越境の映画監督 日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】
2011年6月20日更新
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1945年8月14日、日本政府はアメリカ・イギリスなどの連合軍から出されていたポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をして太平洋戦争が終わりました。
日夏英太郎がいたインドネシアは、日本の敗戦からオランダ軍が再侵略をしてこない3週間ほど、「独立、ムルデカ」の大歓声で湧きかえりました。 彼は祖国朝鮮へも、妻子が待つ日本へも戻ることを断念して、新生インドネシア共和国の対オランダ独立戦争に映画・演劇人として参加して、この国で生きていくことを決意しました。
彼はインドネシア時代、ドクトル・フユンとして新生インドネシアにふさわしい希望ある作品を作っています。 |
「天と地の間に」撮影中のドクトル・フユン(アネカ誌掲載) |
英太郎は日本におけることは一切がっさい、新しい家族には伝えていなかった様でした。 彼は1947年に、暫定首都のジョクジャカルタで、映画・演劇学校のキノ・ドラマ・アトリエを作り、校長として学生たちに映画論を教えました。
1949年には彼は同じくジョクジャカルタで、ドクトル・フユンとして、『ジョクジャカルタ住民ルポ劇』『最後の護送』『レビュー・ファンタジア』『嵐の中のロシナ』、中国革命を題材にした『聖夜』、彼の最後の演劇作品となった『ドクトル・カンボジャ』などを発表しています。
英太郎はまた、戦禍で被害をうけたソボハルソナ館やスニ・ソノ館などの劇場の修復をしています。 父・日夏英太郎は、1952年9月9日還らぬ人となりました。 英太郎が、陸軍報道班員としてジャワに渡ってから、ちょうど10年が経っていました。 彼は、映画人として、自分の才能を開花した人だったと思います。
日本は戦争に敗れた。 いずれにしても、日夏英太郎が歴史のはざまで苦難の人生を歩みながらも、激動の時代を熱く生きた人であったことは確かです。 |
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― 日夏英太郎がジャワに出征した時、妻の花子は25才でした ― 戦中・戦後の食料も乏しく、生きていくのが困難だった時期を花子は、憲之介と、もえ子という幼い2人の子供を抱え女の細腕で乗りきらなければなりませんでした。 どうにか、生活にも目途がついた頃、長男・憲之介が死亡するという不幸が花子を襲いました。 1948年(昭和23)8月1日、長男の憲之介は友達と遊びに出たまま帰らず、花子が懸命に捜しあてたときは、池袋駅近くの放置されたまま、簡単な柵だけが囲ってあったに過ぎない“鉄道プール”で憲之介の身体が浮いていたということです。溺死でした。 ― あまりにも運命は残酷でした ― わずか10才の、いたいけな憲之介を、愛する母から奪っていきました。 このことが、花子にもたらした絶望感は想像を絶するものがあった様でした。 中学生になっていた私に、その頃のことを母は“長男だから憲之介を頼りにしていたの”と、目に涙をためながら話しました。 |
私は話を聴いていて、母の心中のつらさが分かるだけに何も言うことは出来ませんでした。 人生においてはどうにもならないことがあるのだということを、私は子供のときから、父・英太郎の戦争からの未帰還と兄の死を通して学びました。 母の花子は、美しい人であると同時に商才に長けた人でもありました。 花子は飲食業を経営し、ほどほどの成功を収めていましたが、40才ごろから病におかされ、入退院を繰り返し、1960年(昭和35)7月腎不全で、東京大学付属病院にて亡くなりました。 私が17才、高校3年生の時でした。 花子がかつて味わった絶望感を私も身を持って体験したわけですが、自宅でひとり、弾けないウクレレをただ、つま弾くことによって、その音色によって私の心は癒され救われ た様な気がいたします。 花子の死は、父・英太郎がジャカルタで病死してから、8年の歳月が経っていましたが、花子・英太郎ともに43才での永眠でした。 |
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私は時折、父の英太郎について語った母・花子の言葉を思い出します。
高校1年生だった私に花子は「芸術家は冷たいわ。あなたは普通の人と結婚しなさいね」と、もらしていました。 でも、最近になって父の作品を紐といていくうちに、私は英太郎の家族によせる愛情に気付きました.。 |
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「おかあさん! お父さんわね、インドネシア時代の作品で、映画『レストランの花』や、劇『アジアの花の季節
』にも、あなたの花の名前を採っていますよ。 近くで優しくしてくれるだけが愛じゃないもの。たとえ、遠く離れていても、一生逢えなくても人を 愛し続けることはできますよ。
お父さんは、ずっと私たちを思っていてくれましたよ。
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