越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】
                                                                      
                                    2012年3月14日


 関釜連絡船 
   

   


      
 ウェスティン・チョースン
                           (旧朝鮮ホテル)
                             


 日本とロシアの間で朝鮮・満州支配をめぐる対立から日露戦争(19045)が起こったが、これに勝利した日本は、韓国を保護国化し、南満州を勢力範囲においた。

 関釜連絡船は日露戦争終結後の1905(明治38)年9月から、朝鮮半島を隔てる下関と釜山(226キロ)を結んだと言われる。

 始めは3000dクラスの「昌慶丸」や「徳壽丸」が往来していたが、
1937(昭和12)年に日中戦争が始まるころから、冷暖房が完備した7000dクラスの興安丸などが就航し、約7時間で玄界灘と朝鮮海峡を越えた。

 当時国策として、満州へは日本の農村から開拓団の人々約20万(家族含む)が入植していたが、それらの人々や、満州や半島に応召された軍人たち、半島で暮らす多くの人々、日本国内の労働力不足を補うため北海道や九州の炭鉱へなかば強制的に連行された朝鮮人労働者たちが関釜連絡船を利用したと言われる。

 日本とアジア大陸とを結ぶ最短、最速のコースでもあった。

 1942年には、輸送人員は305万人超であったと言われる。

 釜山桟橋に着いてから、京城行き特急「あかつき」、満州国新京行き急行「のぞみ」、北京行き急行「大陸」、奉天行き急行の4本の列車に連絡。

 朝鮮から満州へは、朝鮮鉄道で釜山から京城に行き(京釜線)、京城から平壌を経て新義州(京義線)まで行き、南満州鉄道(満鉄)に乗換えて満州に入るルートもあった。
 (日本が何れも敷設)

 関釜連絡船内や桟橋には、私服刑事が目を光らせていた。

 当時は、富国強兵、領土拡張をはかる大日本帝国の時代で、政治批判などはいっさい出来なかった。すぐに憲兵隊に連れて行かれ拷問を受けたと云われる。

 それでも内地(日本)でも半島でも内地人は、たくましく生き、小さな幸福を味わっていた。

 日本の敗戦後、興安丸などは引き揚げ船としての役割を担ったと言われる。

 ちなみに釜山の名称は日本人が船の中から釜の様に丸い半島の山を見て、「釜山」と名付けたと私の韓国の知人は話していた。

 
参照: 
ウエブ 「遠い日の東アジアで」 中村卯一

 

    写真は、ソウル小公洞にあるウェスティン・チョースン(旧朝鮮ホテル)
    京城時代は隣に雅叙園があった(旧長谷川町)

 

 


 

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