越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

       Film. Who's who  映画関係の人名辞典〕 からみた

                      日夏英太郎の横顔
 


 

 

       彼の2作品目(1951年):

       『レストランの花』を
    
     撮影中の日夏英太郎(中央)

       (ジャカルタP.F.N. スタジオにて)
                    

 

 

 

       ― 下記はFilm. Who's who  〔映画関係の人名辞典〕から引用したものです―

(ドクトル)フユン

  映画監督(韓国、1907年*。ジャカルタ、195299日)
 
 本名:日夏平太郎*

  教育:東京の早稲田大学学部卒業(1938年)。学生時代より、既に演劇と映画に興味を 持つ。映画に関する知識は、ドイツのUFAスタジオで一層深められることになった。
日本の占領軍と共にインドネシアに姿を現す。当初は、検閲官として知られていた。
その後、演劇分野でも活動するようになる。

 独立宣言以降、彼はインドネシア側に合流した。名前をフユンと変えてジョクジャカルタへ皆と共に避難。ジョクジャでは映画クラブで講演を行っていたが、その参加者の中にはウスマル・イスマイルもいた。

 その後、R. M.ハルヨトに率いられるマタラム・エンターテイメント財団(Stichting Hiburan Mataramのプロジェクトとして、キノ・ドラマ・アトリエ(KDAを設立。

 キノ・ドラマ・アトリエは、我が国初の映画・演劇に関する学校であった。その生徒の一人にはスマルジョノがいる。1950年ジャカルタに転居。キノ・ドラマ・アトリエの名前で、インドネシアで初めてキスシーンを描いた「天と地の間に」(1950年)を製作する。
この映画は検閲で拒否されたが、かなりの修正を施した後「フリエダ」という題名で発表された。
 

 フユンのその他の作品には、「スポーツする女」「時の想い出」「レストランの花」があり、全て1951年の作品である。

 インドネシア国立映画制作所はそれらの功績を讃えて、フユンとその葬式についての映画を特別に製作している。

Film. Who's who 1926〜1978年


    注 釈

   1.生 誕 1907年→1908年

  2.名 前 日夏平太郎→日夏英太郎

  * 私は、母の花子からは父・英太郎が早稲田で学んだということは聞きました(聴講であったかもしれま
       せん)が、早稲田大学を卒業したことは確認していません。
    また1938年は彼が京都下加茂撮影所の演出脚本部で、演出補をしたり脚本を書いていた時代にあたります。   

                                                2005.12.27


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