それは結界の綻び……人魚を狩ろうとする陸の人間にとって格好の狩場となりうることを意味する。
「そうだね。翡翠もここで……」
 哀しみに揺らがせた紅い瞳を少女は鎖だけとなった己の腕飾りに落とした。
「ごめんね……海松。謝って済むことじゃないのは判っているけど……」
 翡翠。
 それは少女の親友にして老女……海松の娘の名。
 彼女はここで陸の人間に狩られた。
「末姫様?」
 けれどそれはもう五十年も昔の話。
 確かに己が腹を痛めた娘を失った哀しみと怒りとを消すことは海松にも出来ないけれど、その責を少女に負わせようと考えたことなどこれまで一度もない。
「ごめんね……」
 もう一度謝罪をその可愛らしい唇に上せ、それから少女は何かを振り切るように小さくかぶりを振った。
 そして。
 凛とした光を紅い瞳に満たし、天より降りそそぐ忌むべき光を見据える。
「……わたし、陸に上がるわ」
 はっきりとした声音。
 海松は一瞬ばかり呆けた後、慌てたように言葉を紡いだ。
 首の弛みが微かに波うつ。
「なりませぬ、末姫様。陸に上がれば我等の時も……」
 少女の声がその言葉を途中で遮る。
「そんなの構わないわ。だって……このままじゃもう翡翠には逢えなくなっちゃう……」
 泣く一歩手前のような必死の形相で海松を振り仰ぐ少女。
 鱗と同じ、真珠色をした髪が波にふわりと舞う。
「……?」
 訝しげな表情の海松に少女は鎖だけとなってしまった己の腕飾りを示した。
 それをみとめた海松が息を呑む。
「これじゃあの子、もう海に還れない。わたし、宝珠が砕けなかったのは魂だけでも海に還れたからだと思ってた。けど、違ったんだわ。……今まで翡翠は生きていた。そしてたった今……」
 小刻みに揺れる少女の細い肩。
 海松も少女を宥める言葉を失った。
「だからわたし……翡翠の魂を取り戻すわ」
 鈴の音のような声音に込められた強い決意。
「……あの子の仇を討って」
 竜の宮においても異形たる自分と仲良くしてくれた、大切な親友。
 輪廻の輪が廻って、いつか同じ魂を持つ人魚が生まれてきてくれると信じていた。
 その時をいつまでも待つつもりでいた。
 己の腕を彩る翡翠の珠が、いつか透きとおった水晶に変わることを祈っていたのに。
 もう待っているだけではその願いは叶わない。
 彼女と同じ名の宝珠は砕け散り、その魂が海の輪廻から逸れてしまった事実を残酷にも自分に突きつけてきたのだから。
「あれのことをそこまで気に掛けてくださいますか……」
 皺に埋もれた海松の目がじんわりと潤む。
「海松……?」
 さらに聞き取りにくくなった乳母の声に少女は訝しげに深紅の瞳を細めた。
 老女の枯れ枝のような指がそんな少女の頬に触れる。
 我が子を……孫を慈しむように。
「ですが末姫様……陸に上がることだけはどうかお考え直し下さいませ。御母上様にも固くそのことは申し付けられておりますゆえ。それに、陸には月の加護が完全に失われる時がございます……」
 海は太陽ではなく月に護られる場所。
 竜宮の月は欠けも沈みもしない久遠の望。
「分かっているわ。夜だけ……なのでしょ?」
 月の護りを阻まれた海のものは日輪の呪縛に囚われ、陸の人間と同じ躰になってしまう。
「大丈夫よ、海松」
 少女はそっと微笑んだ。
「必ず翡翠を海につれて帰るわ。……それまでここには帰らない」
 躊躇するように一瞬彷徨った深紅の瞳に、再び老女の皺だらけの顔が映る。
「わたしの……名に懸けて」 
 竜の一族において、名に懸けた誓いは絶対のもの。それを違えることは決して許されない。
 名付けは親の、名当ては妹背の、そして名懸けは本人による束縛を為すものだから。
 その重みを知る海松は顔色を失った。
 今にも倒れそうなその様子を見てか、少女が小さく肩を竦める。
「どうしても見つからなかったら、陸自体を滅ぼしちゃうわ。もっともその方が父上は喜ぶかもしれないわね。……わたしが生きているよりは」
 笑みにいつしか翳りをのせ、己が頭上を仰ぐ。
 日の光こぼれる、薄氷の割れ目のような結界の隙間。
 そっと衣の胸に手をあて、それから少女は海の底をその尾で蹴った。
「末姫様……っ」
 老女が手を伸ばす前に白銀の蛇身をうねらせる。
 飛び散るのは虹色の光の粒。
 そのまま少女は結界を通り抜けた。
 月の加護届く海の底から、命灼く炎が輝く忌むべき陸へと。



    

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