越境の映画監督  

   日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】
 日本・朝鮮・満州映画スター競演  

君 と 僕
  (1941年朝鮮・日本で撮影)  

                                2011年6月18日更新  


 

         2009年10月19日

     
     第22回東京国際映画祭で上映されました!

               

            
                   


      *スタッフ                              *キャスト
    製作 朝鮮軍報道部                  金子英助: 永田絃次郎     久保良平: 小杉勇       
    指導 田坂 具隆            木下太郎: 沈影          久保の妻: 三宅邦子 
    監督 日夏英太郎            木下の妻: 文芸峰       李白姫: 金信哉のちに金素英
    脚本 飯島 正・日夏英太郎      浅野謙三: 河津清三郎    英助の父: 徐月影
    カメラ 森尾鉄郎             妹・美津枝: 朝霧鏡子      英助の母: 佳山貞子
                                             訓練所の教官:大日方伝                        
                                                                                            満州の少女: 李香蘭


  

 『君と僕』のロケーションは1941年(昭和16)7月11日、朝鮮の京城(現在の韓国・ソウル)で開始して、同月31日からは百済の旧都としての香りが残っている忠南道

扶余に舞台を移して、『君と僕』の名場面となった白馬江の船上での場面などをフイルムに収め、8月6日ごろ再び京城に戻り、村の乙女達が志願兵・英助の出征を祝って踊る進軍舞で完了し て、高麗スタジオでのセット撮影に入りました。

 そして、10月上旬に『君と僕』は、内地の松竹大船撮影所でのセット撮影に入り、10月末には完成しています。

 『君と僕』は、志願兵と内鮮(日本と朝鮮)一体を謳った映画でしたが、物語のあらすじは 監督の日夏英太郎が残した当時の新聞記事の切抜から抜粋してみました。
 

 

          左から森尾鉄郎・田坂具隆・日夏英太郎
   
       京城・志願兵訓練所にて 〔1941年(昭和16)初夏〕

 

  

ー“志願兵”の決定版 =今月下旬から現地でロケ= 軍報道部で“君と僕”製作 ー 
 「映画の内容は烈々愛国の至誠に燃える志願兵の訓練所における旺盛なる責任感を描き、やがて晴れの国軍の兵士として砲煙渦巻く第一線に出動するが扶余を背景として純情の内地人女性が誠心寄せて遂に内鮮結婚により一体に結ばれ銃後を逞しく護っていくといふのである」  1941年7月6日付の〔京城日報〕

 ここで、当時の朝鮮半島を見てみますと、1910年(明治43)8月22日調印の韓国併合条約により、日本は韓国を日本の領土として、朝鮮総督府をおき治めていました(初代長官・寺内正毅)。
 
 1937年(昭和12)に日中戦争が起こると、朝鮮総督府(南次郎総督)は朝鮮人を天皇に奉仕する人間に育てようとして皇民化(内鮮一体)政策を開始しました。

 続いて1938年2月には、志願兵制度が導入され、軍隊でも皇民化教育が開始されました。


 1940年には「日本の映画法」と同じ内容の「朝鮮映画令」が朝鮮総督府令として公布され、製作・配給の許可制、文化映画・ニュース映画の強制上映、俳優、監督、撮影技師の登録制などで、戦争への協力なしには映画が作れなくなってきていました。

 1938年から1941年にかけて、志願兵映画が競って作られていきました。

 こうした中、1941年に『君と僕』は、製作朝鮮軍報道部、脚本飯島正と日夏英太郎、監督日夏英太郎、カメラ森尾鉄郎で作られ、朝鮮志願兵の花と謳われた戦死第一号である李仁錫上等兵をモデルにして、内鮮一体をテーマに、古都扶余での落花三千の百済の官女たちの切なくも悲しい物語や歌も採り入れ た娯楽性ゆたかな作品として仕上がっています。

 

                1941年8月・高麗スタジオにて
                   「君と僕」撮影中の日夏英太郎(左)

           配役は、すこぶる豪華でした ! 

 日本の入江たか子にたとえられていた女優の文芸峰(ムンイエボン)、日本でテナー歌手としても活躍中の永田絃次郎、朝鮮の長十郎と言われた沈影、そして満映に所属する人気絶頂の李香蘭と日本の興亜映画の小杉勇、東宝の大日方傳、松竹の三宅邦子、朝霧鏡子などの人気スターの競演でした。

 文芸峰は朝鮮の代表的スターで、1940年に貧しさゆえ学費を払えない小学生と教師との交流を描いた崔寅奎監督(チエインギュ)の『授業料』、浮浪児を引き取って孤児院を設立する孤児の 青年の物語『家なき天使』(1941年)にも出演してい ます。
 日本は1937年からの日中戦争の長期化に伴い、英・米国との対立が激化する中で、戦局の打開と東南アジア資源確保のため、1940年フランス領インドシナ北部に進駐、41年にはインドシナ南部にも進駐を行い日米交渉が行きづまり、開戦は決定的となっていました。

 さて、『君と僕』の完成に先立って、1941年8月4日午後7時40分から20分間、映画と同じスタッフ により京城放送局で 『君と僕』の第一回ラジオドラマが放送されました。

