越境の映画監督  

   日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

  ☆英太郎・花子の結婚生活   

          2011年6月13日更新


 日夏英太郎と花子は少なくとも1936年(昭和11)の秋ごろまでには京都の植物園近くの家で結婚生活のスタートを切って、甘く、それなりに幸せな生活を送っていましたが、突然に平穏な日々がストップするという事件が起りました。

 それは、1937年(昭和12)3月19日の「ロケ異変国宝姫路城爆破事件」でした。

 英太郎が
衣笠貞之助監督率いる『大坂夏の陣」の助監督として臨んだ姫路城ロケ中に 徳川の兵士が豊臣側がこもる城の石垣を登っている時に砲弾が炸裂する場面でしたが、ロケ班が火薬の量を誤って、国宝姫路城の石垣を爆破して、死者1名と重軽傷者を出してしまった事件でした。

  英太郎は、責任者の1人として国宝保存法並びに鉄砲火薬取締規則違反等で、身柄を他の助監督1名、煙草製造業者1名と共に姫路少年刑務所に収容され、連日、姫路検事局で主任検事から取り調べを受けて4月に起訴された後、姫路の未決拘置所に移されて、やっと10月11日に保釈されました。

  翌1938年(昭和13)7月に大阪控訴院から、英太郎は懲役4月・執行猶予2年の判決を受けました。

 英太郎が保釈されるまでの間、若い花子にとっては先の見えない不安で、いっぱいでしたが、その当時のことを後に、母の花子は私に「映画関係者の方々にとても良くしていただいたの」と話していました。

 そして、裁判所の法廷に被告として立たされた英太郎について「お父さんの弁論は、理路整然として、ほんとうに立派だったのよ」とも言っていました。

  私は18、9才のころ、父のことが急に知りたくなり、無鉄砲にも亡き母からお名前を聞いていた衣笠貞之助監督に、お電話して「日夏英太郎の娘ですが・・・」と、切りだしたことがありました。「えぇー」と、衣笠氏は随分、びっくりしたお声を出されていましたが、後日、快く東京世田谷・赤堤のご自宅に私を迎えてくださ ったことがありました。

 氏は身長も程ほどの、ちょっと恰幅のある和服姿もお似合いの、なかなかダンディーな、お話の楽しい方でした。
 開口一番、衣笠氏は「日夏さんの消息はわかったの?」とお尋ねになり、首を横にふる私に、姫路城事件のことをお話になり「
裁判での、日夏さんの弁論は、立派 だった」と言ってくれました。そして不幸にも事件で亡くなった方についても、教えてくれました。

 「大坂夏の陣」の撮影から20数年が経っていましたが、やはり事件のことは衣笠監督にとっても忘れられないことだったのでしょう。
 衣笠氏は上機嫌で、若輩の私を駅まで送ってくださいました。

 母・花子の言ったことと衣笠監督の言葉から、私は父が非常に博識のある、弁のたつ人であることを知りましたが、才覚は、人を幸せにするものとも限りませんし、それは却って、英太郎を苦しめる役割も果たしたのではなかったのかとも思っています。

 

 1938年9月28日に英太郎・花子夫婦に待望の長男・憲之介が生まれました。
英太郎が、息子に心底から愛情を注いでいる様子が、彼の残したアルバムからうかがえます。

 トップ頁は「
憲之介と共に」と毛筆で書かれ、写真の横には、「ちょっ と怒った憲坊、機嫌が直った憲之介」などと彼の添え書きがあり、息子の仕草ひとつ、ひとつに一喜一憂する英太郎の父親としての顔があります。
そして、英太郎が嬉しそうに京都円山公園の満開の桜の下で憲之介を抱いている写真もあります。

 憲之介の写真と劣らず英太郎が撮った妻・花子の写真も多く、やはり、ちょっとしたメモが書かれ、彼の几帳面でマメな性格の一端が見られると同時に、また如何に妻子を愛していたのかが伝わってきます。

 英太郎には、とてつもなくハンサムながいました。
残念ながら、年齢も消息も分かりませんが、1939年(昭和14)、英太郎30才の正月に花子の母のまきを真ん中にして、英太郎夫婦と生まれたばかりの憲之介と一緒に、弟の顔も写っています 。

  京都下鴨の自宅にて  (1939年初夏・花子22才と憲之介9ヵ月) 

 
 弟は、美男子ゆえに、とても女性にもてたと従姉の麻子さんから、私は聞きました。

  英太郎の肉筆で京都下鴨時代とあり、下鴨宮崎町に住んでいた頃の写真です。

 また、翌1940年正月元旦にも“一家揃って記念写真”(京都太秦に住んでいた頃)という英太郎の添え書きがあり、いつも通りの柔和な表情の英太郎と、22才の初々しい素顔の花子が1才のかわいらしい憲之介を抱く 写真があります。

