越境の映画監督

 日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

        ☆  京都慕情 


        
 洛西  「 マキノ御室撮影所跡地を尋ねて 」 

                            2011年6月5日
                                                


 私は2006年4月6日、か つて私の父の日夏英太郎が、脚本を書き、助監督をしていたマキノ御室撮影所跡地付近を訪ねました。

 当時マキノ映画には、板東妻三郎・市川右太衛門・大河内伝次郎・嵐寛寿郎ら、そうそうたるスターがきらめいていました。

 マキノ省三は、とにかく脚本を大事にして優れた脚本家を育て、面白いものは、どんどんシャシンにしたといいます。

  しかし、1929年に偉大な初代のマキノ省三を失い、経営が悪化し始めていたと言われます。

 英太郎はマキノでは、脚本家の山上伊太郎を尊敬し、中川信夫・鈴木影一郎・人丸京平らと共に競い合っていました。

 英太郎は1931年(昭和6)に、山本九一郎とともにマキノ映画の生んだスターたちの旧作の名場面を再編集した『マキノ大行進曲』を手掛けましたが、お金のかかっていない『マキノ大行進 曲』に客が一番入ったということでした。
                              
 昭和初期のマキノで切磋琢磨して、また、育ててもいただいたのだと思います。

 さて、私は2006年4月6日、新幹線のぞみ号で東京から京都駅にam10:30ごろ到着してから、八条口でMKタクシーに乗車、マキノ御室撮影所があったという、北西にある京福電車妙心寺駅を目指しました。
 

 30分から40分ほど車に揺られて、私は念願の妙心寺駅へやってきました。

                    かつては、撮影所の道具置き場だった郵便局

 

 私は、妙心寺駅西北の小高い丘に1925年から'31年までマキノプロダクション御室撮影所があったと、ネットの検索で知り、前回2006年3月7日にMK車でやはり妙心寺駅前を通ったのですが、車から降りて場所を探しませんでした。
 
 今回はその淡い後悔から、車から降りて駅近くのPost officeでお聞きしました。

 職員の方が表に出てきて、ご親切にも、ここが撮影所の道具置き場であり、、西北の丘を指しながら、あそこにマキノ御室撮影所があったと聞いていますと教えてくださいました。

 職員の方のご親切が、ほんとうに有難かったです。

妙心寺駅からマキノ御室撮影所跡(丘)方面を望む
                                  
 (車の後方の山は優しく可愛い衣笠山)

 
 北には衣笠山が望めました。
 
 私は、マキノ御室があったという小高い丘(山と呼ぶほうがふさわしい?)を眺めながら、若き日に映画作りに奔走していたであろう、父・日夏英太郎の面影を偲びました。

 そうだ! ここで1931年に英太郎が書いた「 処女爪占師」・「 紅蝙蝠」が写真(映画)になったのだと私は思いました。

 マキノ御室は、資金難などから1931年(昭和6)10月に解散しましたが、 まぎれもなく、ここは日本映画の父といわれるマキノ省三氏の進取の気風がただよう、自由で活気ある撮影所でした。

 そして、日本映画の初期の優れた脚本家とスターを育て、世に送り出した名撮影所でもありました。

  英太郎は同年に、二川文太郎監督と共に、松竹下加茂撮影所の演出脚本部に入ることが出来ました。

 高田浩吉主演の「雲霞の兇敵」・「辻斬ざんげ」などの脚本を手がけています。

 映画は1934年位までが無声映画の時代で以後トーキー映画に切り替わっていきました。

 日夏英太郎は、まさに無声映画からトーキー映画に変わりつつある時代の空気を吸っていました。
 
 あれこれ思うと感慨は尽きませんでしたが、やっと私は誰もいない妙心寺駅ホームに立ち、マキノ御室撮影所があった閑静な緑の丘方面をphotoに収めたのでした。

 


マキノ御室(右京区花園天授ヶ岡町)撮影所跡を背景にポーズ

 妙心寺駅近辺は、のどかで、マキノ御室撮影所が存在していた昭和時代初期を彷彿とさせていました。

 思いは尽きず、立ち去りがたい我が身に、「また来れば良いのだからね」と言い聞かせ、私は妙心寺駅を後にしました。

 

 まもなく北西に、荘厳な仁和寺二王門がみえてきました。

 私は車を降り、二王門に佇み 、三門の正面に顔をだしている大内山をみておもわず微笑みました。
 
 会いたかったでございま〜す。

   
 威風堂々・旧御室御所二王門

 

 金堂の背後に丸みをおびた大内山が姿を見せていました。
 
 とても、のどかな光景でした。

、私がつい最近まで探し求めていた場所・【日夏英太郎の植物園の柳の下】なる中賀茂橋の写真の背景には、大内山か衣笠山が写り(参照:父と母・京都の出逢い)、是非とも、この2つの山を近くで観たいというのが、私の念願になっていましたので、大内山の優しい容姿に接し、私は、しみじみとした感動を覚えました。
                      
                 
 車は、仁和寺から竜安寺・金閣寺前を通り、北山通りに入りました。
 そして、賀茂川手前を右折して賀茂街道に入りました。

 
 
私は、今日の行程のラストに賀茂街道から、1938年ごろ、日夏英太郎と花子が息子の憲之介と暮らしていた下鴨宮崎町の家の周辺をどうしても観たかったのです。

大文字山を背景に絶景の下鴨宮崎町周辺

                 

 対岸の賀茂街道から見る府立植物園のある半木道(なからぎのみち)の枝垂桜は、とても綺麗でした。
 
 人々は、三々五々憩いを楽しみ、花に酔っている様でした。

 やがて、車中から下鴨宮崎町の両親の家近辺の風景が見えてきました。
 
 そこには、かつての松竹下加茂撮影所もありました。

 満開の桜とたおやかな大文字山、そして賀茂川のせせらぎと・・・。
 
 
私は、のどかであまりにも美しい光景をただ見つめるだけでした。

 両親の冥福を祈りながら。

     参照 :   内海愛子 村井吉敬共著 【シネアスト許泳の昭和】 凱風社