越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

        ☆  京都慕情 


            
「日夏英太郎・花子の足跡を尋ねて 1.」
                                  花山天文台・下加茂撮影所跡地  

                                              2011年6月11日更新


 

京都大学花山天文台

 2005年の晩秋、嬉しいかな、私はたまたま京都に行く機会を得ました。

 私にとって、ほんとうに久しぶりの京都への旅となりましたが、ちょうどmyホームページに『越境の映画監督・日夏英太郎』を執筆中でもあり、私は今回は両親 の息吹が聞こえる町、京都の父母の足跡をたどることに致しました。

 まず、京都の生き字引みたいな、かつて私が2度京都を訪れた際、案内していただき、以来ずっと年賀状のやり取りをしていたMKタクシードライバーだったO氏に連絡し お知恵を拝借いたしました。

 O氏からは、私はもうリタイアしてご案内するのは無理な年令なので、MKタクシーの観光部に連絡して、観光に詳しい人を頼んでみたら如何ですか?というアドバイスをいただきました。

 0氏はご親切にも早速、私が訪ねたい場所の地図、その他の資料を速達で送ってくれました。

 こうして私はO氏の温かい気持を携え、11月9日東京駅から新幹線のぞみ号に飛び乗った次第です。

  翌11月10日、朝9時20分ごろ宿泊している蹴上のホテルに迎えにきてくれたTさん運転のMKタクシーに乗り、私の自宅に残るアルバムに、すがすがしい 容姿で写る父・日夏英太郎の面影を求めて私は京都大学花山天文台に向い、車は途中、立派な某宗教施設を通過して、蹴上からものの15分ぐらいで目的地に到着しました。

 花山(かさん)天文台は京都市山科区北花山大峰町にある京都大学の研究機関で、たまにしか一般公開をしていませんので、残念ながら私は天文台に上ることは出来ませんでした 。

 たぶん日夏英太郎は、ここで澄み切った星空を仰いだのかもしれません。

 天文台の敷地から見る空の色は実に濃く青く、目にしみ入る様でした。

 紺碧の空といった形容がふさわしいのかも知れません。

 私は今まで、こんな鮮やかな空の色を見たことはなかったように思います。

 私も父と同じ天文台のドームを背景にして、ドライバーのTさんに写真を撮ってもらいました。

 私は、父と同じこの場所に立っているということだけで、嬉しかったのです。
 

 
 花山天文台を後にして、私は車中でTさんに昨夜訪れた将軍塚から見た京都の夜景が素晴しかったことを話しました。

 ここから近いので、行ってみませんか?とTさんに云われ、O氏にも勧められていたこともあり、また昼間の京都の眺望も見たいと思っていましたので、私は、またまた花山天文台の反対方向(東方)に位置する青蓮院門跡別院・大日堂の将軍塚にやってきてしまいました。
 
 桓武天皇は784年奈良の平城京から京都の南方の長岡に都を移されましたが(長岡京)、遷都の主唱者藤原種継の暗殺など不祥事があいついで起こっていました。

 この時、和気清麻呂がこの東山山頂に天皇をお誘いして、都の場所にふさわしい旨進言しました。

 

 

      大日堂園内のライトアップと紅葉

         将軍塚

 

 

 ここは桓武天皇が和気清麻呂に勧められ、794年に都を京都に定めた由緒ある場所です。 

 天皇は、京都盆地は三方が山に囲まれ、帯のように河も流れて自然に城のような地形をしているから山背の国を山城の国と定め、都を平安京と呼べと申されたそうです。

 また、長くこの都を護るようにとの祈りをこめて、高さ2.5m程の武将像を土で作り、これに鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させここに埋めるように命じられました。

 この塚を将軍塚といいます。

 1338年ごろ(延元年間)、新田義貞はここに陣を敷いて足利尊氏の軍を敗りました。

 

 将軍塚からは京都市街が最も近くて広く観られます。

 北側展望台からは遥かに高く比叡山がそびえ、大比叡が向って左に、小比叡が右に2つの峰になっていました。小比叡の下に大文字山の「大」の字が斜めに見えるそうですが、私は確認できず残念!