 英太郎は、
1939年(昭和14)秋ごろ松竹下加茂、演出脚本部から永田雅一 氏率いる新興キネマ京都撮影所の企画部に移籍しました。

 滞在先の徳島にて (1942年初春・英太郎33才)

 松竹下加茂時代は、「雲霞の兇敵」(1933年)「辻斬ざんげ」(1934年)などの時代劇の脚本を書き、松竹時代の「佐渡おけさ」「姫君大納言」(何れも原作・脚本)が1939年に新興京都でも 映画化され、さらに1940年の新興京都時代は「花嫁十三夜」「安来節お秀」「千両役者」 などの原作・脚本を残しています。

 私は母から父は「無法松の一生」の企画を温めていたと、聞いたことがあります。

 英太郎にとって、 九州小倉の無骨で暴れん坊の人力車夫・無法松が、軍人の遺族の未亡人良子と幼い息子に献身し、良子への思慕を小倉の夏祭りに祇園太鼓を激しく打ち続けることで断ち切った岩下俊作著の無法松の生き方は、魅力的な題材と映ったのではないでしょうか。

  母は父の交友関係については“お父さんには映画界で仲のよかったお友達が2人いたのよ。〜さんと内出好吉さん”と言っていましたが、あまりにスラリと言ったので、私は前者の方のお名前が聞き取れず、そのままにしてしまいましたが、もう一度よく聞いておくべきだったと淡い後悔をしています。

 内出好吉氏は、テレビで一時期「水戸黄門」の監督をされていましたが、東北地方でお亡くなりになったのを、そうですね・・・15年以上も前になるでしょうか、私は新聞 記事で知りました。

 
 私は、母から英太郎の学歴については、 早稲田で学び、さらに語学を東京外国語学校で学んだと聞きました。
  

 「お父さんは何ヵ国語も話せたのよ」と、母は言っていました。

 英太郎は1939年頃から、「東京に出たい・・・」と、花子に話していたということです。

 1940年(昭和15)、11月・12月と英太郎は京都府立医大の耳鼻科に入院しました。
彼が33才の冬のことですが、病状は分かりませんが、府立医大のベッドで、あるいは屋上で、英太郎は次の企画を練っていたと考えられます。

 1941年2月に英太郎は京都太秦から東京の目黒に 自宅を移すと、すぐさま、単身心に描いていた映画作りを実現するため「京城」(現在のソウル)に赴きました。

 ここで、当時の朝鮮の状況に目を向けてみたいと思います。

 1937年(昭和12)に日中戦争が起こると、朝鮮総督府は朝鮮人を天皇に奉仕する人間に育てようとして皇民化(内鮮一体)政策を開始しました。

 1面(村)1神社計画による津々浦々までの神社建立や毎朝の宮城遥拝、日の丸掲揚の強要などで、さらに10月には、「皇国臣民ノ誓詞」が制定され、職場や映画館など、あらゆる場所での斉唱を義務づけました。

 1938年2月には、志願兵制度が導入され、軍隊でも皇民化教育が開始されました。
 また、7月に、国民精神総動員朝鮮連盟が発足、約10戸を標準とする愛国班を作り、相互監視を強化して皇民化運動を支えた。

 朝鮮総督府は同年3月、第3次朝鮮教育令を公布して、内鮮共学のスローガンのもと、日本語の使用を強要し、朝鮮語は正課からなくなり、日本と同じ教科書を使用すること にな りました。

 1939年(昭和14)11月には朝鮮民事令を改正し「創氏改名」を行っている。
氏の創設は義務で男系血族による夫婦別姓を廃止し、日本式の「家の観念」を確立することに意図があったようです。

 一方、日本名への改称は任意でしたが、朝鮮人の約80%が改名したと云われています。

 1938年、日本国内では「映画法」が制定され、劇映画脚本の事前検閲、製作・配給の許可制、文化映画・ニュース映画の強制上映、俳優、監督、撮影技師の登録制などで、戦争への協力なしには映画が作れなくなってきていましたが、朝鮮でも1940年に「日本の映画法」と同じ内容の「朝鮮映画令」が朝鮮総督府令として公布されました。

 同年創立の「朝鮮映画人協会」も映画を通して内鮮一体の実をあげることを目的としていました。
 
 1939年から志願兵を題材にした多くの作品が生まれていました。

 日夏英太郎も、こうした時代の流れのなかで、朝鮮志願兵と内鮮結婚をテーマにした映画作りを考えていました。

 紆余曲折を経て、1941年(昭和16)7月11日に、京城でクランクインした「君と僕」です。

 私の自宅に残る1941年10月20日付の大都新聞から拾って見ると・・・。

 「既報したが企画は最初日夏英太郎監督が個人で立てた、といふのは日夏監督は半島出身で、内鮮結婚をして男子を儲けたが、当時はまだ半島に志願兵制度もなく半島人は軍務には全く無関係であった。こうしたところから日夏監督は成人の暁には内地の徴兵に応ずべく、愛児を内地人である妻君の戸籍に登録した程であった所 、昭和13年には半島に志願兵制度が確立、日夏監督の念願が達した訳である。

