|
越境の映画監督
☆ 京都慕情
2011年6月20日更新
|
|
|
今回の私の京都旅行の主な目的は、日夏英太郎と花子が生まれたばかりの息子憲之介と3人で睦まじく 暮らした下鴨宮崎町(1938年〜1939年)を訪ねることと、両親が新婚時代に住んでいた植物園前の自宅(1936年秋〜1938年春)近くにあり、父が笑顔でたたずむ写真の場所(“植物園の柳の下”と父の字で添え書きされた)、鴨川に架かる、かつての中賀茂橋付近を尋ねることでした。 前回の2005年11月10日、私は府立植物園内で、父の佇んでいた柳の木を探しましたが、結局、それらしき場所を見つけることが出来ず(参照:日夏英太郎・花子の足跡を訪ねて2)、諦めていました。 |
|
| しかし、その後O氏から、「植物園の中ではなく、入り口に面する通り(府立大学への道路)と賀茂川の接点がお父上の立たれた場所と推定されます。お父上の写真の左には中賀茂橋の碑が見え、しかも右側には「鹿鳴春飯店」の尖り屋根も映っていますよ。写真に定規を当てたら左の山は衣笠山か仁和寺のバックにある大内山でしたよ」との超人的なご指摘をいただき、見事に、あれほど私が焦がれた父の植物園の柳の下なる場所が判明したのでした。 | |
|
京都駅八条口から車
で、下鴨神社と府立植物園の中ほどにある下鴨宮崎町へ向かいました。 賀茂街道から風光明媚な下鴨の光景と大文字山を望む |
|
思えば、日夏英太郎の43才の生涯は、苦難の連続でした。 |
|
|
1945年に日本が米・英などの連合国軍に敗れ、太平洋戦争が終結して、朝鮮が独立しても、彼は祖国朝へも、妻子の待つ日本へも戻りませんでした。戻れなかったのだと思います。 父の心情を思うと娘として、いたたまれない気にもなりますが、戦後、黎明期のインドネシア映画界で映画製作と演劇指導に情熱を注ぎ、「天と地の間に」という代表作にも恵まれ、父は「我が人生に悔いなし・・・」とも言っている様にも一面では感じております(これは私の願望なのかもしれませんが)。 |
|
車中で日夏英太郎を偲んでいるうちに、車は風光明媚な、かつて松竹下加茂撮影所があった宮崎町へやってきました。
この辺りは、正に比叡山そして大文字山を背景に、前をのどかな鴨川が流れ、、対岸の賀茂街道からドライブするにも良し、京都の景勝地と言われています。 前回の昨年11月にも訪れていた私にとっては、馴染みの場所になりつつありますが、それでも今回は、両親の暮らした家の一角の特定という特別の意味がありました。 やはり宮崎町の家の周辺に佇んだときは、胸中をじんとくるものがありました。
英太郎が妻・花子と最愛の息子・憲之介と暮らした ちょうど、あるお宅から玄関前に出て来られた方から、撮影所跡地を教えてもらうことが出来ました。 |
|
|
さて、幸せをいっぱいもらい、私はO氏とともに中賀茂橋跡に赴きました。 鴨川は、やさしく私を迎えてくれました・・・。 中賀茂橋跡で
・・・(やはり後方に鹿鳴春飯店の尖がり屋根が見えます)
69年の時空を越えて、父と同じ場所にたたずむことが出来て、嬉しさが込み上げてきました。 中賀茂橋周辺は今ものどかで、あまり変わってない様に見うけられました。 下加茂撮影所跡から府立植物園へかけての鴨川は、私のいちばん落着く場所となりました。
― 両親の足跡を訪ねる私の思いを実現させてくださったO氏に感謝の気持 を捧げます ―
|
|
|
|
|