旧満州国 T.

         2012.3.8記述

 


 


 

1931(昭和6)年に関東軍(満州駐留 の日本陸軍)は、満州事変をおこして、1932年3月1日に清国の廃帝溥儀を執政にして満州国を建国しました 。
34年からは帝政)

首都を新京(現 長春)に置き、「五族協和(日・満・漢・蒙・朝)」と「王道楽土」を唱えました。


しかし、実際は
関東軍の指導のもと、日本人が国造りを行ったと 言われます。

日本軍が北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中に弾丸が飛んできたとし、翌朝中国軍を攻撃した1937(昭和12)年の盧溝橋事件を機に(11日には一旦停戦が結ばれたものの)、日本軍は北京・上海・南京・広東へと戦線を広げ、中国と全面戦争に入りました(日中戦争)

1938年には新京に「満州建国大学」を造り、満州の官吏養成機関ともしましたが、五族協和のスローガンのもと、日本人、中国人、朝鮮人、モンゴル人らが学んだと言われます。

日本の鉄鋼・炭鉱・鉱山・軽金属・鉄道などの企業が進出し、近代化をいっそう進めたようです。

南満州鉄道株式会社(満鉄)は、旅順、大連から新京間の東清鉄道や鉄道付属地、撫順・煙台炭坑などの事業経営のため、半官半民で設立された国策会社でありますが、1934年に大連から新京間に満鉄初の特急「あじあ」を走らせ、翌年には哈爾(ハルビン)まで延長しました。

旅順はアカシアの並木がきれいな街ですが、軍人、役人、教師などの日本人家庭はお手伝いさんを雇い、結構良い暮らしをしていたと言われます。

大連には、満鉄本社(後に
新京へ移転、満鉄大連病院、大日本帝国朝鮮銀行大連支店、大連ヤマトホテル(現 大連賓館)、東洋拓殖株式会社大連支店などが置かれ、橋(日本橋)も架けられました。

これら重厚な建物は現在もおおかた残っていて、名前を変えて使われています。

満州の大都市は、鉄道敷設、ビル建設などで活況を呈していたとも言われます。

また、ロシア人も多く住んでいました。

家庭にはスチームが通り、冬も暖かく過ごせ、都市機能が進んでいたようです。

多くの日本人が満州に渡り、150万人に達することもあったと言われます。

しかし、満州で最も大切な記述は満蒙開拓団の方々のことだと思います。

国策により満州へは、日本の農村から開拓団の人々約20万(家族含む)が入植したと伝えられています。

1942年以降は、成人男子の入植が困難となり(兵役に就く)、15歳から18歳の少年で構成される「満蒙開拓青少年義勇軍」が中心をなしたと言われます。

未開の原野を開拓していては入植者の生活が成り立たないため、国策会社の満蒙拓殖公社が約2000万ヘクタールの土地を満州の農民から強制的に安く買いあげたと言われます。

満蒙拓殖公社は満州に移住する朝鮮農民の支援業務も行っていました。

日本の強引なやり方に不満をもつ農民その他で形成する匪賊がたびたび開拓団を襲ったとも伝えられています。

194589日のソ連侵攻により、満州の関東軍は散り散りになり、開拓団の人々はじめ多くの日本人が命を奪われたと言います。

また生き残った人々も苦難の逃避行を余儀なくされ、その過程で中国残留婦人や残留孤児を生んだとされます。

日本は連合軍から出されたポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、815日に太平洋戦争は、終結しました。

 満州国を語るには、陸軍軍人の石原 莞爾、もと憲兵大慰で満州映画協会理事長の甘粕雅彦、上海での国策映画会社「中華電影」責任者の川喜多長政(戦後、かしこ夫人と共にヨーロッパ映画の輸入に貢献)、清朝王女で日本に協力し、戦後祖国を裏切ったとして処刑された川島芳子、歌手・女優・参議院議員を務めた山口芳子(李香蘭)さんなどが挙げられ ると思います。

 

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