越境の映画監督  

   日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】


                                   ☆ その後の英太郎と花子 (インドネシアと日本で・・・)

                                             2011年6月20日更新


 

 1945年8月14日、日本政府はアメリカ・イギリスなどの連合軍から出されていたポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をして太平洋戦争が終わりました。

 日夏英太郎がいたインドネシアは、日本の敗戦からオランダ軍が再侵略をしてこない3週間ほど、「独立、ムルデカ」の大歓声で湧きかえりました。

 日本の敗戦、朝鮮の解放、インドネシアの独立といった歴史の大転換期に遭遇した英太郎は、それ迄の日本軍部に協力して映画作りを進めた己が良しとした価値観が見事なまでに崩れ落ちていくのを感じないわけにはいきませんでした。

 彼は祖国朝鮮へも、妻子が待つ日本へも戻ることを断念して、新生インドネシア共和国の対オランダ独立戦争に映画・演劇人として参加して、この国で生きていくことを決意しました。

 彼はインドネシア時代、ドクトル・フユンとして新生インドネシアにふさわしい希望ある作品を作っています。

 英太郎は再婚しました。


     
 「天と地の間に」撮影中のドクトル・フユン(アネカ誌掲載)
                                  


 私は2004年11月にジャカルタ市にあるウスマル・イスマイル映画センターを訪れて、英太郎の資料調べをした折、韓国で製作されたフユンに関するビデオ・ドキュメンタリー 『三つの名前を持つ映画作家』(キム・ジェボム監督/1997年)を鑑賞しましたが思いがけず画面で、英太郎の妻となった人と娘に対面してしまいましたが、私は現実は現実として淡々と受け入れることが出来ました。

 英太郎は日本におけることは一切がっさい、新しい家族には伝えていなかった様でした。

 彼は1947年に、暫定首都のジョクジャカルタで、映画・演劇学校のキノ・ドラマ・アトリエを作り、校長として学生たちに映画論を教えました。

 1949年には彼は同じくジョクジャカルタで、ドクトル・フユンとして、『ジョクジャカルタ住民ルポ劇』『最後の護送』『レビュー・ファンタジア』『嵐の中のロシナ』、中国革命を題材にした『聖夜』、彼の最後の演劇作品となった『ドクトル・カンボジャ』などを発表しています。

 彼のジョクジャカルタ上演ドラマは、後にインドネシア大統領となったスカルノも観劇にきていたといいます。

 英太郎はまた、戦禍で被害をうけたソボハルソナ館やスニ・ソノ館などの劇場の修復をしています。

 映画、演劇に寄せる一途な思い、そしてその実現を目指すためにあらゆる努力を傾注する。

  ― それが日夏英太郎という人でした ―

 1949年12月27日にオランダからインドネシア連邦共和国への主権移譲と、首都ジャカルタの復帰が実現いたしました。

 1950年の初頭には、英太郎はジャカルタに戻り、彼が病で倒れる1952年までに3つの映画を演出しました。

 インドネシアとオランダの混血女性フリエダをヒロインにすえ、2つの国のはざまで思い悩み、ついに新生インドネシア人として生きることを決意した骨太の作品『天と地の間 に』や 偽善を嫌う孤独な風来
坊の青年イスカンダルと最後には彼に惹かれるアニを描いた『レストランの花』、そしてスポーツをテーマにした『時の想い出』です。

 父・日夏英太郎は、1952年9月9日還らぬ人となりました。

 英太郎が、陸軍報道班員としてジャワに渡ってから、ちょうど10年が経っていました。

 彼は、映画人として、自分の才能を開花した人だったと思います。

 日本は戦争に敗れた。

 しかも、英太郎は日本植民地時代の朝鮮人でありながら、日本軍部に協力した映画『君と僕』を製作したため祖国に戻ることをためらい、あきらめざるを得なかった。

 そして、妻子の待つ日本へも・・・。
 
 私は、英太郎の決断はかなり苦しく厳しいものだったに違いないと思っています。

 いずれにしても、日夏英太郎が歴史のはざまで苦難の人生を歩みながらも、激動の時代を熱く生きた人であったことは確かです。


40才頃の花子 (於・新宿御苑)

