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しきりに雀の囀る声がする。そのかしましさに義匡(よしまさ)は夢うつつで眉を顰めた。五月蝿いとばかりに手近な衣を被り、囀りの雨をやり過ごそうとして……。
「雀!?」
勢いよく跳ね起きる。
その弾みで躰に掛けていた若菖蒲襲の小袿がずり落ちた。
「しまった、寝過ごした……」
すべての戸が閉ざされているとはいえ、隙間から洩れる光で視界は既に明るい。
間違いなく夜は明けてしまっている。
まだ今日は初日。朝までいられる日には2日ほど早い。
「……って、姫は?」
慌てて帰る身支度を整えようとして、義匡はようやく寝所の異変に気がついた。
しとねの衣を重ねた筈の、この寝所の主たる姫君がいない。
眠る前は間違いなく隣にいて、枕元に置いた籠中の虫を飽きもせず眺めていたのだが。
「帰るのは俺の方だよなあ」
夜をともにした男女が交わす、後朝の別れ。
しかし今ここにある衣は男女ふたり分。
おまけに今ここにいるのは義匡ひとりときている。
「まさか鬼に攫われたとか……」
それは考え得る最悪の場合。
頻繁に都を騒がせる異形の者たちは宮廷にまでも押し寄せ、雅なる人々を悩ませている。鬼に喰われ空蝉の如く消えた姫君や女御の風聞は、東の征討より帰って間もない義匡もかなり耳にしていた。叔父以外に寄辺を喪った名家の姫君、という触れ込みのここの姫君などは格好の餌食になりかねない。
と、そこまで先走って、義匡はかぶりを振った。
「……いや、待て。鬼は俺だ」
鬼を追い払い、まつろわぬ者を討つ務めを果たす武士もまた「鬼」と呼ばれている。
弓に宿した破魔の力と血塗れた刀の穢れゆえに。
或いは、いつか武が雅を凌駕するかもしれないという恐れゆえに。
義匡の父、水原義矩(よしのり)はそんな武士たちの棟梁である。
そして同時に野心家でもあった。
彼は下級貴族の出自であったが、打ち立てた武勲ゆえに昇殿を許され、今では公卿の貴族たちに次ぐ位置に在る。だが、武勲では家柄の悪さを補えない。したがって義矩は公卿の家と婚姻関係を結ぶことを考えたのである。
その結果、ここの姫君……前大納言の一人娘と、他ならぬ義匡の縁組の約束が本人たちのあずかり知らぬところで取り交わされたのであった。
件の姫君は既に両親を亡くし、父側の叔父を恃んでいるのだが、この叔父の側もなかなかの策略家であるらしい。武士の棟梁たる義矩を自らの側に取り込み、その武力を政に利用しようと企てているようなのだ。
言うなればこの婚姻は紛れも無い政略結婚である。
一番不幸なのは「鬼」と妹背の契を交わさなくてはならない姫君なのかもしれない。
実際に「鬼の若子が前大納言の姫君を喰らう」話は随分前から噂好きな都人たちによって広められていた。
「しかし、なあ……」
いささか皺の寄った常盤緑の水干を拾うついでに、枕元に坐します虫籠を見やる。
童女が小さな貝を入れるに相応しいその小籠に入っているのは、萌葱に光る小さな甲虫。
昨夜おそく寝所の灯につられて迷い込んできたのを、義匡がかなりの難儀をして掴まえたものだ。その際の激しい物音に、おそらく寝所を窺っていた女房たちは多大なる誤解をしたに違いない。
自分に関する新たな噂が広まることを思い、義匡は複雑な心境ゆえの溜息をこぼした。
少なくともこの件についてだけは、原因は姫君の方にある。
――「棘子(いらご)姫」。
垣間見を好む公達は、笑い話のひとつとして前大納言家の姫君をこう呼んでいる。
棘子とは、枝葉を這う皮虫の中でもひときわ美しい棘虫のこと。
庭に牡丹を咲かせ、それを愛でる姫君が「天香姫」と称される習いの通り、前大納言家の姫君がこよなく愛でるのは皮虫をはじめとした虫豸のたぐい。むろん虫は虫でも胡蝶や蜻蛉、その他の音を奏でる虫なればそれを愛でるのも普通であろうが、件の姫君は若葉を豪快にむさぼる皮虫や、鳴かぬ小虫さえもその掌に載せ慈しんでいるという。
それゆえ「美しいけれど、わざわざ触れたいとは思わない」という意味も込めて、「棘子姫」の名が前大納言家の姫君に付けられたらしい。
風聞をさほど信じない義匡であったが、昨夜の騒ぎをもって噂も真実と納得せざるを得なかった。
何せ髪上げを過ぎたばかりとはいえれっきとした姫君が、壁にしがみ付いた迷い虫を捕らえようと衣を仕舞う唐櫃に登りはじめたのだから。
もっとも、結局のところは義匡が扇を使って掴まえたのだが。
「……」
水干と袴とを着け終わった義匡は、ふと頸かみの緒を整える手をとめた。
幾度も刀を握った右の掌を静かにひらく。
それは他人の血に染まり、殺生の穢れにまみれた「鬼」の掌。
だが……かの姫君は、この手から緑の甲虫を受け取ったのだ。
何の躊躇いもなく小さな掌をさしだして。
網と羽、有情の玻璃
