越境の映画監督 日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】
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日夏英太郎と花子は少なくとも1936年(昭和11)の秋ごろまでには京都の植物園近くの家で結婚生活のスタートを切って、甘く、それなりに幸せな生活を送っていましたが、突然に平穏な日々がストップするという事件が起りました。
それは、1937年(昭和12)3月19日の「ロケ異変国宝姫路城爆破事件」でした。 英太郎は、責任者の1人として国宝保存法並びに鉄砲火薬取締規則違反等で、身柄を他の助監督1名、煙草製造業者1名と共に姫路少年刑務所に収容され、連日、姫路検事局で主任検事から取り調べを受けて4月に起訴された後、姫路の未決拘置所に移されて、やっと10月11日に保釈されました。 |
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翌1938年(昭和13)7月に大阪控訴院から、英太郎は懲役4月・執行猶予2年の判決を受けました。 そして、裁判所の法廷に被告として立たされた英太郎について「お父さんの弁論は、理路整然として、ほんとうに立派だったのよ」とも言っていました。 私は18、9才のころ、父のことが急に知りたくなり、無鉄砲にも亡き母からお名前を聞いていた衣笠貞之助監督に、お電話して「日夏英太郎の娘ですが・・・」と、切りだしたことがありました。「えぇー」と、衣笠氏は随分、びっくりしたお声を出されていましたが、後日、快く東京世田谷・赤堤のご自宅に私を迎えてくださ ったことがありました。
氏は身長も程ほどの、ちょっと恰幅のある和服姿もお似合いの、なかなかダンディーな、お話の楽しい方でした。
「大坂夏の陣」の撮影から20数年が経っていましたが、やはり事件のことは衣笠監督にとっても忘れられないことだったのでしょう。 |
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1938年9月28日に英太郎・花子夫婦に待望の長男・憲之介が生まれました。 憲之介の写真と劣らず英太郎が撮った妻・花子の写真も多く、やはり、ちょっとしたメモが書かれ、彼の几帳面でマメな性格の一端が見られると同時に、また如何に妻子を愛していたのかが伝わってきます。
英太郎には、とてつもなくハンサムな弟がいました。 |
京都下鴨の自宅にて (1939年初夏・花子22才と憲之介9ヵ月) |
英太郎の肉筆で京都下鴨時代とあり、下鴨宮崎町に住んでいた頃の写真です。 |
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滞在先の徳島にて (1942年初春・英太郎33才) |
松竹下加茂時代は、「雲霞の兇敵」(1933年)「辻斬ざんげ」(1934年)などの時代劇の脚本を書き、松竹時代の「佐渡おけさ」「姫君大納言」(何れも原作・脚本)が1939年に新興京都でも 映画化され、さらに1940年の新興京都時代は「花嫁十三夜」「安来節お秀」「千両役者」 などの原作・脚本を残しています。 私は母から父は「無法松の一生」の企画を温めていたと、聞いたことがあります。 英太郎にとって、 九州小倉の無骨で暴れん坊の人力車夫・無法松が、軍人の遺族の未亡人良子と幼い息子に献身し、良子への思慕を小倉の夏祭りに祇園太鼓を激しく打ち続けることで断ち切った岩下俊作著の無法松の生き方は、魅力的な題材と映ったのではないでしょうか。 母は父の交友関係については“お父さんには映画界で仲のよかったお友達が2人いたのよ。〜さんと内出好吉さん”と言っていましたが、あまりにスラリと言ったので、私は前者の方のお名前が聞き取れず、そのままにしてしまいましたが、もう一度よく聞いておくべきだったと淡い後悔をしています。 |
| 内出好吉氏は、テレビで一時期「水戸黄門」の監督をされていましたが、東北地方でお亡くなりになったのを、そうですね・・・15年以上も前になるでしょうか、私は新聞
記事で知りました。 私は、母から英太郎の学歴については、 早稲田で学び、さらに語学を東京外国語学校で学んだと聞きました。 「お父さんは何ヵ国語も話せたのよ」と、母は言っていました。 英太郎は1939年頃から、「東京に出たい・・・」と、花子に話していたということです。
1940年(昭和15)、11月・12月と英太郎は京都府立医大の耳鼻科に入院しました。 翌1941年2月に英太郎は京都太秦から東京の目黒に 自宅を移すと、すぐさま、単身心に描いていた映画作りを実現するため「京城」(現在のソウル)に赴きました。 |
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ここで、当時の朝鮮の状況に目を向けてみたいと思います。
1937年(昭和12)に日中戦争が起こると、朝鮮総督府は朝鮮人を天皇に奉仕する人間に育てようとして皇民化(内鮮一体)政策を開始しました。
1938年2月には、志願兵制度が導入され、軍隊でも皇民化教育が開始されました。 朝鮮総督府は同年3月、第3次朝鮮教育令を公布して、内鮮共学のスローガンのもと、日本語の使用を強要し、朝鮮語は正課からなくなり、日本と同じ教科書を使用すること にな りました。 |
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1939年(昭和14)11月には朝鮮民事令を改正し「創氏改名」を行っている。 一方、日本名への改称は任意でしたが、朝鮮人の約80%が改名したと云われています。
1938年、日本国内では「映画法」が制定され、劇映画脚本の事前検閲、製作・配給の許可制、文化映画・ニュース映画の強制上映、俳優、監督、撮影技師の登録制などで、戦争への協力なしには映画が作れなくなってきていましたが、朝鮮でも1940年に「日本の映画法」と同じ内容の「朝鮮映画令」が朝鮮総督府令として公布されました。 日夏英太郎も、こうした時代の流れのなかで、朝鮮志願兵と内鮮結婚をテーマにした映画作りを考えていました。
紆余曲折を経て、1941年(昭和16)7月11日に、京城でクランクインした「君と僕」です。
10月上旬には内地の松竹大船撮影所でのセット撮影に入り、
「君と僕」は10月末には完成しています。 |
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昭和16年11月 『君と僕』試写会のあと東京にて |
内地では11月16日全国一斉に封切られました。
「君と僕」の製作は朝鮮軍報道部となっていますが、資金援助はありませんでしたので、英太郎は、金策にかけずりまわらなければなりませんでしたし、しかも照明用のライト
、カメラ・録音機なども乏しく、機材の不備を補いながらの撮影でしたので、非常に困難のともなった映画作りであったと言えます。 |
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英太郎は永田絃次郎さんとは、特に親しかった様です。
「君と僕」は、朝鮮総督府の後援もあり、興行的には成功しましたが、批評は様々でした。
1941年から日米交渉が開始され、妥結点が探られたが、アメリカ側から日本軍の中国撤兵を要求するハル・ノートが提出され、交渉は決裂しました。 初めのうちは日本が攻勢でしたが、翌1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍は航空母艦4隻 、戦闘機300と制海権・制空権を一瞬にして失う大敗北によって劣勢におちいりました。
1942年(昭和17)は、英太郎がジャワに出征する11月までは、久しぶりに英太郎・花子夫婦にとって、ゆっくりとした時間が持て、3才になった長男・憲之介の成長を見つめ、家庭の幸せをあじわった時期でした。
英太郎は1942年11月に入り、花子との婚姻届けを役所に提出し、11月16日、陸軍報道班員として、ジャワに出征して、1944年(昭和19)2月10日、一旦帰京しましたが、3月5日ふたたびジャワに赴き、2度と日本の土を踏むことはありませんでした。
英太郎・花子の6年間の結婚生活は、こうしてピリオドが打たれました。
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