越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

 
ドクトル・フユンの追悼記事  〔映画誌「アネカ」1952年9月10日号〕
                              
   (ジャカルタ)



ドクトル・フユン追悼記事―   (アネカ誌1952.9.10号を引用)

 195299日火曜日の夕方、ドクトル・フユンは、家族や親しい友人らによって最後の休息の地となったプタンブランへ移送された。

インドネシア国籍を持つこの韓国人の早すぎる死(若干43歳であった)は、家族やキノ・ドラマ・アトリエにとって喪失であるばかりでなく、当然ながら、ここインドネシア映画界にとっても一つの喪失を意味している。
なぜならば、インドネシアが独立を勝ち取ってから全主権を得るまでの間の私たちが知っているドクトル・フユンの短い生涯は、ほんの些細な事と見なしてはならない一つの闘いであったからである。
彼は闘争家であった。一つの社会の建設に際しては、いかなる状況の下であれ「娯楽」の意義は非常に大きいのである。
この闘いでは、(演劇という娯楽は)その素晴らしい効果がすでに証明されており、ちょうどジョグジャが、我が民族に戻されようとしているところであった。
そして、この「娯楽」という闘争は、ジャカルタが行政の中心となった後、その将来を映画に託していったのである。
 我々はドクトル・フユンが勝ち取った「娯楽」を、その最後の作品である「スポーツする女」と「時の想い出」に見ることができる。
また、セルロイドのみに限られているわけではない。
もし「アネカ」誌上でのシリーズ作品が、この突然の訃報により途中で中断されることがなかったならば、遅かれ早かれ我々は「娯楽としての映画」と彼が述べていたものを見出すことができたに違いない。

この「アネカ」誌上でのシリーズ作品が中断したという特別なできごとは、「アネカ」にとってもそう簡単にはその続きを探すことができない、一つの中断である。

「アネカ」にとってこの中断とは、ある特定の事柄が中断することを意味しているだけではなく、それ以上のことである。時にそのクライマックスが盛り上がり過ぎる、上述の映画作品における娯楽についてドクトル・フユンが語ったことで「意見の相違」があったにもかかわらず、ドクトル・フユンは、ただ「意見の相違」があるというそれだけの理由で簡単に逃げ出そうとする人物ではなかった。それどころか、彼はさらに「アネカ」に歩み寄ろうとしていた。
 それ故、「アネカ」がドクトル・フユンに彼の墓前で「最後のお礼」を述べる時間がないとしても、この我々の短い書き物がその代わりとなり得るであろう。
そして、インドネシア国籍を持つ韓国人である故人についてのこの短い書き物が、彼の家族とキノ・ドラマ・アトリエの人々の心の空洞を静める一滴の水滴となってくれることを「アネカ」は願っている。

故ドクトル・フユン
インドネシア映画界は進歩的な人物を失った。

 

  アッラーより生まれアッラーのもとへ帰る。

 「アネカ」社員一同、慎んでお悔やみを申し上げます。

「キノ・ドラマ・アトリエ」製作会社代表、ドクトル・フユン氏は、195299日ジャカルタにおいて、数ヵ月間の病気療養後、逝去されました。

 故人の霊魂が、特に芸術映画分野におけるその生前の善行と献身に見合った完璧な居場所を得られますように。

1952910日ジャカルタにて

 


フユンは、キノ・ドラマ・アトリエで発行している映画誌『アネカ』の1952年4月20日号から6月1日号まで5回にわたり「映画人メモ」という題で連載記事を書いていましたが病気のため、6月10日号以降の記事を執筆することは出来ませんでした。

そして3ヵ月後の9月9日、44才目前で、短い人生を閉じました。

闘病中の3ヵ月間、父・フユンの胸に去来していたものが何であったか、時々私は想いをめぐらしてみることがありますが、やはり映画製作のことしかなかったのではないかと考えます。

父は映画を作るために生まれてきた人であり、

もっともっと心にあたためていた作品を作りたかったと思います。

しかし、ドキュメンタリービデオで観た父の最期の表情はとても穏やかでした。

微笑んでいる様でさえありました。

祖国朝鮮は父が生まれて間もなく日本の植民地となり、戦争を背景とした歴史の狭間で父が苦難の道を歩んだことも確かです。

でも、映画人としては、日本映画界で育てていただき、黎明期のインドネシア映画界で映画製作・演劇指導に活躍することが出来て、恵まれた一生だったのではないかと私は考えております。

                                      2005.12.20

 


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