身支度を整え、寝所を出ると夜の名残はほとんど無くなっていた。
まだそれほど高くないとはいえ、夏という季節のせいか陽射しは早くも熱を孕んでいる。
その一方で、屋敷の中は不自然なほど静まりかえっていたのだが。
「義匡さま」
鈴の音にも似た、ひどく愛らしい声音が静寂にひびを入れた。
庭におりてすぐの緑眩しいつるばみの木。
その下に件の姫君はいた。
小袖一枚という、あられもない……けれど実に涼しげないでたちで。
「見て見て」
小さな掌があどけなく手招きをする。
まだ長さの足りないぬばたまの髪が細い腰のあたりで弾むように揺れていた。
「空蝉だよ」
水干の袂を引っ張られて、灰が混じったような茶色の幹に顔を近づける。
そこには確かに空蝉があった。
どこか白けた土色の、奇妙なかたちの抜け殻が幹の半ばにしがみついている。
目を凝らして初めて見えるような、小さな鉤爪でもって。
この中に詰まっていたのは、喧しくも果敢ない一匹の蝉。
しかしそのすがたを感じさせるものなど、この抜け殻には微塵も無い。
「見て、蟻がいる」
細い指が示すとおり、ぱっくり割れた羽の無い背からは細かな蟻が盛んに出入りしていた。
それは歌題になるような、美しい光景では決してない。
「早起きだね」
感心したように小さく呟き、それから姫君は悪戯っぽい笑みを珊瑚色の口許に浮かべた。
「でも珠珂瑠(すがる)も義匡さまよりは早起きだよ」
猫を思わせる、綺麗なかたちの瞳を細めて。
「……はあ」
何と答えてよいか分からずに、義匡は間抜けな声を上げた。
嗜めるなら何処から嗜めていいか分からないし、ここで自分の大失態を謝るのも何だか格好がつかない。
仕方なく、義匡は全然違う事を口にした。
「ですが、邸内の方も随分静かですね」
もっともこれは先ほどからの疑問でもある。
しん、と静まった屋敷は、まるで自分たちしか今ここにいないかのようだ。
「え?」
一瞬、不思議そうに珠珂瑠が目を見開く。
だがすぐに明るく笑いだした。
「だってまだ義匡さまが珠珂瑠のところにいるんだよ? だからこの屋敷だけはまだ夜が明けていないの。夜明けは義匡さまと入れ替わりだよ」
軽やかな笑いとともに告げられた理由は。
「あ」
言われてみれば当然のことだった。
露顕の儀は男が女のもとに3日通い終えてから。
それまで男は夜明け前に帰らなくてはならない。
それが男女の慣わし。
「今すぐ帰ります」
自分の迂闊さが情けなく、義匡は頭を抱えたくなってしまったが。
「もう帰っちゃうの?」
珠珂瑠は円らな瞳に翳りを浮かべた。
「はい?」
「もう少し、一緒にいようよ」
「いえ、ですから……」
「お庭一周分だけ。ね?」
「は?」
思わず義匡は広い庭を見まわした。
それから。
下から自分の顔を覗き込んでくる珠珂瑠に目を向ける。
ねだるようなその表情は、やはり恐怖を知らない小猫のようで。
「姫君は……恐ろしくないのですか?」
昨夜からつい訊けずにいたことを訊いてしまった。
返る答えはどうあれ、胸の奥に隠した本音は分かりきっていたけれど。
「義匡さまのこと?」
重ねた視線をそのままに、珠珂瑠が軽く小首を傾ける。
義匡は小さく頷いた。痛みを覚悟するかの如く、知らず胸の奥が硬くなる。
珠珂瑠が僅かに眉根を寄せた。
手を入れた形跡のない、凛とした流れの眉を。
「義匡さまはどう思っているの?」
玻璃を爪弾く声音とともに、つよい視線が義匡を貫いた。
「すがる」と名に負う蜂そのままの、尖った針を思わせる鋭さで。
「私……?」
初めて発する言葉のように心許なく呟き、義匡は己が水干の菊綴をおさえた。
「義匡さまはご自分が恐ろしい?」
ただまっすぐに自分を見上げるふたつの瞳。
そこに在るのは、今まで触れたことのない光だった。
「……ひとは私のような者を「鬼」と呼びます」
臆した、と他人に言ったら笑われるかもしれない。
だが本当に恐かったのだ。
何と答えても、己の犯した罪科のすべてが詳らかになってしまいそうで。
武士の家に生まれたさだめとはいえ、この手が鮮血に穢れていることに変わりはないのだから。
「そうだね……」
不意に珠珂瑠は神宿る鏡の如き双眸を細めた。
「みんなそう言うね」
華奢な肩を竦めるように微笑んで。
「でもね、たぶん……珠珂瑠は義匡さまが好きだよ。だってときわ丸を渡してくれたもの」
見蕩れる間も与えず、珠珂瑠は義匡に背を向けた。
先にたって、庭の東よりへと歩みを進める。
その背で揺れる艶やかな黒髪は、空を翔けるすがる蜂と同じ色。
「ときわ丸……?」
聞いたことのない名前に義匡が戸惑っていると。
「昨日の虫の名前。今付けたの。きれいな緑色をしていたでしょ?」
珠珂瑠が遣水の前で声を張り上げた。
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