朝鮮半島・満州  「鴨緑江節」
 

                            2012年3月12日
                                 2012.5.30更新


 

 韓国仁川港

 


 

  • 日本は日露戦争(1904〜05)に勝利後、アメリカ大統領セオ
    ドア・ルーズヴェルトの仲介でロシアとの間で、1905年8月に
    ポーツマス条約を結びましたが、第2条韓国に対する指導権で
    1910 (明治43) 年には韓国併合をし、第5.6条旅順・大連の
    租借権、長春以南の鉄道の権利により、清国領土の南満州へ
    進出しました。

    日本は米国から石油・屑鉄、工作機械などを買入れて備蓄
    するための決済手段として「金」が必要でしたが、朝鮮北部の
    山岳地帯には金鉱の埋蔵量が多かったため、大企業の日本
    鉱業や中企業の小林鉱業などの鉱山会社が進出し、金やタ
    ングステン採掘を競い合っていました。

    金華鉱山、箕州鉱山、百曹年鉱山などの多くの鉱山が山あい
    の渓谷にあり、採掘場、選鉱場、従業員1000人ほどが住む
    社宅が密集していたと言われます。

    鉱山の下流には、鉱山の選鉱場から洩れて渓流に流され、
    川底に沈んだタングステンを採取して鉱山に買い取ってもらう
    朝鮮人の砂鉱採り聚楽も軒を並べていた様です。

    鴨緑江岸の町に昌城(水没するので移転した)がありましたが、
    1935年ごろから、ここに巨大な「水豊ダム」が造成されていました。
    (満州の松花江では、「豊満ダム」が建設中でした)

    鴨緑江は水豊ダムにせき止められ、さながら溜池のようであっ
    たと言われます。

    太平洋戦争で敗色が濃くなった1944年3月に水豊水力発電所
    と共に竣工。

    工事場近くには電力会社や建設会社の事務所があり、社宅や
    飯場、病院など人口10000人余の町が形成されていました。

    内地人の経営する飲食店は数件あり、内地から若い女性たちも
    働きにきていたと言われます。

    当時もそれ以前も日本の農村は貧しく飢饉も発生しましたので、
    口減らし、あるいは家族のため身売りされる女性も多く、女性が
    尊厳をもって生きられるようになったのは、極端に言えば戦後
    10年たった1955年ぐらいからとも言えます。

    貧乏な農家で育ち、遊郭に身売りするより、朝鮮に渡って働け
    ばいい稼ぎになり、親に仕送りできると半島にやってくる内地
    女性もいました。

    比較的近くの来温温泉には設備の整った旅館があり、ダムの
    発電所やダム現場、国境警備警察隊の人々も利用していたと
    言われます。

    芸者さんたちが三味線をひき、酒席では日本でも流行った
    「白頭山節」、「朝鮮北境警備隊の歌」「鴨緑江節」などが歌わ
    れていました。

      *参照 「遠い日の東アジアで」 中村卯一

     
  • それでは、「朝鮮北境警備隊の歌」(鴨緑江節)をご紹介します。
    (昭和3年流行)

        1.  ここは朝鮮北端の
           二百里余りの鴨緑江
           渡れば広漠南満州

        2.  極寒零下三十余度
           四月半ばに雪消えて
           夏は水沸く百度余ぞ
            

          作詞・作曲 星善四郎(小学校校長を務めた方)

    下記の「鴨緑江節」(恵山鎮節)もご紹介いたしますね。

    鴨緑江節は鴨緑江沿岸の恵山鎮近辺の酒席の唄を出稼ぎの
    日本人筏師たちが伝えて大正時代に流行った歌と言われます。

           朝鮮と支那との境の、あの鴨緑江
           流す筏は、アラ良けれども、ヨイショ
           雪や氷にヤッコラ閉ざされてヨ
           明日も又、新義州に(或は「安東県」に)着きかね
           チョイチョイ
     
           朝鮮で一番高いのはあの白頭山
           峰の白雪アラ解けるとも、ヨイショ
           解けはせぬぞえ  ヤッコラわしが胸ヨ
           夜ごと又、貴方の夢ばかり、チョイチョイ


         
         

     

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旧満州国1.