越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

                   アジアの夢・アジアの遺産                      

                               天と地の間に  

                        Antara Bumi dan Langit                                                                                                                   (1951年インドネシア)


 

  ドクトル・フユンの再評価

 1997年10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭と釜山国際映画祭が、ほぼ同時期にアジアの夢・アジアの遺産として、他の数作品と共にドクトル・フユンの「天と地の間に」を上映いたしました。 

 下記は、山形国際ドキュメンタリー映画祭のパンフから引用させていただきました

 

天と地の間に(フリエダ)

 ー国際交流基金アジアセンター、フィルム・コーディネータ 【石坂健治氏の解説】  ー

 『天と地の間に』は、戦前から戦後にかけて、朝鮮、日本、インドネシアで映画を作り、朝鮮名=許泳(ホヨン)、日本名=日夏英太郎、インドネシア名=ドクトル・フユンという三つの名前を持つ越境の朝鮮人監督フユン(1908-1952)の、インドネシア時代の代表作である。

 京都の映画界に入って衣笠貞之助『大坂夏の陣』(37年)の助監督につき、日本統治下の朝鮮へわたって監督作品『君と僕』(41年)を発表したのち、ジャワでプロパガンダ映画『豪州への呼び声』(44年)を作ったフユンは、終戦後祖国へ戻ることなく独立インドネシアの映画・演劇界に留まり、ウスマル・イスマエルらとともに「インドネシア映画の父」と呼ばれるにいたり、ジャカルタで世を去った。

 対オランダ独立戦争下、自己のアイデンティティを模索する混血女性をヒロインに据えた本作は、インドネシア映画史上初のキス・シーンが登場すると報じられ(実際は映倫が関与して削除)、また民族問題を正面から扱った映画として、大きな話題になった。原作を執筆したのはインドネシアを代表する文学者、アルミン・パネである。

 フユンに関する研究としては、内海愛子・村井吉敬共著『シネアスト許泳の「昭和」』(鎧風社刊、87年)がすでに発表されていたが、本97年に入り、オーストラリアに残されていた『天と地の間に』のネガから山形国際ドキュメンタリー映画祭と釜山国際映画祭が共同でプリントを起こし、両映画祭で相次いで上映。日韓でフユン再評価の動きが始まった。

 フリエダとアビディン

  【物 語】

 1910年代、東ジャワ高原、アルジュナ山の裾野に広がるマランの町。少女フリエダはオランダ人の父とインドネシア人の母の間に生まれた混血児で、オランダ人の上流階級の中で生活していた。                                          腕白な彼女の遊び仲間アビディンがインドネシア人なので、フリエダは大人たちから「お前はヨーロッパ人、アビディンは原住民。だから遊んではいけない」 と言われるのだった。

 1945年。父母とはなれて一人でジャカルタに暮らすフリエダ。一方のアビディンは医師となり、妻と二人の子供と一緒にバンドゥンにいる。彼は、独立闘争のリーダーとしても活動している。日本の敗戦を機にインドネシアを手中に収めたいオランダ軍は黒メガネの工作員をフリエダのもとへ派遣し、フリエダはオランダ軍工作員の助手となる。

 ある日、フリエダはホテルで偶然アビディンとの再会を果たし、子どもの頃のように再び親交を深めていく。               フリエダはオランダとインドネシアの狭間で自己の存在を模索して悩むが、結局何も知らないアビディンを利用して秘かにオランダ軍の武器の輸送を手助けしてしまう。

しかし、自分が運んだ武器で混血のロビンが傷ついているのを見たフリエダは、ついにインドネシア人としての自我に目覚め、オランダ軍の仕掛けた列車爆破計画を阻止する。工作員らはインドネシア軍に包囲され、銃撃戦の末に射殺される。フリエダ、ロビン、アビディン夫妻は新生インドネシア人として生きていくことを誓う。

 ⇒ 1997年12月には、第2回アジアフィルムフェスティバル'97(東京赤坂・国際フォーラム)においても、『天と地の間に』が上映されました。

 


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