 独唱・永田絃次郎、合唱・京城放送合唱団、伴奏・京城放送管弦楽団、編曲並びに指揮・井上浅茅。
                                                 (1941年8月3日付 朝鮮新聞)
 

 映画『君と僕』の出演者は、進軍する志願兵訓練所生の数も入れると延人員5万人に達したということでした。
                      
(“君と僕”座談会より1941年9月20日付京城日報)
 
 
内地では11月16日に、朝鮮では11月24日に全国一斉に封切られましたが、京城の松竹明治座の宣伝文を見ると、“若人の映画 君と僕” 見よ ! 全十景に盛る多彩 ! 鮮烈 青春の感激を ! として、

 第1景から順に、合唱と群舞・みかんせい交響楽・君と僕主題歌よろこびの歌・白馬江・詩吟ファンタージ・
街はそよ風・酔へば大将などと書かれ、非常に熱がこもっていました。   

 
     
1941年10月20日付けの“都新聞”に

「内鮮はすべて日本語で、内地語で」といふ国策からセリフは全部内地語であるが、文芸峰、金素英など半島の俳優にはいきなり内地語で芝居は無理だろうといふので前者は忍節子、後者は羽田登喜子が吹き替へをするが、これがアフレコでなくシンクロだけに音をマッチさすのに骨折 りだった。という記事が載っています。

 『君と僕』のセリフは、主人公・金子英助の父母の言葉だけが朝鮮語で、あとは日本語でした。
 
 朝鮮総督府は1938年3月、第3次朝鮮教育令を公布して、内鮮共学のスローガンのもと、日本語の使用を強要し、朝鮮語は正課からなくなり、学校では日本と同じ教科書を使用していました。

  『君と僕』は、作成過程でフイルムが足りない、カメラやライトも不備で完全なものがない、しかも製作費も足りず、監督の日夏英太郎みずからが金策にも駆けずりまわらなければな らないという状況でしたが、関係諸兄の尽力により完成することが出来たスケールの大きい映画でした。

  『君と僕』で、もっとも朝鮮の人々の心を打った朝鮮の歴史と音楽が彩る「白馬江」のシーンをあげてみます。
   
 「船は英助と美津枝と白姫を乗せ白馬江を下って行く。
 
 百済が唐・新羅軍に攻めこまれた時、百済の官女三千人が、白馬江に身を投じて花と散ったという史蹟の落花巌・百花亭が佇む。

 しだいに船は落花巌・百花亭から遠ざかる。

 船頭に扮した朝鮮楽劇団の金貞九が「落花三千」の民謡を、英助の永田紘次郎が「陽山道」を歌った」

 歴史と美しい歌詞と哀調のメロディにのせ 、船が下っていく場面は、さぞ情緒たっぷりだったことでしょう。
 

 私は2010年10月6日に百済の古都、扶余(ぷよ)を流れる白馬江(はくすきのえ)を遊覧船で巡ってきました。

 穏やかな流れでした。

 そして、山があり美しいあまりにものどかな光景です。

 チョゴリを着て花びらの様に散った官女たちの「落花厳」の字は赤色(血)で書いてありました。

 私は遊覧船のデッキで、「君と僕」の白馬江を船で下る名場面を思い浮かべ、うっすらと涙が出てきました。

    “落花三千”

半月城(パンウルソン)越しに 四沘水(サジャス)見れば

流れる赤い帆が 落花岩に渦巻く

古の夢は風にそよぎ 暮れゆく皐蘭寺(こらんさ)に 水鳥が鳴く

たずねてみよう 三千宮女はいづこへ

たずねよう落花三千 いづこへ消えた

    
     (作詞 趙鳴岩 作曲 金海松)

 

 

             白馬江 (2010.10.6撮影)    

                       

           

            『君と僕』のスタッフ・一堂に会して・・
     ( 前列中央が小杉勇、その右に日夏英太郎) 
             1941年10月12日   松竹大船撮影所にて

  
   

 それでは、ラストに映画「君と僕」に対する批評を記します。

   
          讀賣新聞
 
 「君と僕」は半島人の間の愛国の熱情を「志願兵」応募の実情に結晶し、その赤誠の精神を主軸に内鮮1体の姿を描いてゐる。
朝鮮軍報道部の製作にかかるものだが、その構成の平明や表現の素朴さ故にあたゝか味のある作品としてゐる。

 それに何よりの魅力はこの映画製作の実際にあたっても内鮮一体の実をあげてゐることであり、たとへば、興亜の小杉勇、松竹の三宅邦子、朝霧鏡子、東宝の大日方傳、丸山定夫等に対して文芸峰や金素英、沈影等の演技陣の如きである。


 

 

 半島出身の歌手永田絃次郎の真摯な扮演も主演者としての面目をみせてゐるし、満映李香蘭の出演も彩りとしては面白い。

 作品として真向から論すればもちろん破綻もあげられいろいろ注文もあるが、国策的映画が陥るおつかぶせるやうなお談義も比較的少なく、うつろな掛声のないこともよい。
演出の日夏英太郎はさすが半島出身らしく、その風俗の取りだし方に融和性を忘れなかった」

         

 ― 1941年12月8日、日本は米国のハワイを奇襲攻撃して、太平洋戦争の火蓋が切って落とされました ―

 


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