越境の映画監督
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日夏英太郎が永遠の眠りについた、ジャカルタ市にあるプタンブラン墓地の墓碑銘には、― ドクトル・フ
ユン 1908年9月21日満州生まれ、1952年9月9日ジャカルタ 没 ― と刻まれている。 私は2000年12月、父・日夏英太郎についての詳細を記した1冊の本・『シネアスト許泳の昭和』と運命的な出会いをすることが出来ました。 私は日夏英太郎の娘でありながら、それまで父のことは殆ど知りませんでした。いえ、知ろうという努力さえ怠っていたというほうが、当たっているのかもしれません。そういう意味では私は 不肖な娘であったといえるでしょう。 |
内海愛子・村井吉敬 共著
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父が亡くなった1952年9月は、私が10才の頃にあたり、母から、「お父さんは、太平洋戦争で陸軍報道班員としてジャカルタに出征したまま、未帰還なのよ」と聞かされて育ち、たぶん父は戦死したのだろうと思っていた私にとっては、大きな衝撃でした。 父・日夏英太郎は、私が10才のころまで、生きていてくれたのだ ! そして、インドネシアで映画まで撮っていたのだ ! 私の心には、ぱっと陽光が射し、さきほどの衝撃は大きな喜びに変りました。 父の死が43才なら、母・花子がこの世から召されたのも、1960年(昭和35)7月で、奇しくも共に43才でした。 相ふれ合う魂というものが、あるものかどうか私には分かりませんか゛、感慨深かったのも事実です。 日夏英太郎は再婚していました。子供もいるということでしたが、私には自然のことのように受けとめることができました。日本兵で戦後も祖国に戻らず、他国の独立運動に身を投じたり、現地の女性と結婚した人も結構いるということを、新聞・雑誌などで読んだことがあったからですが、それにしてもわが身にも関係ある記事になる等とは、当時は想像も及ばないことでした。 父が、戦後しばらく生きていてくれた、そして命ともいえる映画を作っていた、もうそれだけで私には十分だったのです。 一度は海を渡り、南国のインドネシアを訪ね、父のお墓参りをしたい !というのが、その頃からの、私の念願となりましたが、幸い息子が、「ぼくもおじいさんの墓参りがしたいので、母さん一緒に行きましょう」 と言ってくれ、 息子の仕事上の都合などから、2002年12月にスタンバイOKとなっていたのですが、10月にバリ島のディスコが、イスラム急進派のテロに遭い、190名の方が命を落とし、ジャカルタには、東南アジア最大のジェマア・イスラミアなどのテロ組織もあるということで、やむなくキャンセルを致しました。 前年2001年の9月11日にはアメリカでアルカイーダの仕業といわれる米中枢同時多発テロがあり、ニューヨーク・世界貿易センタービル、ピッツバーグ近郊・国防総省などへハイジャックされた飛行機が突撃 して、死者・行方不明者3200人余りの惨事を出すにいたりました。
10月2日には、アルカイーダへの報復にもえるアメリカによるアフガニスタンへの空爆が開始され、世界は不穏な空気でおおわれ始めていました。
日本もイラクの復興を助けるということで、サマワに自衛隊を派遣しています。
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