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越境の映画監督 日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】 |
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マキノの全面的風貌 日夏英太郎 23歳 |
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キネマ旬報(5月1日号)「スタジオ街から」 ミナさんは此の二つの報告をお読みになって、彼等マキノの従業員は、何というおとなしい―無智な―唾棄すべきバカばかりの寄り集りであり、そして如何に彼等が没階級的な蛆虫の塵溜であるかを御指摘なされた事と思います。 残念ながら私も、その蛆虫の一匹であります。 その活動屋であります私達は、恥しいながら去年の秋、給料不払い問題で「争議」を始めました。 然らば、何故それ等のものを排撃しないか!とあなたは仰有るでしょう! これらを諄々申す事は、勿論私達の哀しい敗北主義の脆弱さです。未組織であるが為の絶望でさえもあるのです。
で彼等日向ぼっこをしながらブツゝ言っているような連中は、自分達の最も果さなければ不可ないところの責任をそれら社会民主主義者に回避し、延びんとする新時代とは何ら聯繋を持とうともせず、只一つの小さな安易な生活を憧れ、そこに一時的なりと心理的均衡を保とうとする典型的ルンペン根性以外の何者でも有り得ない淋しい労働貴族なのです。
一般に他のすべての作品がそうであるように、より悪いスタンドポイントで彼等も亦人間の個人的本能生活を描くのみであって、それを全体的な社会生活の一部として、ものを弁証法的に絶対見ようとしないのです。これが重要なのではないでしょうか? 急激的に進化するところの今日の映画の、明日の姿がここにこそ腹蔵されているのではないでしょうか?
言い換えればこれからの凡ゆる作品は、従来の社会問題をも、「個人の本性」に帰せんとする認識の方法に対抗して、有らゆる個人的問題をも、社会的観点から見てゆくという方法を強調しなければならないと思います。 「すべての芸術はそれが、可能であるが故に存在するのではなくて、それが必要であるが故に存在するのである」という事がこゝに於てはあまりにも遠ざかった処に佇立していると云った感じではないでしょうか。 そして、日本映画は茲二三年間の急激に進展した社会状態と共に歩を揃えるべく各社は専心努力していますが、マキノはかつて時代劇黄金時代を現出せしめたマキノ省三氏全盛時代の家長政治に於て単純に享け入れられたところの商品生産制を、今日尚おそのまゝ奉載している。即ち矛盾を以って進行し、絶えず新たに矛盾を作り出してはそれを解決する事が出来ないで、自分たちがそれを獲得し ようと称するところのものの正反対に到達している現象を示しています。 残滓! 没落! 我々は今日第三期資本主義社会に於ける小ブルジョアジイの経済的運命を予測出来ます。そして、現代社会の科学的― マルクス主義的分析に依って、現代の日本資本主義が如何なる段階にあるかを知っている者です。 汝よく備えよ!
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1931年6月号 | |
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| 日本映画論 |