 比叡のずっと手前の白川方面に、銀閣寺、法然院などを望むことが出来ました。

 比叡山の東に東山連峰、西に北山連峰が連なり北山の手前に私がこれから訪れようとしている下鴨や府立植物園の緑の森がわずかながら見え、私はしみじみとした感動を覚えました。

 

     
       将軍塚展望台より北山連峰を望む

 大きな緑の森は京都御所 右の小さな緑は下鴨神社・植物園

 大文字五山送り火は毎年8月16日に行われるお盆の行事です。

 東山如意ヶ嶽の「大文字」を始め「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」に次々と点火され精霊送りの意味を持ち、京都の夏の夜をいろどりますが、私は、西展望台から右から左に順に妙法という文字・船の形・大文字の大の字をひっくり返した左大文字・鳥居をくっきりと目に焼き付けることが出来ました。

 ここ将軍塚から眺める真っ赤に燃える大文字五山送り火はさぞかし素晴しいのではないかと思いました。

 当日は多くの僧侶が北展望台から比叡山に向い読経をあげるとのことで、これもまた見事な光景なのではないでしょうか。

 さすが平安時代から明治初年まで千余年の帝都・平安京であった京都なればこそでしょう。

      かつて下加茂撮影所があった辺りの住宅
       比叡山がそびえています。 
(下鴨宮崎町)


 車は将軍塚がある東山から下り、いちろ右京区下鴨宮崎町の松竹下加茂撮影所跡を目指しました。

 途中、私の父・日夏英太郎が1940年(昭和15)11月と12月に33才のころ入院していた京都府立医大病院前で私は車から降りて、 しげしげと建物を眺めました。

 そういえば、ここの屋上で撮った母花子の写真がアルバムにあったなぁと懐かしく、私は当時を偲ぶことが出来ました。

 府立医大病院前から車は河原町通りを北に向い鴨川が高野川と合流する地点も通過して、鴨川沿いに進み下鴨宮崎町 にある、かつての松竹下加茂撮影所跡にやってきました。

 現在は下鴨小学校と閑静な高級住宅街になっています。

 

 かつての撮影所の背景には、比叡山と大文字山が見え、住宅を挟んだ前側には鴨川が流れ、のどかでまたとないロケーションです。

 松竹下加茂撮影所は1926年(昭和2)林長二郎の「稚児の剣法」が爆発的ヒットを遂げて以来、下加茂カラーと呼ばれる時代劇で一世をふうびしました。

 日夏英太郎はここ下加茂撮影所(1926年からは松竹撮影所と改名)で、彼の24才から30才頃まで(1932年〜38年頃)脚本を書き、助監督を務めていたのでした。

 撮影所の痕跡は少しもありませんでしたが、当時の撮影所が想像でき、英太郎と花子の出逢いもこの場所であったと考えると、私にはすこぶる嬉しいものがありました。

 父の第一回監督作品の『君と僕』の配給でも松竹にお世話になり、感謝の気持でいっぱいです。

 

 私は 出雲路橋から鴨川に出て、川原にじっと佇みました。
 
 この近辺に1938年に結婚した父母の自宅があり、やがて兄・憲之介が生まれ、3人で睦まじく暮らしていたことを想像して、私はひととき幸せな気持に浸りました。

 鴨川には三々五々、都鳥(ゆりかもめ)が連れ立って遊びにきていました。

 家族であったかもしれません。 

 私は微笑ましく、都鳥を眺めました。

 

          美しい下鴨の景観
      白い都鳥が鴨川に何羽も浮かんでいます。

   

 Tさんにお聞きしたところ、都鳥は酷寒の冬のシベリアから日本に渡ってきて、また暖かくなったらシベリアに戻るそうです。

 都鳥は朝、琵琶湖から京都にきて、夕方上昇気流にのって比叡山を越え、琵琶湖に帰るとのことです。

 鴨川べりは桜の名所でもあるとのことですので、来春また訪れることを私は心に誓いました。 


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