 このことからヒントを得て志願兵主題のこの企画が出来上がったのが本年初頭、直ちに半島の某氏と手を結び2月渡鮮、種々計画したが悉く失敗に終わった。
その失意のドン底にある頃、この計画が総督府に聞こえ全面的な援助を得ることになった」 云々。

 そして「大毎」・「京城日報」・「毎日新報」・「朝鮮新聞」などに撮影状況がたびたび載り、「君と僕」は京城での撮影を夏には終えているのが分かります。

 初め、「君と僕」の志願兵である主人公の英助の婚約者・
美津枝役を私の母の花子が演じていましたが途中で降板して朝霧鏡子さんに替わりました。

 当時のことを花子は、「水が合わなかったのか急に声がでなくなってしまったの」と語っていました。

 10月上旬には内地の松竹大船撮影所でのセット撮影に入り、 「君と僕」は10月末には完成しています。
 

昭和16年11月 『君と僕』試写会のあと東京にて 

 内地では11月16日全国一斉に封切られました。
 朝鮮では製作・朝鮮軍報道部、演出・日夏英太郎、配給・「君と僕」普及会として、
11月24日に「京城寶塚劇場」と「松竹明治座」で同時上映されています。
“全映画界の主演スターを網羅する素晴しいこの顔振れを見よ”とか“世紀の巨篇君と僕 封切記念協賛公演
君踊れ僕歌はん・朝鮮楽劇団全員60名大挙出演”など劇場側の宣伝も熱がこもっていました。

 「君と僕」の製作は朝鮮軍報道部となっていますが、資金援助はありませんでしたので、英太郎は、金策にかけずりまわらなければなりませんでしたし、しかも照明用のライト 、カメラ・録音機なども乏しく、機材の不備を補いながらの撮影でしたので、非常に困難のともなった映画作りであったと言えます。

 彼の、唯ひたすら映画を作りたいという情熱と、関係諸兄の尽力で、ともかくも完成することができた映画だったと考えております。

 
   とにかく、配役が豪華でした。
  アリランで有名な羅雲奎(ナ・ウンギュ)と『主なき渡し船』で共演し、一躍スターとなった女優の
文芸峰(ムン ・イエボン)、日本でキングレコード歌手としても活躍中の永田絃次郎(金永吉)、朝鮮の長十郎と言われた沈影、そして満映に所属する人気絶頂の李香蘭と日本の興亜映画の小杉勇、松竹の三宅邦子朝霧鏡子などの人気スターの競演でした。

 英太郎は永田絃次郎さんとは、特に親しかった様です。
 永田夫人の民子さんは、美しい方です。

  「君と僕」は、朝鮮総督府の後援もあり、興行的には成功しましたが、批評は様々でした。

 さて、この頃の日米関係は、日本が中国に進攻し、南方進出をくわだてたことから険悪になっていました。

 1941年から日米交渉が開始され、妥結点が探られたが、アメリカ側から日本軍の中国撤兵を要求するハル・ノートが提出され、交渉は決裂しました。

 
日本はアメリカに宣戦を布告、12月8日ハワイ真珠湾を奇襲攻撃して、太平洋戦争が始まりました。

 初めのうちは日本が攻勢でしたが、翌1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍は航空母艦4隻 、戦闘機300と制海権・制空権を一瞬にして失う大敗北によって劣勢におちいりました。

 1942年(昭和17)は、英太郎がジャワに出征する11月までは、久しぶりに英太郎・花子夫婦にとって、ゆっくりとした時間が持て、3才になった長男・憲之介の成長を見つめ、家庭の幸せをあじわった時期でした。

 春に3人で花子の姉夫婦が住む徳島を訪れています。
 そして8月には、英太郎は妊娠している花子と息子憲之介を伴い、静岡県沼津ホテルや静浦ホテルに滞在しています。

 英太郎夫婦にとって、10月には
長女・もえ子が誕生しました。
 もえ子のネーミングは、当時の新聞小説のヒロインから英太郎がつけたそうです。
 この頃、自宅は目黒から池袋に移っていました。
 

 英太郎は1942年11月に入り、花子との婚姻届けを役所に提出し、11月16日陸軍報道班員として、ジャワに出征して、1944年(昭和19)2月10日、一旦帰京しましたが、3月5日ふたたびジャワに赴き、2度と日本の土を踏むことはありませんでした。
 

 英太郎・花子の6年間の結婚生活は、こうしてピリオドが打たれました。
 


     「ロケ異変国宝姫路城爆破事件」の記述は、
     
内海愛子・村井吉敬共著『シネアスト許泳の「昭和』(凱風社) 参照させていただきました。


トップ頁へ                                その後の英太郎と花子