越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】
                                                                       2009年4月13日


   マキノの全面的風貌 
   

 日夏英太郎 23歳  


「映画評論」 
1931年(昭和6)6月号より引用

                              



                   
大阪朝日新聞―5月7日の記事                           
              ― 御難続きのマキノにまたゝ争議起る ―(賃金未払いストライキ)

                  キネマ旬報(5月1日号)「スタジオ街から」
                
「再三のことなので撮影所は割に呑気なもの」
        「スタジオの前に集まって日向ぼっこをしながらブツブツ言っている位なものだ」

 ミナさんは此の二つの報告をお読みになって、彼等マキノの従業員は、何というおとなしい―無智な―唾棄すべきバカばかりの寄り集りであり、そして如何に彼等が没階級的な蛆虫の塵溜であるかを御指摘なされた事と思います。

 残念ながら私も、その蛆虫の一匹であります。
 そもゝ、活動屋という階級―勿論きょうび彼等活動屋共を買いかぶるような方はいないでしょうが―凡そ彼等程、識っているかの如く装いながらその實、「識痴」で、紳士らしく装いながらその實「虚妄」以外の何者でもない階級はありますまい。

 その活動屋であります私達は、恥しいながら去年の秋、給料不払い問題で「争議」を始めました。
 私達二三人は、撮影所を従業員管理に闘い取るべく有らゆる尽力を傾注しましたが力及ばず、その内私達の先輩は社会民主主義者と何時の間にか手を握り合い、「労働と資本とは車の両輪の如きものである。飽まで現状を維持しながら、社会政策的に労働者と資本家とを協調せしめて、搾取を永続しようという虫のよい主張」であるところの「労資協調」で、いとも簡単に争議を片附けたのであります。そして仕事は再び開始されましたが、その虫のよい主張であるところの「労資協調」は、口筆のみに止どまる形式のもので、彼等資本家は労働者を摂取し、然もその賃金さえも払わなかったのであります。そして大朝紙の報道の如く再び争議!を始めましたが、又も従業員は社会民主主義者と手を握り合っています。

 然らば、何故それ等のものを排撃しないか!とあなたは仰有るでしょう!
 だが、そう仰有る前に其のあなたは、私達二三人、しかも此の社会の下ッ端階級が如何なる客観的情勢にあるかを― 同じ労働者でありながら、甚しい階級差位に裏付けられてゐる此の現実を― そして抽象的、概念的にすら理解され得る感情、思想、意識― 等々。

  これらを諄々申す事は、勿論私達の哀しい敗北主義の脆弱さです。未組織であるが為の絶望でさえもあるのです。

 で彼等日向ぼっこをしながらブツゝ言っているような連中は、自分達の最も果さなければ不可ないところの責任をそれら社会民主主義者に回避し、延びんとする新時代とは何ら聯繋を持とうともせず、只一つの小さな安易な生活を憧れ、そこに一時的なりと心理的均衡を保とうとする典型的ルンペン根性以外の何者でも有り得ない淋しい労働貴族なのです。
 甚しい認識不足です!
 彼等の作品が既にそれを物語っています。

 一般に他のすべての作品がそうであるように、より悪いスタンドポイントで彼等も亦人間の個人的本能生活を描くのみであって、それを全体的な社会生活の一部として、ものを弁証法的に絶対見ようとしないのです。これが重要なのではないでしょうか? 急激的に進化するところの今日の映画の、明日の姿がここにこそ腹蔵されているのではないでしょうか? 言い換えればこれからの凡ゆる作品は、従来の社会問題をも、「個人の本性」に帰せんとする認識の方法に対抗して、有らゆる個人的問題をも、社会的観点から見てゆくという方法を強調しなければならないと思います。

 然るに、社会民主主義を尊奉している彼等でありながら、過去に於いて社会民主主義的映画の一本をも製作し得なかったと言う事は、彼等自身が何?に属する芸術家であったかという事を物語るものではないでしょうか!

 「すべての芸術はそれが、可能であるが故に存在するのではなくて、それが必要であるが故に存在するのである」という事がこゝに於てはあまりにも遠ざかった処に佇立していると云った感じではないでしょうか。

 そして、日本映画は茲二三年間の急激に進展した社会状態と共に歩を揃えるべく各社は専心努力していますが、マキノはかつて時代劇黄金時代を現出せしめたマキノ省三氏全盛時代の家長政治に於て単純に享け入れられたところの商品生産制を、今日尚おそのまゝ奉載している。即ち矛盾を以って進行し、絶えず新たに矛盾を作り出してはそれを解決する事が出来ないで、自分たちがそれを獲得し ようと称するところのものの正反対に到達している現象を示しています。

 残滓! 没落!

  我々は今日第三期資本主義社会に於ける小ブルジョアジイの経済的運命を予測出来ます。そして、現代社会の科学的― マルクス主義的分析に依って、現代の日本資本主義が如何なる段階にあるかを知っている者です。

 汝よく備えよ!
  と私は言いましょう。
 
 とりとめないながらも、マキノの全面的風貌(即ち全般活動屋の横顔)を、あなたに理解して頂いた事と思いまして、筆を擱きます。 (5月10日)

 

1931年6月号

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