越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

               時の想い出  (スポーツする女)                                                                          
                                            Kenangan  Masa 1952年 インドネシア


   【解説】

  『時の想い出』は、ドクトル・フユン(日夏英太郎)の独立インドネシア時代の『天と地の間に』・『レストランの花』に次ぐ3本目の作品で、彼の遺作となりました。

  『時の想い出』は、1951年8月にクランク・インし52年の初めに封切られました。
はじめ『スポーツする女』というタイトルでしたが、上映時点で『時の想い出』に変更されました。

  ドクトル・フユンは1952年9月9日、還らぬ人となりました。
内臓の病気だったと云うことです。6月からジャカルタ市内の病院に入院していたといいます。

 43才の早すぎる死でした。
もっと生きてほしかった !

 思えば、彼が1941年朝鮮の京城に渡って『君と僕』を撮影、上映してから、まもなく始まった日本対米・英国などの連合国軍との太平洋戦争で、陸軍報道班員(宣伝班員)として42年11月インドネシアに赴いてからずっと、45年の日本の敗戦の一時期、小休止しただけで、根をつめたドラマと映画製作により身体を壊したのではないかと思っています。

 フユンの祖国朝鮮は、1910年から45年8月の日本の敗戦まで、日本の植民地として日本の統治下にありました。

 朝鮮映画作家として、苦難な時代を日本映画界で歩んだフユンは、朝鮮人でありながら結果として、日本の朝鮮総督府に協力して『君と僕』という内鮮一体の映画を作ったことが、日本の敗戦・朝鮮の独立という歴史の大転換を見て、彼の心の呵責となり、葛藤の末、祖国朝鮮に帰ることも、妻子の待つ日本へ戻ることも断念し、新生インドネシア共和国で生きていくことを決断したのではないかと、私は考えております。
 
 インドネシア映画の黎明期、フユンは1949年暫定首都ジョクジャカルタで6本のドラマを作り、1950年からは独立インドネシアの首都に復帰したジャカルタで、話題作となった『天と地の間に』を始め、彼の製作会社キノ・ドラマ・アトリエを率いて3作品を製作・監督しました。

 文字通り寝食を忘れての演劇・映画製作でした。

 映画製作に命を賭けた人、それがフユンでした。

 私は2004年11月、ジャカルタのウスマル・イスマイル映画センターを訪ねた際、フユンを描いた韓国のテレビドキュメンタリー『三つの名前を持つ映画作家』(キム・チェボム監督/1997)を鑑賞させてもらい、期せずしてフユンの最期の穏やかで、安らかな寝顔を見ることになり、父・フユンは自分のなすべきことをしたのだと悟りました。

 微笑んでいるようにも思えました。

 さて、映画の話に戻りますが、『時の想い出』はスポーツを題材にして時代を先取りした映画だったと思います。
歌と踊りも散りばめ、適度にインドネシアの家庭の近代化も顔を出すという作品でした。

 


  【物語】
 
 主人公のマリア(Maria)は、陸上競技に打ち込んでいる。
マリアは、幼くして父親を亡くし、裕福なサストラネガラ家へ養女に出され、サストラネガラ家の長男アンワル(Anwar)と実の兄妹のように仲良く育った。
 
 サストラネガラ夫人は何かとマリアに辛くあたり、アンワルの婚約者であるスミアティ(Sumiati)と一計を案じ、マリアを装飾品泥棒にしてしまう。

  しかし、マリアはスポーツで培われた強い精神によって、この危機を脱する。

  いつしか、マリアの実母と弟がこのことを知るようになり、マリアは田舎に戻る。

  マリアは、サストラネガラ家への感謝の気持を持ちながら、スポーツで鍛えた体と精神で貧しく苦しい生活を乗り切り、逞しく生きて行く。


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