越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

                                                     2009年4月26日


こんなことも言えるではないか

一般時代映画に対して



  「下加茂」  
松竹下加茂映画雑誌

1933年(昭和8)10月号より引用

下加茂撮影所

        詩情     
  われゝが実際に於て、映画を観て打たれるのはその中の詩情で である。
 詩情のない映画ほどさみしいものはない。
  しかし、誤解して貰っては困る。
  僕が茲に採り上げる詩情とは、春雨だとか秋の落葉だとかを謂うのではない。
  ひとつの映画が語るところの絵の角度と、その色あい。そして人間の本当の息ぶき。
  そしてそれがソフィスティケイトされた度合の高い美しさ―である。
        
      剣戟の妙諦

  
いまどき、刀をふり廻して、それで得意になっているカツドオを、見せられる観客もいゝ気な
 ものだが、見せるほうも大抵いゝ気なものだ。
  人物の人間的な心理の動きには無頓着に、ひたすらに剣戟乱闘の妙諦を発揮するとても言う
 のかなあ。
  すべてのシャシンが、それなりの筋を持ち、按配された態裁で、一応それで事が済むのなら、
  われゝは何もこれからさき、勉強をする必要がないのであろう。


    
     情緒
  
情緒と言えば、衣笠氏の近作「二つ燈籠」のなかに採り入れられたあの絵のような情話ものに
 相応しい七夕祭や、宇羅盆等の古風な行事。
  それに蛍狩りの唄。笛売の呼声。百万遍の念仏―が、如何にあのシャシンとぴったり具うていたか
 ―という事を。
  「何だ、当り前じゃないか」という前に、あゝした採り入れものが、凡そ不自然でなかった例を
 持たない他の多くの時代映画を顧て、その老練さの前に、こうべを下げないわけには行かぬ。
  (省略)
  しかも、あれは経験が作ったものでもある。
  衣笠氏の如く、古くから映画と戦った人でない限り、あの情緒は、ちょっとやそっとでは滲み出ない
 ものなのだと。
  われゝが衣笠氏と共に「二つ燈籠」を中心に語りあったゆうべ、席上衣笠氏に質疑、これを全うした
 僕自身の問題―つまりキャメラのおき方が―またはフィルムの肉のりが―映画の全幅であるという
 カメラ・ポジション論。
  これに対して、氏は大きく肯定し、応答を以ってそれこそ!映画のすべてだと仰言った。
  溶明・溶暗と言えば、キャメラは常識的に全景にひかれ、場面転換といえば、茶碗や障子乃至履物
 で、つないで行くやり方を定石とする日本映画でも、キャメラのおき方やフィルムの肉のりこそ
 すべてだと是認する氏の映画に対するアイを尊敬せずには居られない。
  大抵の人が、演技の盛り方を以って(サイレントもトオキイも、すべてシャシンの中心点はお芝居だと)
始終する観念をいつになったら、本当の映画のスガタへ近づけていけるか!

 

    ★ 日夏英太郎 ★
 


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