越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】
                                                                      
                                  2012年5月23日更新

 


 
京城の町 
   

   


      
 
北岳山を背景に景福宮とその左後方に青瓦台
                    (世宗大路広場から)
                             


 

私は201110月初旬に東京四谷の韓国文化院で開催された
「モダン都市京城の巡礼鍾路(チョンノ・本町展)」を観てきました。

京城の街並・地図・人々の暮らしなどが分かる

      貴重な展覧会を開催  韓国文化院

http://www.koreanculture.jp/info_news_view.php?number=1692

 
韓国・漢陽大学冨井正憲教授が中心となって企画されものです。

北村鐘路通り商店街復元地図(展示長さ12m)「光化門〜東大門」

南村本町通り商店街復元地図(展示長さ9m)「本町1丁目〜新町
 (現在の忠武路周辺)」

絵葉書(約100枚)などが展示されていました。

 
人々の1日の暮しを淡々と描いた清水宏監督の「京城」(1940年製作)も会場内で上映していました。

 
また偶然会場で、京城の小学校17校に通っていた方々の集い連翹(れんぎょう)の会に入っているご婦人とお話しする機会がありました。

  春になると、まっ黄色の連翹(レンギョウ ソウル市の花)が咲き、夏には白や薄紫の花をつける無窮花(ムクゲ・国花)が咲きます。

  とても綺麗だったそうです。

 
 
通学していた京城師範付属小学校は第一が日本人(うち2人が朝鮮貴族の両班の子弟)のクラスで第2が朝鮮人のクラスでした。(何れも40)

 お父様が京城大学医学部教授で何不自由なく暮していたそうですが、日本に引揚げてから苦労したと話しておられました。

それでは、日韓併合時代の京城(現在のソウル)の町の様子を述べてみたいと思います

   町には日本式の町名が多く付けられていました。

 
  京城は、500年以上も李氏朝鮮の都として栄え、景福宮・徳寿宮・昌徳宮・昌慶宮・慶熙宮(キョンギグン)などの5つの美しい王宮・離宮跡があります。

  北に北岳山
(三角山)がそびえ、南に緑豊かな南山があり、南山の南には川幅の広い漢江が流れています。

  京城は美しい都であり、自然の要塞をなしていました。

  日韓併合前までは、漢城
(ハンソン)と呼ばれていました。

  南山の麓にあるお寺からボーン、ボーンという鐘の音が静かに聞こえてきたと云われます。


  本町と明治町の中ほどにあるフランス教会のチャイムも美しい音を響かせていました。

 
朝鮮総督府は北の北岳を背景とした景福宮の正面総督府庁舎を置き、1925 (大正14) 年に京城市街の南山の高台に天照大神と明治天皇を祀る官幣大社の朝鮮神宮を建立しました。(全土に60余の神社を造る)

  
日本の威信をかけた3年がかりの大工事だったと言われます。

  朝鮮神宮は朝鮮全体の鎮守であり、京城の鎮守としては京城神社が南山の山麓に建てられました。

  日本の敗戦後、朝鮮神宮は取り壊され、跡地には初代韓国統監として韓国併合への道を開いた伊藤博文1909年に満州のハルビン駅で暗殺した抗日運動家・安重根(アンジュングン)義士記念館が建っています。
 
  安重根は韓国では英雄です。

  朝鮮総督府は道幅の広い太平通り
(現 太平路 )と数百メートルの長さの光化門通り(現・世宗路)に、北と南を結ぶ路面電車を走らせ、また東西にも敷設しました。

  南に南大門京城駅、ほぼ中ほどに京城府庁、北に総督府などの停留所がありました。

  総督府庁舎のすぐ南、太平通りの西側には、朝鮮日報・府民館・京城中央放送局
(JODK)・救世軍・イギリス領事館などがあったと云われます。

 
南山の麓に朝鮮ホテル(現ウェスティン朝鮮)半島ホテル朝鮮銀行京城郵便局明洞聖堂東洋拓殖会社、商業銀行などルネサンス様式の近代的高層建物が造られました。

  本町・長谷川町・黄金町・明治町など多くの日本人町が作られ、日本人が急増していきました。


 鍾路より
2ブロック南の本町(現・忠武路)は日本人町の中で最もにぎやかな町であったと云われます。

 
本町通り手前左には、三越百貨店京城店(現新世界百貨店)、右には京城郵便局があり、本町通には三中井百貨店(現ミリオーレ)、日本楽器、明治屋などがあったと云われています。

  秋の例大祭には、日本人町から神輿が奉納され、また京都の時代祭を彷彿させる公家や神官、武士などに扮した仮装行列が京城神社から出発して、京城駅前の南大門通りを通り、太平通り
(北の正面は朝鮮総督府)にある府庁を迂回して黄金町辺りまで練り歩いたとも云われます。

 
太平通りから本町へ向かう斜めの道が長谷川町朝鮮ホテル(現・ウェスティンチョースン)があり、隣には雅叙園がありました。

 
ちなみに私は201010月にウェスティンチョースンに宿泊しましたが、ここは1941年秋に私の父・日夏英太郎が演出した映画「君と僕」出演者の座談会が行われた場所でもあります。

  長谷川町の東側の明治町
(現・明洞)には、松竹系の明治座(現・明洞芸術劇場)がありました。

  
京城には、明治座を含めて京城宝塚劇場、喜楽館、黄金座など7館があり、邦画やアメリカ映画などを上演していたとも云われます。

  南山の麓の大和町
(現・筆洞)には、朝鮮人のみならず内地人にも怖れられた憲兵隊があり、真北には昌徳宮がありました。

  また、漢江の北側の龍山には日本陸軍第七十八七十九連隊が駐屯して、陸軍司令部もあったと云われます。

  半島に住む日本人は、日韓併合
3年前の1907年には約10万人で、31年後の1938には64万人であったそうです。

  京城に多くの日本人が住むあおりを受けて、旧来の朝鮮人居住者は鍾路通より北に住み、あるいは地方に転出した者も多かったと云われます。

  朝鮮の近代化は朝鮮総督府がもたらしたとも云われますが、一方で山麓や丘の斜面などに粗末な小屋を建てて家族で生活する土幕民や川の両側に住みつく野宿者がいました。

 京城は日本の統治時代に確かに存在した大都市でした。


  この町で内地人も一生懸命生きていました。

 戦争のはざ間でどんなに困難な時代を過ごされたことでしょうか。


  しかし、それは日本が近代化した兵力で日露戦争に勝利を収めた結果、併合した他国・朝鮮の土地でした。


 そして、どんなにか韓国の方々に屈辱をしいたことでしょうか。

  京城は、うたかたの町であったと云えるかも知れません。
 ソウルを訪れたら、かつての日本人町と当時を生きた人々
(内地人)の生活に思いを馳せたいと思います。

  そして、これからも日本と韓国が信頼し合える間柄であることを願いながら美しいソウルの町を歩きたいと思います。


 

  参照: 母の「京城」・私のソウル
              沢井理恵著  草風館

     
 


 

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