 ― 日夏英太郎がジャワに出征した時、妻の花子は25才でした ―

 戦中・戦後の食料も乏しく、生きていくのが困難だった時期を花子は、憲之介と、もえ子という幼い2人の子供を抱え女の細腕で乗りきらなければなりませんでした。

 どうにか、生活にも目途がついた頃、長男・憲之介が死亡するという不幸が花子を襲いました。
 1948年(昭和23)8月1日、長男の憲之介は友達と遊びに出たまま帰らず、花子が懸命に捜しあてたときは、池袋駅近くの放置されたまま、簡単な柵だけが囲ってあったに過ぎない“鉄道プール”で憲之介の身体が浮いていたということです。溺死でした。

― あまりにも運命は残酷でした ―

 わずか10才の、いたいけな憲之介を、愛する母から奪っていきました。

 このことが、花子にもたらした絶望感は想像を絶するものがあった様でした。

 中学生になっていた私に、その頃のことを母は“長男だから憲之介を頼りにしていたの”と、目に涙をためながら話しました。

 
  また、後になって母は“憲之介のお友達のSさんが防衛大学に受かってパイロットになるんですって”と、そのお母様に偶然、町でお会いして聴いたことを嬉しそうに、そして羨ましそうに話して いました。

  私は話を聴いていて、母の心中のつらさが分かるだけに何も言うことは出来ませんでした。

 人生においてはどうにもならないことがあるのだということを、私は子供のときから、父・英太郎の戦争からの未帰還と兄の死を通して学びました。

 母の花子は、美しい人であると同時に商才に長けた人でもありました。

 花子は飲食業を経営し、ほどほどの成功を収めていましたが、40才ごろから病におかされ、入退院を繰り返し、1960年(昭和35)7月腎不全で、東京大学付属病院にて亡くなりました。

 私が17才、高校3年生の時でした。

 花子がかつて味わった絶望感を私も身を持って体験したわけですが、自宅でひとり、弾けないウクレレをただ、つま弾くことによって、その音色によって私の心は癒され救われ た様な気がいたします。

 花子の死は、父・英太郎がジャカルタで病死してから、8年の歳月が経っていましたが、花子・英太郎ともに43才での永眠でした。

  私は時折、父の英太郎について語った母・花子の言葉を思い出します。

 高校1年生だった私に花子は「芸術家は冷たいわ。あなたは普通の人と結婚しなさいね」と、もらしていました。

 また、「出世欲の強い人は嫌」とも言っていました。

 ときどき、私は花子の言葉をかみしめています。
 
 父・英太郎は、映画製作に全てをかけた人だった。

 そのため家族は寂しい思いもしなければならなかった。

 でも、最近になって父の作品を紐といていくうちに、私は英太郎の家族によせる愛情に気付きました.。

 「おかあさん! お父さんわね、インドネシア時代の作品で、映画『レストランの花』や、劇『アジアの花の季節 』にも、あなたの花の名前を採っていますよ。

 そしてね、代表作の『天と地の間に』の冒頭で遊ぶ、幼いフリエダとアビディンは私と憲之介兄さんをイメージしたものと私には直感でわかるの。シナリオの“フリエダとアビディンは花の上に座った。アビディンはクムニンの花をフリエダの頭に飾ってやる ”という件にも、あなたの名前が出てくるではないですか!

 近くで優しくしてくれるだけが愛じゃないもの。たとえ、遠く離れていても、一生逢えなくても人を 愛し続けることはできますよ。

 お父さんは、ずっと私たちを思っていてくれましたよ。
 
 もう、ずっと遠い日のことになってしまいましたがね・・・」 と、

 私は亡き母の花子にそっと語りかけました。

          
                           完
 


                                   
            インドネシア時代のことは、 内海愛子・村井吉敬共著 『シネアスト許泳の昭和』(凱風社) 参照させていただきました。
                                  


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